つめ王


                    ☆

 春 三月――
 東京あたりでは、桜の花もそろそろほころびようとしていたが、ここ山形県と秋田県の県境に近い山岳地帯では、まだ雪が厚く残っていた。
 連なる山々の一つに神室山(かむろやま)という山があり、天狗の森へと続く辺りは、目もくらむような絶壁になっていた。
 その険しい崖の中ほどの所に一本の大きなブナの木が生えていた。そこは、猿かカモシカでなければ近寄れないような場所で、ブナの木は余程の古木と見えて、苔がついて空高くそびえている。
 その木の地上から二十メートルくらいの高さの所に、二羽の大きな黒褐色の鳥が、今年も巣作りを始めていた。そこは太い枝が二本出ていたから、巣を作るには都合がいいのだ。険しい場所だけに、人間も滅多にやってこない。だからこの鳥たちは安心して、もう十数年もずっとここに巣を作り続けていた。この夫婦の鳥は、クマタカであった。
 クマタカはタカの一種ではあるが、身体が大きく性質もワシに近い猛鳥で、両の翼をぴんと広げると、翼の端から端まで二メートルほどに達した。身体は雄の方がやや小さいが、雄には額の所に睫毛(しょうげ)という飾り羽が生えていて、威厳があった。
 この夫婦のクマタカは、毎年元の巣の上に新しい木の枝を積み重ねて巣を作っていたので、巣はだんだん大きくなり、もう直径が二メートルぐらいになっていた。
 雄の方は少し年をとっていた。三十才ぐらいになっているので、彼が飛ぶときは、翼の両端が少し下がって「へ」の字形に見えた。雌の方はニ十才ぐらいだから、翼はぴんと水平に張られた。
 夫婦のクマタカはせっせと巣に小枝を運び、羽毛でもって柔らかい寝床を作った。もうすぐ卵を産むのだと知っているからであった。
 雪はだんだんと降らなくなり、雪の代わりに暗い空からは雨が降るようになった。それは気候が暖かくなってきていることを示している。
 やがて雌のタカは一つの卵を産んだ。卵は少し赤みがかっていて、鶏の卵の倍以上の大きさがあった。
 雌鳥は産み落とした卵を抱いて、巣の中にじっとこもっていた。そこで雄鳥が食べ物をとって運んでやらなければならなかった。
 雌鳥は、雄鳥が捕まえて来てくれたウサギやヤマドリや、野ネズミを食べて卵を抱き続けた。
 一月ほどが経った。
 山林は新緑にうずまった。その頃、このクマタカの巣の中には雛が孵っていた。雛は黄色いふわふわとした柔らかい羽毛で包まれていた。
 クマタカは夫婦して力を合わせて、この雛を育てることで夢中だった。親タカたちは、代わる代わる飛び立って行っては、獲物を捕まえて戻った。母タカは獲物の肉を引き裂いて、飲み込み、胃の中で半分消化した肉を吐き出して雛に食べさせた。まだ弱い雛には、いきなり生の肉を与えることは無理だからだ。
 クマタカの親たちが捕まえてくる獲物の数は、雛が大きくなるにつれて多くなった。そこで、ウサギやヤマドリだけでなく、蛇でもテンでも、キツネの子でも、食べられるものは見つけ次第に捕まえて雛に食べさせた。
 雨が降ってくると、母タカは急いで巣に戻って雛にかぶさり、自分の体温で温めてやった。
 夏が来た。子ダカは見違えるように大きくなり、翼もしっかりしてきた。子ダカは親タカから見ると全体的に色が薄く、お腹の所が白っぽかった。一番違う所は、親タカたちが金色に光る目を持っているのに、子タカの目は水色だった事だ。
 子タカは親たちが見守る中で、しきりと羽を動かして飛ぶ稽古を始めた。
 そして最初は近くの枝に飛び移って見せた。枝から枝へ、何度かそうやっている内に子ダカの翼は強くなり、かなり遠くまで飛べるようになった。そこで親子のタカは巣立ちして、もうブナの巣には戻らなかった。
 親タカは子ダカに、自分の力で獲物を捕まえる勉強をさせようと考えた。これは厳しい野生の世界に生きてゆくためには、何よりも大事な学問と言えた。
 親タカたちは、最初に自分たちが獲物を捕まえて見せた。
 母タカと父タカは、子ダカを中に挟んで空高く飛び、ピーヨーと叫んだ。その鋭い声は山々に響き渡る。するとその声に驚いて、ウサギやヤマドリは逃げようとする。
 その動きはタカの目にすぐ映る。親タカは急降下して獲物を捕らえる。
 次には、一度捕らえた獲物をわざと逃がして子ダカに追っかけさせた。鋭い親タカの爪に掴まれたウサギは、酷い怪我をしていて思うように走れない。その為に子ダカに訳なく捕まるのだった。
 こうして子ダカは獲物を捕らえる事を学んだ。
 そこで、今度は親タカは手助けをしないで、子ダカだけにヤマドリを追っかけさせた。
 子ダカは勢い込んでヤマドリを追っかけた。ヤマドリは恐ろしいタカが上空から襲って来るのに気づくと、いばらの茂みに駆け込んだ。子ダカも続いていばらに飛びこんだ。
 雉やヤマドリや、ウズラやコジュケイは茂みを分けて走ることが出来る。だが、タカにはそういった性質は無い。子ダカはいばらで傷ついて鳴いた。子ダカの大切な風切り羽根が折れていた。
 母タカは、嘴で折れた羽根を抜いてやった。そうする事で、新しい羽が生えてくる事を教えたのだ。
 ヤマドリが藪の中に潜り込んだら、追っかけずに、近くの木の枝に止まって、じっと待つことを母タカは教えた。もうタカは居なくなっただろうとヤマドリが藪から出てくるのを待って飛びかかればいいのだ。待つという事は、追いかける事と同じように大切な事を子ダカは覚えた。
 冬になって獲物が少なくなると、子ダカは飢えた。飢えに耐え抜くことも大切な野生の学問であった。幸いに、タカには食いだめが出来るという性質があった。だから獲物が捕れた時は、血の一滴も余さないようにして食べ、その代わり何日でも食べずに過ごすという事も学んだ。
 冬が終わった時、もう親タカには子ダカに教えることは何も無くなっていた。
 親タカたちは、元のブナに戻った。子ダカも親タカについてブナの巣に近づいたが、そこで父タカの激しい攻撃を受けた。
 子ダカはびっくりした。何故、お父さんに叱られなければならないか分からなかったので、母タカに救いを求めた。だが、母タカも父タカと同じに、子タカを追った。
「もう、お前は一人前なんだよ。だから、ここから出ておゆき!」
 親タカたちは、子ダカにそう言っているのだった。

                    ☆

 二年が過ぎた。子ダカはもう立派な若鷹に育っていた。その目からは水色が消えて、薄黄色の光が漂っていた。そして背は暗褐色となり、灰白色の胸から腹にかけては、褐色の斑点が浮かび上がっていた。
 若鷹は両親のいる天狗の森から離れて、真室川上流の丸の森にすんだ。若鷹は雌であった。十歳に達しない彼女は、まだ少女のタカと言えたが、両親からいい性質と立派な体格を受け継いでいたので、まだ若くて経験は浅かったが、たくさんの獲物を捕らえることが出来た。
 朝の十時と午後の三時、若鷹は森を飛び立って、自分の領土である猟場を見回った。そんな時、若鷹の姿からは戦おうという勇気が火のように燃えあがっていた。
 若鷹が好きな場所に、熊鷹森という所があった。そこは真室川の上流にある小さな森で、頂上は岩が重なり、山腹は芝草で覆われ、山裾はスギ林が広がり、美しい池もあった。
 その年の秋も終わりに近づいたある夕方、一人の狩人のような老人が、この熊鷹森の中腹に立って、若鷹が空高く飛んでいるのを見ていた。老人は六十才をずっと超えているらしく、額に深いしわが見られたが、皮膚は日に焼けて、健康でつややかだった。優しそうな顔だが、目は鋭く光って若鷹の姿を追っていた。
「ううむ、いいタカだ」
 と、老人は独り言を言った。この老人は真室川の下流に住む鷹匠だった。タカを使って鳥や獣をとらえることは、世界でも古くから行われていたが、特にインドや中国では盛んだった。この技術が日本に渡ってきたのは、仁徳天皇の御代だと言われている。そして、タカ狩りが盛んになったのは鎌倉時代から戦国時代の世を経て、江戸時代までであった。戦国大名や武将たちは、兵を鍛えるためにしきりにタカ狩りを催したものだったが、明治になって大名や武士がいなくなり、発達した鉄砲が輸入されたので、もうタカ狩りなどする人は無くなっていた。
 ただ山形や秋田の山奥には、大名たちが使った小さなタカでは無くて、大きなクマタカで獣を捕らえる鷹匠が昔からあった。貧しい百姓たちの生活を、いくらかでも豊かにしようという目的のために始まったタカ狩りだったので、このタカ使いだけは明治以後になっても残っていた。
 この老人は、そういった鷹匠の最後に一人だといえた。老人は子供の時からタカを使って暮らしてきたが、まだ気に入ったタカにぶっつからなかった。老鷹匠は、自分が年をとって、もうそんなに長くは生きていられない事を知っていたので、自分が生きている間に、名タカと言われる立派なタカを育ててみたいと願い、タカを探しに方々の山々を歩いていたのだった。老人は名人の鷹匠だったので、ひと目見てこの若鷹なら自分が望んでいるようなタカに育てることが出来ると思った。
 数日して、老人は若者を一人連れて熊鷹森にやって来た。若者は老人の甥っ子だった。
 老人は若者に手伝わせて、スギ林に近い所に網を張った。網の糸は黒く塗られていたので、スギ林を後ろにすると見えにくい。
 それから、網から十メートル位離れた杉林の中に、人間が入れるほどの穴を掘った。
 網の前には杭を打ち込んで、それに白い鶏を一羽つなぎ止めた。鶏の足に紐を結び付けて、その紐を穴まで引っ張った。
 用意が出来ると、老人と若者は穴に潜り、上から見ても気づかれないようにむしろをかけた。
 午後の三時、老人はむしろの下から双眼鏡を出して大空を見つめていた。果たして峠の上にぽつんと黒い点が浮かび上がった。その黒い点は、明るい光に満ちた青空をすべるように、峰から峰へと移ってゆく。
「間違いない。あのタカだ」
 老人は、鶏の足に結び付けた紐を強く引っ張った。
 何にも知らずにまかれた米を拾って食べていた白い鶏は、足を引っ張られて転びそうになったので、ケッ、ケッ、ケ、ケケ……と叫びながら羽根をばたつかせた。その白い動くものが、目の鋭いタカに分からないはずはなかった。二秒か三秒の後に、若鷹は急降下して鶏を引っさらおうと爪を立てた。老人は、再び網のとめ糸を引いた。網はバサッとタカの上に落ちかぶさった。
「とったじえっ、おんつあん」
 若者が真っ先に穴から飛び出した。老人が網のそばに近寄ってみると、タカはぐったりとなった鶏をしっかりとつかんだまま、翼を縮めて大人しくしていた。若鷹は、ヤマドリを追って藪の中に入った時の失敗を覚えていて、こんな場合、暴れるのは損だと知っていたのだ。
 老人は若鷹を布でくるんで、自分の家に抱いて戻り、足に訓練用のひもを結び付けてから、落ち着かせるために暗いタカ小屋に入れてやった。
 そのタカ小屋は、捕らえてきた野生のタカを人に慣らすための小屋で、止まり木があるだけの暗い部屋であった。
 若鷹は、この暗闇の中で三日間を過ごした。水も飲まなければ、肉も食べなかった。お腹はすき、喉は乾いたが、若鷹は自分をこんな目に遭わせる人間に対して激しい怒りを持っていたので、その人間が与える水も肉も、口にしようとしなかった。
 一週間が過ぎ、二週間が経過し、間もなく三週間も終わろうとしていた。それなのにタカは食べようとしないのだ。
 こんな強情なタカは初めてだった。それだけに老鷹匠は、自分の目に狂いが無かったことが嬉しかった。
 鷹は酷く痩せ、フラフラになっていた。ただ気力だけで止まり木に捕まっているのだ。
「おんつあん、タカ死ぬんでないか? 放してやったらどうかな」
 と、若者は老人に言った。老人もそれを考えないわけではなかった。が、山に放してやるという事は、鷹匠として、タカを自分のタカに出来なかったという事になる。鷹匠がタカに負けた事になるのだ。鷹匠として一生かけてきた老人には、その恥ずかしさは耐えられない事だった。
 それに、もう遅すぎた。今、タカを山に放してやったとしても、タカは酷く弱っているから、獲物を捕らえることは出来ない。この場合このタカの命を救う方法は、ただ一つ――何としても食べさせることだった。
 鷹匠は決心した。いつもタカに近づく時は、タカの鋭い爪を避けるために籠手を手にはめてゆくのだが、この日はわざと籠手を外した。素手に鳩の肉をもって小屋に入った老人は、タカに近づいて左手でタカの胸に触れた。怒ったタカは死力を振るって鷹匠の腕に爪を立てた。さっと血が飛んだ。
 暗闇の中だが、血の匂いはタカに伝わり、タカは肉を思い出した。自分の爪の下でぴくぴくと動いているのは、与えられた肉ではなく自分の力で捕まえたものだと思った。タカはそこでついばもうとした。鷹匠は、右手に持っていた鳩の肉で、左腕を覆った。タカは鳩の肉をむしり取って飲み込んだ。
 一口、二口、三口……。
「ホーイ」
 と、鷹匠はそこで優しい声をかけた。爪が食い込んだ腕は痛かったが、鷹匠は歯を食いしばって我慢した。
 タカは鷹匠の落ち着いた、優しい声を聞いた時に、これは勝てない相手だと悟った。
 こうしてタカは、初めて鷹匠に慣れ、鷹匠は若鷹に「吹雪」という名をつけた。

                    ☆

 鷹匠は、タカを明るく太陽の差し込む小屋に移し、肉を十分与え、体力を回復させることに努力した。
 一度、鷹匠に慣れた吹雪は、もうそれからは大人しく老人の手から肉を貰って食べ、一か月も経たない内に丸々と太り、元気になった。
 やがて秋が来た。訓練をする季節だった。鷹匠は、他のタカを抱いて山に行こうともせず、吹雪の訓練に全力を注いだ。
 最初の訓練は、呼んだらすぐに戻って来て、鷹匠の腕にとまることだった。
 老人は吹雪を裏の末の枝にとまらせて、餌箱を叩いて、
「吹雪!」
 と呼んだ。吹雪はその声を聞くと、さっと飛んで老人の腕にやって来た。
「おう、よしよし、覚えたな」
 老人は吹雪の胸を撫でて、褒美の肉をひと切れ食べさせた。
 吹雪は野生のタカだったので、雛から育てたタカと違って、獲物を捕らえる事や襲う事は教える必要はなかった。もうちゃんと知っているからだった。だがその代わり、人や車や、馬や犬に慣れさせる必要があった。人間が飼っている犬や猫に襲い掛かったり汽車や自動車にびっくりして、暴れては困るからだ。
 吹雪は鷹匠が思った通りの、素晴らしいタカであった。利口で覚えるのも早く、また勇敢で、強かった。
 一年は訓練の期間だった。次の年の冬、老人は初めて吹雪を山に連れて行って獲物をとらせた。
 吹雪は鷹匠の命令を受けるまでもなく、よく働いて、そのひと冬で四百匹以上のウサギと、百羽以上のヤマドリ、それにテンだのムササビだのも捕らえた。

 さらに四年の月日が経って、吹雪は六歳になっていた。
 真室川の鷹匠がいいタカを育てて、毎年えらい数の獲物をしとめているそうだという、噂は広まった。
 その四年目の冬、安楽城(あらき)村という所の村長が、鷹匠を訪ねて来た。
「実は、近ごろ村の西の方にそびえている猪ノ鼻岳という山に、一匹の大きなキツネが住み着いて、村を荒らして仕方がない。わしらの村だけでなく近くの村々はみんな、鶏、アヒル、ウサギなどを捕られているんだが、なんせ悪賢いキツネで、罠をかけても引っかからないし、毒団子を撒いても食べない。かえって村の犬が引っかかって死んじまう始末だ。犬がいても平気だし、鉄砲を持って待ち受けている時は、どうして気づくのか、やって来ない。今夜わしらの村を襲ったかと思うと、次の晩はもうずっと離れた村を狙うという訳で、みんなも弱り切っているんだ。そこれ、お前さんのタカのことを聞いたもんで、お願いに来たんだが、何とか退治してもらえないもんだか……」
 と村長は鷹匠に頼んだ。
 鷹匠はしばらく考え込んでいたが、
「分かりました。さぞ、お困りですべ。まだ吹雪をキツネと戦わせたことは無いども、吹雪ならやれると思うから、まあ、やってみますべ」
 と承知した。
 次の日、鷹匠は吹雪を抱えて安楽城村の出かけて行った。その晩、村はまたもキツネに襲われた。
 翌朝早く、鷹匠は吹雪を腕に止まらせて山に登った。
 一日中歩き回ったが、キツネの姿は無かった。仕方なく帰りかけた時、雪の上に梅の花のような形の足跡が続いていた。間違いなくキツネの足跡だった。
 鷹匠は、どこかにキツネがいるに違いないと見まわした。
 いた! 大きな赤ギツネが、谷を挟んで向こうの猪ノ鼻岳の見晴らしの利く尾根にたたずんでいた。
 キツネは村から盗んできた鶏を食べていたところで、鷹匠に気付いてこっちを向いて見ていたが、この距離では鉄砲の弾も届かないのを知っているので、平気で鶏を食べ始めた。
 キツネのいる場所の方が、こっちよりは高いところにあった。これは上から下に向かって飛びかかる性質のタカには、悪い条件だった。それに、既に夕暮れになっていた。鳥の目は夜は見えなくなる。それに引きかえ夜行性のキツネの目は光り始める。
「まずいなあ……」
 と、鷹匠は思ったが、吹雪が勇み立っているので、つい、
「ほいっ!」
 と、掛け声をかけて吹雪を放した。
 吹雪はまっしぐらにキツネに飛びかかった。だが、キツネは年をとったずる賢い奴だったので、タカとどういうふうに戦ったらいいか、ちゃんと知っていた。
 キツネは牙をむいて、吹雪を迎え撃った。
 吹雪とキツネは、雪を舞わせてしばらく戦ったが、段々辺りは暗くなってきた。
 キツネとタカは、掴み合ったまま、向こうの谷間へ転げ落ちて行った。
「しまった」
 鷹匠は急いで向かいの尾根に駆け付けたが、もうその時は、雪の上に血と吹雪の羽が散らばっているだけで、吹雪の姿は見当たらなかった。
「吹雪よう、ふぶきいっ!」
 老鷹匠の呼ぶ声が、暗くなった雪山に寂しくこだましていた。

                    ☆

 鷹匠は家に戻って来てからも、首をうなだれて誰ともものを言わなかった。
 一日が経ち、二日が過ぎた。
「おんつあん、まま食べねば身体に悪いから……」
 と、甥っ子の嫁がご飯を持ってきたが、鷹匠は食べる気にもならなかった。
 三日目の夜は、雪がさらさらと雨戸に音を立てていた。
 と――ドシンと、戸に何かがぶっつかる音がした。家の者は、屋根から雪が落ちたんだろうと思ったが、鷹匠は、
「吹雪だっ、吹雪が帰って来たっ」
 と叫んで立ち上がった。
 雨戸を開くと、羽は折れ、傷だらけになった吹雪が雪の上に落ちていた。
 鷹匠は急いで吹雪を抱き上げて、頬ずりをした。吹雪も嬉しそうに、
「ピーヨ……」
 と、微かに鳴く。
「よく帰って来た。よく戻ってくれた」
 鷹匠の目からは、涙がぽろぽろと流れた。
 吹雪の傷は重かった。吹雪がどれほど酷く、あの赤ギツネにやっつけられたかが分かった。しかし吹雪は死力を尽くして、鷹匠の家に戻って来たのだ。

 それから鷹匠は、吹雪に薬をつけてやり、ほとんど寝ずに、つきっきりで看病してやった。
 そのおかげで、吹雪の怪我も一か月で、元通りの身体になるまでに治った。
 だが、鷹匠は心配だった。吹雪はキツネに負けたことで、怖気が付きはしなかったろうか――という事を恐れた。
 負け癖がつくと、もう駄目なのだ。良いタカは、どんな相手にも恐れず向かってゆく。
 吹雪はその良いタカだったが、これでキツネを怖がるようになったら、もう名タカとは言えないのだ。
 身体の傷は治っても、心の傷はそう簡単には治らないだろう。
 吹雪はキツネを恐れはしないだろうか。――それを鷹匠は恐れた。
「ようし、吹雪をもう一度、訓練し直そう。そして、もう一度あの赤ギツネと戦わせよう。その為に例え吹雪が死ぬようなことがあっても……。吹雪だって日本一のタカにならねば生きている甲斐もないべもな」
 鷹匠は決心した。
 それから三年間、鷹匠は吹雪に特別な訓練を施した。
 逃げる獲物は襲わせなかった。手向かってくる相手とだけ戦わせた。
 練習の相手に、鷹匠は猫、犬、タヌキ、アナグマ、テン、フクロウなどを選んだ。
 最後には、近所の狩人が捕らえたキツネを買って来て、戦わせた。

 いよいよ、戦いの時が来た。吹雪は以前とはまるで違って、たくましくなり、落ち着きが出た。
 鷹匠は、これなら戦えるだろうと思った。
 安楽城村の村長に尋ねてみると、赤ギツネは今も村々を荒らしまわっているという返事だった。
 鷹匠は、今度は誰にも知らせずに安楽城村に行った。
 この前は夕方に戦わせた。あれは戦法としてはまずかった。
 鷹匠は今度は、朝の内に戦わせようと考えた。
 タカは夜の内に十分眠る。キツネは夜通し起きていて、村を荒らして疲れて山に戻ってくるだろう。
 そこを山の頂上から逆落としに攻撃させるのだ。
 この前は、吹雪もまだ若くて戦い方もまずかったが、戦法を知らな過ぎた。戦いというものは、戦う前に、あらゆる条件をこっちの有利にしておく必要があるのだ。
 鷹匠は夜の内に山に差し掛かった。そしてまだ暗い内に猪ノ鼻岳の頂上に着いた。
 雪山の夜明けは物凄く寒い。だが、鷹匠は岩陰の風の当たらない所に、犬の皮を敷いて座ると、自分の狩りの上着を脱いで吹雪に被せ、暖かくしてよく眠れるようにしてやった。
 それから三時間ほどして夜明けが来た。アサヒはまだ出ていないが、雪山はもう十分に明るくなっていた。
 はるか下の方で、黒い物がちらっと動いた。鷹匠が双眼鏡で見ると、それはあの憎い赤ギツネだった。
「いよいよだ」
 鷹匠は、タカに着せた上着を取り、翼や足を揉んでやった。足に付けた訓練用の紐さえも外した。
 キツネは一度、川辺の水の中に姿を消したが、しばらくするとまた出て来て、猪ノ鼻岳の尾根に登り始めた。
 キツネは行く手に鷹匠とタカが待っている事を、全く気付いていなかった。
 鷹匠は吹雪を見た。吹雪も赤ギツネを見つめていた。この前の時は吹雪は羽を膨らませて、しきりと動いた。だが、今日の吹雪はじっとしてキツネを見つめている。それは自身がある証拠なのだ。
「うん、この落ち着きがあれば大丈夫だ」
 と、鷹匠は思った。
 鷹匠が吹雪を腕に乗せて立ち上がったのを見つけて、キツネはぎくっとして立ち止まった。
 その慌てた心の動きが静まらない内に、鷹匠は、
「ほれ、ゆけっ!」
 と大声を発した。吹雪はさっと急降下してキツネに迫った。
 赤ギツネは吹雪を覚えていた。
「なんだ、この前の奴じゃないか」
 と、鼻に小じわを寄せて、牙を剥こうとしてびっくりした。
 吹雪があまりにも強大な敵に見えたからだった。野獣の本能で、キツネは、もう到底吹雪に勝てない事を知った。そこで、ぴょうんと横に飛んで逃げようとした。
 藪の中に逃げ込めばいい――と考えたのだろう。
 だが、吹雪は許さなかった。
 ばさっ! と羽音を立てて飛びかかると、キツネの腰に左足の爪を立てた。その痛みに、
「ギャッ」
 と、キツネは振り返って噛みつこうとした。
 それより早く吹雪の右足の爪がキツネの鼻と顎を上手から掴んで、口が開けなくしてしまった。
 戦いはしばらく続いた。だが、鷹匠は安心して見ていることが出来た。 キツネが完全に死んで、長々と伸びた時、吹雪は鷹匠を見上げてピーヨーと甲高く鳴いた。
 朝日がさっと差し出て、その光に当たった吹雪の瞳は金色に輝いていた。
「吹雪よ、もうお前は立派な真室川の王ぞじえ」
 鷹匠は、吹雪を抱き上げて言った。



おしまい


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