〜飫肥〜

 飫肥は、宮崎県南部日南市中央部にある地区です。もと那珂郡飫肥町で、飫肥城を中心とした、飫肥藩5万7,000石の城下町でした。
 江戸時代の武家屋敷町、町人町、寺町などの町並みが多く残され、市街地の八幡通り、横馬場通り、大手門通りなど7街路を含む19.8haが文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。
「九州の小京都」とも称されていて、多くの観光客が訪れています。

 では、飫肥を見て参りましょう。

まずは飫肥駅から。正面図です。


飫肥駅の全景です。
飫肥城の城下町、日南市飫肥地区の中心駅ですが、市街地からは約500mほど離れた酒谷川の対岸に存在し、駅の周囲はやや閑散としています。
実際に、バスの終点である飫肥停留所からも結構離れていました。


観光案内図です。


用水路にはたくさんの鯉が泳いでいました。


飫肥城の大手門です。
飫肥城の大手門は、明治の初めに取り壊されましたが、昭和53年(1978年)に飫肥城復元事業の第2期工事として、歴史資料館と共に復元建設されました。


飫肥城は、江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えていました。
飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。


飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていました。
さて、ちょっと城跡を散策してみましょう。


城壁が続きます。


杉の木陰が涼しげです(笑)。


写真には撮っていませんが、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられています。


旧本丸に続く石段です。
飫肥城は東西約750m、南北約500mの敷地内に大小13の曲輪と犬馬場などからなる広大な城だったそうです。
各曲輪はシラス大地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態をしています。
戦国時代には代々島津氏一族が城主でしたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が飫肥藩初代伊東祐兵に飫肥を領地として与えて以後、明治時代まで伊東氏の居城となっていました。
城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていました。


石段を登って……


さらに登ると……


今や本丸が有った場所は、杉林になっています。



裏門が見えます。


裏門を城の外から。以上、飫肥でした。


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