〜鵜戸神宮〜

 鵜戸神宮は、宮崎県日南市にある神社です。旧社格は官幣大社で、現在神社本庁の別表神社に指定されています。
 日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっています。

「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「う」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てています。古くは「鵜戸権現」とも称されましたが、1868年(明治元年)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となりました。
 ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトを主祭神とし、相殿にオオヒルメノムチ(天照大御神)以下の皇祖神と神武天皇を祀っています。
 主祭神降誕の地とされ、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めています。また境内には主祭神の陵墓とされる古墳もあります。

 それでは、鵜戸神宮を見て参りましょう。

鵜戸神宮のバス停から、10〜15分ほど歩くと、門が見えてきます。


桜門。


桜門の左にも、また門があります。


さて、ここから海岸線をしばらく歩きます。


橋を渡って……。ちなみに、以前この辺りは崖崩れがあったそうです。


この写真で橋の先にちょっと見えている小屋では、飴湯や「お乳飴」が売られています。


玉橋。「神橋」とも呼ばれ、釘を一切用いない橋板36枚からなる反橋で、金剛界37尊を現す(36枚の橋板が36尊を、橋を渡る本人が1尊を現す)と伝えています。1760年(宝暦10年)に別当隆岳が撰述した「鵜戸玄深記」に、往古よりこの橋を境に不浄の履き物を禁じているとの記述があり、ここから先は裸足で参詣する習いでしたが、戦後にその風習は廃止されたのだそうです。


手水舎が見えてきました。


亀石が見えます。詳しい解説は、また後ほど。


さて、それでは本殿に入ってみましょう。


社殿は本殿・幣殿・拝殿が一体となった権現造(八棟造)こけら葺で、極彩色を施しています。拝殿には千鳥破風と唐破風を飾っています。正徳元年に飫肥藩主伊東祐実が改築したものを、1889年(明治22年)に大改修し、その後1968年(昭和43年)、1996年(平成8年)にも改修が行われました。幾度の改修を経たとはいえ、その様式は往時のままであり、文化的価値が高いことから、1995年(平成7年)に県の有形文化財に指定されました。



撫でうさぎ。


お乳岩。本殿裏にある乳房に似た2つの突起で、豊玉姫が綿津見国へ去る時、御子の育児のために左の乳房をくっつけたものと伝えられ、主祭神はそこから滴り落ちる「お乳水」で作った飴を母乳代わりにしたといわれています。現在も安産や育児を願う人々から信仰されています。



先程の写真にも写っていた亀石です。本殿前にある霊石で、豊玉姫が海神宮(わたつみのみや)から来訪する際に乗った亀が石と化したものと伝えられています。石頂に枡形の穴が開くことから「枡形岩」とも呼ばれ、その穴に男性は左手、女性は右手で願いを込めた「運玉」を投げ入れることで願いがかなうといわれています。


「運玉」。元々は貨幣を投げ入れる風習でしたが、1952(昭和27年)頃、落ちたお金を求め崖を降り磯に出る子がいて問題になり、賽銭に替わるものをと鵜戸小学校、鵜戸神官ともに試行錯誤した結果、1954年(昭和29年)から鵜戸小学校の児童らによって作られる、粘土を丸め運の文字を押した素焼きの「運玉」が使われることとなったんだそうです。


手水舎と本殿を別の角度から。


以上、鵜戸神宮でした。


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