〜府内城〜

 府内城は、豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった日本の城で、大分城(おおいたじょう)とも呼ばれています。
 大分市街の中心に位置する梯郭式平城で、安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めましたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させました。

 江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていましたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられました。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により、櫓が数棟焼失してしまいました。

 では、府内城を見て参りましょう。

まずは、道路からお堀と櫓を。


それでは、大手門から府内城に入ってみましょう。


大手門をくぐると……あれ?


かつては大分文化会館の建物があったのですが、2013年に閉館してしまいました。


府内城の縄張り。当時の城の様子が描かれています。
府内城という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことにちなんでいます。
府内には、古代には豊後国の国衙が置かれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点でした。


石垣の下には、大友宗麟の像があります。


石垣の上から、大分文化会館があった更地を。


反対側には、日本庭園が広がっています。


こちらにも櫓が立っています。


廊下橋と松栄神社が見えます。


日本庭園に降りてみましょう。


先程の櫓です。


廊下橋。松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。その山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架られていた渡り廊下が、この廊下橋です。


復元に先立って、平成7年度に行われた発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられている事も分かりました。
復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」が参考にされました。廊下橋の規模は、長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6mです。さて、その廊下橋を渡ると……。


先程の松栄神社があります。ここは慶長末期、上州(現在の群馬県)水沼村に松平家の祭神近正八幡宮として創祀されたのが始まりです。
山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。


鳥居はこんな感じです。


府内城でした。



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