海から来た牝牛


                    ☆

 マッテ爺さんとマーヤ婆さんの家は、海岸の側に建っていました。
 二人は冬の間はそこで暮らしていましたが、春になると、もう一つの家へ出かけていきました。
 もう一つの家は、海の真ん中の小さな小さな島の上にありました。その島はアトラ島と呼ばれていましたが、“島”というよりは“大岩”と言った方がいいくらいでした。何しろ、あっと言う間に島を一回りできました。島に生えている木は、全部で四本でした。それから岩の割れ目に、ちょぼちょぼと、草が茂っていました。畑には、マーヤ婆さんが植えたネギが三本あるだけでした。
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんのこの家は、小さな島の真ん中にありました。家と言うよりは、小屋と呼んだ方がいいでしょう。ドアには鍵がありません。長い木の枝をつっかい棒にして、戸締りをしました。小さな島の上の小さな小屋には、波が荒い日は、小屋のてっぺんに取り付けた風見がくるくる、くるくると回りました。
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは、春から秋にかけて、この小屋に住んで、毎日、漁をしました。この付近では、魚がよく捕れるからです。春は鮭、夏はニシン、秋はワカサギが網にかかりました。
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは土曜日になると、舟に乗って、町へ魚を売りに行きました。また、自分たちが冬の間、食べるために、鮭やニシンを塩漬けにしました。
 島は青い海の中に、ただ一つ、ポツンと浮かんでいました。波が荒い時には、何週間も舟を出すことが出来ません。目に見えるものは、海と空ばかりでした。訪ねてくる人もありません。
 それでもマッテ爺さんとマーヤ婆さんは、不平を言わずに暮らしていました。
 塩漬けの魚のタルが増え、お爺さんがパイプに詰めるほんの少しのタバコの葉と、お婆さんが飲むコーヒーがちょっぴりあれば、それで満足していました。
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは、プリンスという、名前だけは凄く立派な、やせた犬を飼っていました。
 プリンスは、お爺さんやお婆さんが魚を塩漬けにする時、それをカモメにさらわれないように番をしました。そして、ご褒美にはニシンの塩漬けをもらいました。プリンスは、ニシンの塩漬けが大好きでした。
 お爺さんとお婆さんと犬のプリンスは、小さな小さなアトラ島で、平和に暮らしていたのです。

 マーヤ婆さんは、アトラ島の暮らしに大体満足していましたが、一つだけ不満がありました。それで、時々つまらなそうな顔をしていることがありました。
(牝牛がいればねえ……。コーヒーに新しいミルクをたっぷり入れる事が出来るのにねえ……)
 マーヤ婆さんが、いつもコーヒーに入れて飲むミルクは、たまに町から買ってくるもので、古くなって、味が変わっていました。
 牝牛が一匹いれば、コーヒーに美味しいミルクを入れることが出来ます。甘いクリームも作れます。舌がとろけそうなバターも出来ます。
 マーヤ婆さんは、ミルクやクリームやバターが、この世で一番素晴らしいご馳走だと思っていました。
「ああ、牝牛が欲しいねえ」
 マーヤ婆さんは時々、独り言を言います。
「牝牛が一匹買えるくらいの金持ちになりたいねえ」
 すると、そばで網を繕っているお爺さんが言うのでした。
「町で牝牛を買うことが出来ても、どんな風にしてこの島へ連れてくるつもりだねわしらの小舟に牝牛を乗せてみろ。ひっくり返ってしまうぞ。それに、この小さな島で牝牛を飼うことが出来るかどうか、考えてごらん。岩の割れ目に生えている草など、一時間で無くなってしまうぞ」
「だって、この島には木が四本もあるじゃありませんか」
 と、マーヤ婆さんは言いました。
「ふふん、四本の木を食べさせて、それからお前が大事にしている三本のネギを食べさせるのかい。だが、その後はどうする」
「ニシンがあるじゃないの。ニシンで牛を飼えばいいんです。プリンスはニシンが好きですよ」
「牛にニシンをもりもり食われたら、わしがいくら網をうっても間に合わん。プリンスは、カモメに魚を捕られないように番をするし、牛ほどは食べないからね。婆さんや、もう、牝牛の事を言うのはやめなさいよ」
 マーヤ婆さんは黙りましたが、牝牛をあきらめきれませんでした。
(ああ、牝牛が欲しい……)
 いつもそう思っているマーヤ婆さんの心を、ますます掻き立てるような事が起こりました。
 ある日曜日の午後の事です。マッテ爺さんとマーヤ婆さんが、小屋の前の石段に腰を下ろしていると、そばにいたプリンスが沖の方を見て、わんわん、吠えました。
 綺麗な色に塗ったヨットが、帆をいっぱい張って、島に近づいてくるのでした。


 ヨットの上には三人の若者が乗っていました。若者たちは、お爺さんやお婆さんを見つけると、何か叫びながら手を振りました。
 ヨットが島に着くと、三人の若者は飛び降りて、お爺さんやお婆さんの側へやって来ました。
「こんにちは。嬉しいですね。こんな小さな島にも家があるなんて……」
 白い帽子をかぶった若者たちは、人懐っこく笑いかけました。
「僕たち、学生です。夏休みにヨットに乗って、海を回っているんです。でも、食料が足りなくなったので、分けてもらおうと思ってこの島へ来たんです」
 一人の学生が、
「お婆さん、僕たち、牛乳を飲みたいんだけれど……。少し、分けてもらえませんか」
 と頼みました。
 お婆さんは、つまらなそうな顔で手を振りました。
「この島には、牛乳はありません」
「じゃあ、クリームを譲って下さい」
「クリームもありません」
 学生は島を見回して、
「そうか、この島には牛がいないんですね」
 と言いました。
 それを聞いたマーヤ婆さんは顔色を変えました。牝牛を持っていない事を馬鹿にされたような気がして、小屋に駆け込むとドアを閉めてしまいました。
 代わりにマッテ爺さんが返事をしました。
「牛はいないが、ニシンはあるぞ。どうだ、ニシンの塩焼きは……」
 学生たちは、
「すごいぞ!」
「お爺さん、それを下さい!」
 と頼みました。
 マッテ爺さんは火を起こすと、ニシンを五十匹くらい持ってきて焼きました。
 学生たちは、焼きあがったばかりの熱いニシンを、ふうふう言いながら食べました。
 五十匹のニシンは、学生たちのお腹の中に、一匹残らず収まりました。
 学生は、マッテ爺さんに、自分たちの持ってきたタバコの葉を勧めました。上等なタバコでしたから、お爺さんは大喜びで、自分のパイプが割れるほど、ぎゅうぎゅうと詰め込みました。
「お爺さん、この島は、なんという名前ですか」
 と、一人の学生が訊きました。
 マッテ爺さんはパイプをふかしながら、上機嫌で、
「アトラ島だよ」
 と答えました。
「へえっ、アトラ島! じゃあ、お爺さんは海の宮殿に住んでいることになりますね」
「どうして、アトラ島が海の宮殿かね」
 と、マッテ爺さんは訊きました。
「僕たちはフィンランドの古い伝説の本を読みましたがね、海の王が住んでいる海底の宮殿の名前がアトラというのですよ」
 学生たちは、海の王の話をしました。

 ――フィンランドの古い伝説に、アーティという海の王の話があります。アーティ王は海の底のアトラ宮殿に住んでいて、海の生物を支配しています。アトラ宮殿には珍しい宝物があり、美しい召使がいます。
 召使はアーティ王や、海の女王エラモーに仕えています。また、アーティ王はたくさんの牝牛と馬を持っています。牛も馬も海草を食べて、とても太っています。
 アーティ王は音楽が好きで、人間が舟の上で楽器を鳴らすと海底から上がってきて、じっと聞いているそうです。そして、気に入った人間には何でも気前よくくれます。しかし、ちょっとでも嫌なことがあると、人間を舟もろとも海の底に引きずり込んでしまうそうです――。

 学生たちは、こんな風にアーティ王の話をしました。
「アーティ王にうまく頼めば、何でももらえるそうですよ。本にそう書いてありましたよ」
「ふふん、それは昔々の話だろう。漁師仲間でアーティ王など見た人はいないよ」
 マッテ爺さんは信じられないといった顔つきで首を振りました。
「でも、ちゃんと本に書いてありましたよ」
 と、学生はまた言いました。
 それから学生たちは、お爺さんに塩ニシンのお礼を言い、銀貨を一枚渡しました。島に渡ってきた時と同じように、元気に手を振りながら、またヨットに乗り込みました。
 学生たちは、ヨットに残っていた小さな肉切れをプリンスに投げてやってから、島を出発しました。
 プリンスは肉切れを一口で飲み込んでしまい、遠ざかっていくヨットを名残惜しそうに見送っていました。
 さて、マーヤ婆さんは小屋の中で、お爺さんと学生たちの話を聞いていました。
(海の底の宮殿に、牝牛がいるんだって……? 本当かねえ……)
 マーヤ婆さんは、狭い部屋の中で立ったり座ったり、落ち着きませんでした。
(ああ……。もし、海の底の牝牛をもらえたら!)
 マーヤ婆さんは、学生たちが、海の王のアーティは気に入った人には何でもくれると言った事を思い出しました。マーヤ婆さんだって、牝牛をもらえないとも限りません。
(そうだ! 海へ出て、頼んでみよう。物は試しだ)
 マーヤ婆さんは、自分が子供の頃、近所の年寄りに教わった呪文を思い出しました。その呪文を唱えれば、船から投げた網に、たくさんの魚がかかるのだそうです。うまくいけば、魚の代わりに海の底の牝牛が捕れるかもしれません。
(とにかく、やってみよう)
 マーヤ婆さんは小屋に入って来たマッテ爺さんに言いました。
「お爺さん、今夜、舟を出しましょうよ」
 マッテ爺さんは驚きました。
「婆さんや、今日は日曜日だよ。日曜には仕事を休むものだ。欲張って働けば、ろくなことは無いぞ」
「でも、昨日は魚が取れなかったんですよ。今日は波が静かだし、こんな晩に網を降ろせばニシンがいっぱい捕れますよ。一回だけやりましょう。泥棒するわけではなし、日曜日に働いても、構うもんですか」
 マーヤ婆さんにせがまれて、マッテ爺さんは舟を出す事にしました。
 マッテ爺さんは島からだいぶ離れたところまで舟をこいでいくと、そこに網をうちました。
 マーヤ婆さんは口の中で、妙な文句をぶつぶつと呟きました。小さなときに覚えた呪文です。


 マーヤ婆さんは呪文を唱え終わると、歌を歌いました。

   お恵み深い アーティ様
   お願いします アーティ様
   牝牛を一匹 くださいな
   太った牛を くださいな

   大金持ちの アーティ様
   お情け深い アーティ様
   宝は何も いりません
   私が欲しいのは 牝牛だけ

 これを聞いたマッテ爺さんは、
「何をブツブツ歌っているんだ」
 と、訊きました。
「放っておいてください。今が大事な時だから……」
 マーヤ婆さんは、舟の上から身体を半分乗り出して、海の底に聞こえるように歌い続けました。

   海の王様 アーティ様
   もしも牝牛を くださるなら
   お礼に上げます 銀の月
   金の太陽も あげましょう

「何を馬鹿な事を言うんだ」
 マッテ爺さんは、マーヤ婆さんの身体を舟の上に引き戻しました。
「日曜日の番、漁に出た事さえ恐ろしいのに、罰当たりな歌を歌って! もう、わしは嫌だ。網をあげて帰るぞ」
 マッテ爺さんは網を引き揚げました。網にはニシンがちょっぴりしかかかっていませんでしたが、マッテ爺さんは島へ舟をこぎ戻しました。
 マーヤ婆さんは網にニシンが少し入っているだけなのでがっかりしました。
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは島に戻ると、舟を岩の上に引き上げ、網をしまうのは明日にして、小屋に入りました。そしてベッドにもぐりこみましたが、二人はなかなか寝付かれませんでした。
 マッテ爺さんは、誰でも休む日曜日に働いてしまった事をくよくよ後悔していました。
 マーヤ婆さんは、呪文を唱えたり、歌を歌ったりしたのに、無駄骨折になったのが悔しくて眠れませんでした。
(どうしても、牝牛が欲しいんだが……)
 いらいらして、目がさえるばかりでした。
 その内に、小屋のてっぺんの風見がきいきいと軋み始めました。強い風が出て来たようです。
「婆さんや、風見がきいきい言っているよ」
 と、マッテ爺さんは言いました。
「波の音も強くなった……。どうやら嵐になるらしい」
「お爺さん、どうしましょう。波打ち際に網を置きっぱなしにしてきましたよ」
「早く引き上げよう。ぐずぐずしていると、波にさらわれるから」
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは、身支度をして外へ出ました。
 ビューッ――
 雨交じりの強い風が、二人の身体を壁に叩きつけました。お爺さんとお婆さんは慌てて柱にしがみつきました。
 海は荒れ狂っていました。波は夜目にも白い牙をむき、アトラ島にドシン、ドシンと寄せてきました。水しぶきは高く上がって、小屋の屋根にまでかかりました。
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは、頭からびしょ濡れになりました。網を取りに行くどころではありません。柱にしがみついていないと、波にさらわれそうでした。
「婆さんや、やっぱり罰が当たったじゃないか。日曜日に魚を捕ったりしたからだ。言わんこっちゃない!」
 お爺さんは恨めしげに叫びました。けれども、その声も雨と風と波の音に消されそうでした。
 マーヤ婆さんも牝牛どころではなくなって、
「お爺さん、お爺さん、もう、網の事は諦めて小屋の中へ入りましょうよ!」
 と、金切り声をあげました。
 二人は小屋の中に転がり込むと、ドアをしっかりと閉めました。
 小屋は風が吹くたびに、ぐらぐらと揺れました。
 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは、ベッドにもぐりこみ、島の周りで荒れ狂う波の音を聞いていました。今にも屋根の風見をむしり取ろうとするように、吹きまくる風の音に耳を澄ませていました。小さなアトラ島は、泡立つ波の中に沈んでしまいそうでした。
 その内に、マッテ爺さんとマーヤ婆さんは、色んな事で気をもんだ疲れが出てきました。ゴウゴウと唸る荒らしの音を聞きながら、いつの間にか眠ってしまったのです。

 あくる朝、マッテ爺さんとマーヤ婆さんが目を覚ますと、空は晴れ渡り、太陽がまぶしく光っていました。昨夜の嵐が嘘のようでした。
 青い海の向こうから、白い波がしらが後から後から寄せてきました。
「あれは何かしら……」
 マーヤ婆さんは不思議なものを見つけました。
 沖から寄せてくる波に乗って、茶色の獣らしいものが島に近づいてくるのでした。
「アザラシかな……」
 マッテ爺さんは、額に手をかざして眺めました。
 茶色の獣は波と一緒に岸に打ち上げられました。そして、水の中から全身を現しました。
 マーヤ婆さんは、自分の目がどうかしたのではないかと思いました。身体から海水を滴らせながら、一匹の牝牛がのしのしと島に上がって来たのです。
「牝牛だ、牝牛だ! どうしよう! どうしよう!」
 と、マーヤ婆さんは叫びました。
 水に濡れた毛がつやつやと光り、よく肥えた立派な牝牛でした。牝牛はゆっくりと歩いてきて、マーヤ婆さんの前に立ち止まりました。
 マーヤ婆さんは椅子にぶつかったり、テーブルをひっくり返したりしながら、バケツを持ってきました。そして、牝牛のお乳を搾りました。
   シュッ シュッ
        シュッ シュッ
 白いお乳が、バケツにほとばしりました。お乳はいくらでも出ました。マーヤ婆さんは鍋やボウルやコーヒーのコップまで持ち出しました。家じゅうの入れ物をいっぱいにしても、まだお乳は出ました。


 マッテ爺さんとマーヤ婆さんは搾りたての牛乳を飲みました。とろりとした、濃い牛乳でした。その美味しい事!
「有難い! 有難い!」
 マーヤ婆さんは牝牛の背中をなでたり、泣いたり笑ったりしました。
 マッテ爺さんは、牝牛がどこから来たのかと首をひねりながら、波打ち際に行ってみました。
 すると、昨夜、嵐のために流されたとばかり思っていた網が、元の所にありました。網の中にはたくさんのニシンが入っていました。
 アトラ島に牝牛が来てから、いい事ばかりが続きました。
 マッテ爺さんが舟を出すたびに、網が破れるほどのニシンが捕れました。マッテ爺さんは手伝いの男を二人雇ったほどでした。いつも舟が沈みそうなほど、ニシンをいっぱい積んで島に帰ってきました。それを町へ持って行って売って、たくさんのお金を儲けることが出来ました。
 マーヤ婆さんは幸せそうにニコニコして、牝牛のお乳を搾り、クリームやバターを作りました。コーヒーに、美味しいミルクをたっぷり入れて飲みました。
 牝牛は海の中へ入って行って、海草を食べ、また島へ戻ってきました。餌の心配を全然しなくても済みました。
 秋の終わりに、マッテ爺さんとマーヤ婆さんが海岸の家へ引き上げようとすると、牝牛は海の中へ入って行きました。春が来て、アトラ島へ戻ると、牝牛も帰ってきました。

 次の年も、アトラ島では魚がたくさん捕れました。マッテ爺さんは去年と同じように、召使を二人雇って忙しく漁をしました。魚の塩漬けがいっぱいになり、しまう所も無いほどでした。
「お爺さん、召使もいる事だし、もっと大きな家を建てましょうよ。そして、魚をしまう小屋を作りましょう」
 と、マーヤ婆さんが言いました。
 マッテ爺さんは、今までの倍ほどの家を建てました。側に魚をしまう小屋も作りました。
 魚はますますたくさん捕れたので、召使を四人に増やしました。魚の塩漬けを方々の町で売ったうえ、遠い外国まで送り出しました。
「ねえお爺さん、お手伝いさんを一人、雇いたいのだけれど……」
 と、マーヤ婆さんは言いました。
「家も広くなったし、召使のぶんだけ、余計に牛乳を搾らなければならないんですからね。私一人では忙しすぎますよ」
 マッテ爺さんが承知したので、マーヤ婆さんは、町からお手伝いさんを一人連れてきました。
 お手伝いさんがよく働くので、お婆さんは仕事がとても楽になりました。
 けれども召使が増えたので、今度は、朝みんなで飲む牛乳が足りなくなりました。
「お爺さん、牝牛を四匹に増やしたいですね。一匹の牛のお乳では足りませんよ。一匹飼うのも、あと三匹増やして世話するのも、手間は同じですからね」
「お婆さんの好きなようにしなさい」
 と、マッテ爺さんは言いました。
 マーヤ婆さんは日曜日の夜、沖へ小舟をこぎ出しました。そして、呪文を唱えてから歌いました。

   お情け深い アーティ様
   今度も 牛を くださいな
   あなたは千匹 牛を持つ
   私は三匹 欲しいだけ

 あくる朝、マーヤ婆さんが外へ出てみると、海から三匹の牝牛が出てきました。
 それからは、朝の牛乳を、みんなでたっぷりと飲むことが出来ました。
「婆さんや、これで文句はないだろう」
 と、マッテ爺さんはからかいました。
「私は牝牛を四匹持つ金持ちの奥様らしい身なりをしているでしょうか。町で立派な服を買ってきたいんですよ。お手伝いさんも、あと五人ほど頼んでみますよ」
 マーヤ婆さんは町へ行って、飾りのついた服を買い、新しいお手伝いさんを五人連れて帰りました。
「召使が増えたので、この家も狭くなりましたね。二階建ての家を作りましょう。そして離れも建てましょう。町から音楽家を連れてきて、バイオリンを弾かせながら食事をしましょう。それからね、町へ買い物に行くときは、モーターボートに乗って行きたいわ」


 マッテ爺さんはマーヤ婆さんの言う通りにしました。
 マーヤ婆さんは海の見えるソファーに座って、音楽家にバイオリンを弾かせながら食事をしました。犬のプリンスにも、上等の肉をやりました。プリンスはニシンの樽のように丸々と太りました。
 マーヤ婆さんは、またこんなことを言い出しました。
「こんな立派な家に住んでいるのに、牛が四匹とは情けないわ。あと三十匹は欲しいわね」
 マーヤ婆さんは日曜日の夜、モーターボートに乗って、沖へ行きました。
 そして呪文を唱えながら、歌いました。

   お礼に上げます 月の銀
   太陽の金も あげましょう
   私が今度 欲しいのは
   三十匹の 牝牛です

 マーヤ婆さんは、深い海の底のアーティ王に聞こえるように、繰り返して歌いました。
 あくる朝、外へ出てみると、アトラ島は牛で一杯でした。三十匹の牝牛が海から上がって来たのです。
 ところが困ったことになりました。小さなアトラ島に、人間とたくさんの牝牛がギュウギュウ詰めになりました。誰かが動けば、岸にいた人がこぼれ落ちそうでした。
 マーヤ婆さんは、マッテ爺さんに相談しました。
「この島は狭すぎますね。もっと広げたいのだけれど」
「海の水を、ポンプで汲みでしたらどうだい。嫌と言うほど広くなるよ。わしの舟に積んであるポンプを使ってもいいよ」
 と、お爺さんはからかいました。
「お爺さん、冗談を言わないで下さい。一生ポンプで汲み出しても海の水は無くならないでしょうよ。私は自分でやります。島の周りに石や土を投げ込めば、陸になって、島が広くなりますからね。おじいさんが手伝ってくれなくても、召使たちにさせますよ」
 マーヤ婆さんは、召使たちを指図して、舟にたくさんの石を積み込みました。
 贅沢な癖がついたマーヤ婆さんは、音楽家も一緒に乗せて、バイオリンを弾かせながら、舟を沖に出しました。

 舟の上の音楽家が弾くバイオリンの調べは、海の底のアトラ宮殿まで届き、音楽の好きな海の王のアーティ王や、エラモー女王の耳に入りました。
 アーティ王とエラモー女王は召使を連れて、海面近くまで上がってきて、バイオリンの調べを聞きました。
 アーティ王や、エラモー女王の金の冠は、水の中で日光に輝きました。
「おや、水の中でキラキラ光っているのは何だろう」
 マーヤ婆さんが見つけました。
「波が日光に輝いているので御座います」
 と、音楽家は答えました。
「そうかも知れないね。さあ、この辺に石を投げ込んでおくれ。どんどん、沈めておくれ」
 マーヤ婆さんは、召使たちに言いつけました。
 召使たちは大きな石を、
 ドボン、ドボン、ドボン。
 と、舟から海の中へ投げ込みました。
 波の下でバイオリンを聞いていた海の王や女王や、召使の上に、石が落ちました。海の王も女王も、石を避けることが出来ませんでした。
 一つの石は、海の女王のほっぺたに当たりました。もう一つの石は、召使の鼻をもぎ取りました。特別大きな石が海の王の顎にぶつかり、ひげの半分をむしり取って沈んでいきました。
 海はぐらぐらとお湯が煮立ったような騒ぎになりました。
 大きな波が、マーヤ婆さんが乗っている舟を揺すぶりました。
「おや、どうしたんだろう。どこから風が吹いてくるのかしら」
  マーヤ婆さんは船べりにつかまって、ぐらぐら波がたっている海を覗きました。すると、悪魔の舌のような大波が巻き上がり、マーヤ婆さんの乗った舟を飲み込んでしまいました。
 マーヤ婆さんの身体は、海の底へ底へと、ぐんぐん沈みました。
 マーヤ婆さんは夢中でもがいて、海の上へ浮かび上がりました。棒切れのようなものが手に触ったので、それにつかまりました。音楽家が海に落ちた時に放り出したバイオリンでした。
 マーヤ婆さんはバイオリンにつかまって、浮いたり沈んだりしていました。
 すると、そばの海面から、ひげが片っぽ取れてしまった妙な男が顔を出して、マーヤ婆さんを睨みつけました。
「恩知らずめ、なぜ海に石を投げ込んだ! わしはお前が欲しいと言うだけ、牝牛をやったではないか!」
 と、ひげが半分の男は怒鳴りました。
「あなたはどなたですか!」
 マーヤ婆さんは、バイオリンにつかまったまま訊きました。
「海の王アーティだ。お前が投げ込んだ石が、わしのひげを半分むしり取ったぞ。悪い奴め!」
「アーティ様、お許しくださいまし。あなたがこんな所にいらっしゃるとは存じませんでした。おひげの取れたところには、熊の脂をお付け下さいまし。おひげは熊のように、ふさふさと生えましょう」
「バカめ! 牝牛もやったし、魚も捕れるようにしてやったのに、太陽の金と、月の銀を寄こさぬではないか。どうしたのだ!」
「まあ、アーティ様、月の銀と太陽の金は、もうお届けしてあります。朝になれば太陽が昇って、金の光を海に投げます。夜は月の銀の光が海に落ちます。それが、太陽の金と月の銀です」
「よくも、わしを騙したな!」
 アーティ王は、マーヤ婆さんがつかまっていたバイオリンを、力いっぱい突き飛ばしました。
 バイオリンは、お婆さんを引っ張って、ロケットのように、波の上をすっ飛んでいきました。そして、アトラ島にどかんとぶつかりました。

 お婆さんはびしょ濡れになって島へ上がりました。
「おや、プリンス、どうしたの」
 犬のプリンスが波打ち際で、がつがつとカラスの骨をかじっていました。酷く痩せこけていました。
「あっ、お爺さん!」
 マッテ爺さんは、風見がくるくる回っているぼろ小屋の前の石段に座って、破れた網を繕っていました。擦り切れて、継ぎだらけの服を着ていました。
 マーヤ婆さんは、バイオリンを持ったまま、マッテ爺さんの側へ行って、
「お爺さん、二階建ての家はどうしたの? 召使は? それから、牝牛たちは……」
 と訊きました。
 網を繕っていたマッテ爺さんは顔をあげると、
「婆さんや、どうしたんだ。ずぶ濡れになって」
 と訊きました。


「それより、二階建ての家はどこへ行ったの。それから、牝牛は……」
 マッテ爺さんは気の毒そうにお婆さんを見つめました。
「婆さんや、もう朝だ。寝ぼけてはいけないよ。わしはお前よりも早く起きて、網を繕っているんだ。昨夜の嵐で網が破れたからね」
「お爺さん、私の牝牛はどうしたんですよう」
「お婆さん、もう、牝牛の事は諦めなさい。昨日、学生さんの話を聞いてから、お前は少し変になったよ。無理やり舟を沖へ出させて、妙な歌を歌ったりして……。昨夜はまた、牝牛の夢でも見たらしいな」
「夢じゃありません。この島に牝牛がいっぱい居たんです。アーティ王にもらったんです。私、アーティ王に会いましたよ。ご覧なさい。私の服は濡れています。海の底へ行った証拠ですよ。そして私が雇っていた音楽家のバイオリンも持っているし……」
「とんだバイオリンだな。棒切れじゃないか。お婆さんは寝ぼけて、海へ入ってびしょ濡れになったんだよ。溺れなくて良かった! 日曜日に魚を捕ると、ろくなことが無い。もう、二度とあんなことはしない方がいいな」
 と、マッテ爺さんは言いました。



おしまい


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