泣くな歓之助


                    ☆

「千葉の小天狗が強いか。それとも、練兵館の鬼歓が強いか」
 江戸はその噂でもちきりだった。
 何といっても、江戸は徳川将軍のおひざ元。それだけに、腕の立つ剣士も多く、名高い道場がいくつもある。その中でも、殊に有名なのが、

 北辰一刀流千葉周作の玄武館
 神道無念龍斎藤弥九郎の練兵館

 この二つだった。さらに今一つ、桃井春蔵の士学館を加えて、
「江戸の三大道場」
 とも呼んだ。
 千葉の小天狗と言うのは、千葉周作の次男栄次郎。鬼歓と言うのは、斎藤弥九郎の三男歓之助。どちらもまだ十五だが、竹刀を持てばめっぽう強く、たいていの大人は歯が立たなかった。そうなると、人々はすぐ比べたがる。
「あの二人、一体どっちが強いだろう?」
 だが、今年十二になる三平には、それが不満でならなかった。比べるまでも無い。そんな事は初めからわかっている。
「歓之助さんの突きは日本一。いくら千葉の小天狗でも敵うものか」
 三平はそう信じ込んでいた。とにかく、歓之助は強い。鬼のように強い。
「鬼歓だ。鬼歓が来るぞ」
 小さな子供たちさえ、歓之助の顔を知っていた。歓之助の突きは素晴らしかった。ただの一突きで、相手を引っくり返した。
「その歓之助さんが負けるはずはない」
 三平はそう思う。だから、
「いいや、千葉の小天狗がもっと強い」
 などと言おうものなら、相手かまわずムキになって突っかかる。それもそのはず、三平は町人の子だが、二年前から練兵館に入門して、
「おいらは歓之助さんの一の弟子」
 自分で勝手に決め込んでいるのだ。
「千葉の小天狗と鬼歓とは、どっちが強いか」
 人々の噂は歓之助の耳にも入ってくる。その度に歓之助は、唇を噛んで自分の胸に言い聞かせた。
「いつかきっと、千葉の小天狗と立ちあう日が来る。負けはせぬ。勝つ。必ず勝ってみせる」
 それは、千葉の小天狗――千葉栄次郎にとっても同じだった。
「栄次郎、お前にとって、将来最大の敵となるのは歓之助。歓之助一人を倒せば、後は恐ろしい者は無い」
「分かっています、父上。決して歓之助に負けは致しません」
 父の周作を見返しながら、栄次郎はきっぱりと誓った。

                    ☆

 桜も散りかけた、春も半ばのある日。その日も歓之助は、いつものように三平に打ち込みの練習をさせた後、今度は父弥九郎の門弟である青年たちを相手に、激しい稽古をつけた。
「おうりゃあっ!」
 腹の底まで響く、鋭い声と同時に、凄まじい突き。まるで竹刀の先から火が出るようだ。ただ一突きで、相手は引っくり返った。次も一突き、その次もまた一突き。歓之助の得意の突きに、たくましい青年たちが、たちまち十人余りも気を失った。歓之助は、汗もかいてはいない。
「相変わらず凄いや」
 見とれた三平が思わずため息を漏らした時、歓之助が面を外した。そこへ、父の弥九郎がやって来た。
「歓之助、手紙だ」
 その手紙は、兄の新太郎から来たものだった。歓之助より四つ年上で、今は父の弥九郎より強いと言われている新太郎は、去年から十名あまりの弟子を連れて、修行のため諸国を回っていた。
「さすがは兄上だ」
 歓之助は目を輝かせた。手紙には、長州萩(山口県萩市)の城下で、明倫館という道場に乗り込んだ新太郎が、長州藩の剣士たちをこっぴどく打ちのめしたことが書いてあった。
「よし、おれも兄上に負けないぞ。さあ、もう一度次々にかかって来い!」
 再び面を付けた歓之助は、ピタッと竹刀を構えた。
「お願いします」
 真っ先に三平が飛び出した。歓之助は、相手が例え年下の三平でも手加減はしない。
「おうりゃあっ!」
 目にもとまらぬ突きが見事に喉に決まって、三平は引っくり返った。だが、三平はすぐに跳ね起きてまた打ちかかる。二度、三度、四度――。
「まだまだっ!」
 突き倒されても突き倒されても、ひるまず三平は歓之助にかかっていく。それをニコニコしながら弥九郎が見ていた。
 それから二十日ばかり経った頃、大変な事が起こった。肩を怒らせた大勢の武士が、練兵館に押しかけて来たのだ。全部で十四名だった。
「我々は長州萩の明倫館から参りました。斎藤弥九郎先生にお手合わせをお願いします」
 一番強そうな先頭の男が、来島又兵衛と名を名乗って挨拶をした。言葉遣いは丁寧だが、目は挑みかかるような、険しい光をたたえている。
「さては、兄上にやられた仕返しに乗り込んで来たな」
 三平から報せを聞いた歓之助は、咄嗟にピンときた。
「三平、父上は」
「どこかへお出かけです」
「他には誰がいる?」
「強い方は、どなたもおられません」
 三平は、道場に残っている者の名を上げた。明倫館の剣士たちを相手に、五分に戦えそうな者は一人もいない。
「どうしましょう、歓之助さん」
「よし、わしが相手になろう」
 歓之助はすっくと立ちあがった。

                    ☆

「誰も相手をする者は居ないのか。いなければ表の看板は貰って行くぞ」
 歓之助が道場へ行ってみると、明倫館の剣士たちは大声を上げている所だった。
「お待たせしました。私は斎藤弥九郎の次男歓之助です。父が出かけておりますので、代わってお相手を致します」
 田舎から出て来たばかりの明倫館の連中は、鬼歓の名前など知らない。
「なんだ、子供じゃないか」
 見くびるような表情になった。手早く支度を済ました歓之助は、道場の正面に立った。見れば面と小手を付けただけで、胴は付けていない。男たちはいきり立った。
「何故、胴をつけんのだ」
「私は今まで一度も胴を付けた事はありません」
「生意気な!」
 真っ先に一人が進み出た。見るからに、腕が立ちそうだった。
「歓之助さんより強いかも知れない」
 急に心配になって、三平は目をつぶった。
「もし、歓之助さんが負けたら、練兵館の看板を持っていかれる……」
 だが、それは余計な心配だった。
「参ったっ!」
 どすんという鈍い音に目を開けると、相手は歓之助の一突きをまともに受けて、ながながと伸びていた。
「次の方、どうぞ」
「くそっ!」
 火の塊のようになってぶつかった次の男も、また一突きで倒された。三人目、四人目、五人目――。
「明倫館の名折れだ。しっかりかかれ」
 たまりかねた来島又兵衛が怒鳴った。しかし、技の違いはどうしようもない。六人目も七人目も、やはり一突きでやられた。
「腕利きを選りすぐって来たのに、何という事だ……」
 さすがに来島又兵衛も顔色を変えた。
「おうりゃあっ!」
 歓之助の突きは、いよいよ冴える。とうとう十二人までが苦も無く倒された。歓之助の身体に竹刀を触れさせることも出来なかった。
 歓之助は息も乱れていない。
「山尾、頼むぞ」
 又兵衛に励まされた、副将山尾庸三が立ち向かったが、山尾もわずかに二、三度竹刀を絡ませただけで、鮮やかな突きを決められた。
「来島又兵衛だ。行くぞ」
 最後に主将の又兵衛が挑んだ。又兵衛は、後に長州一の豪傑として名を知られた男で、腕も立ち、気性も激しかった。
 だが、それほどの又兵衛も、歓之助の敵ではなかった。子供でもあしらうようになぶられた挙句、歓之助の得意の突きを喰らって、どしんと道場の羽目板の所まで跳ね飛ばされた。
「なんの。あと一本」
 歯を食いしばって起き上がろうとしたが、身体が動かない。
「参った。恐れ入った……」
 又兵衛は、男らしく両手をついた。
「弟の歓之助でさえこんなに強い。兄の新太郎に勝てなかったはずだ……」
 他の十三名も、改めて手をついた。

                    ☆

 二、三日もせぬうちに、噂はぱっと江戸中に広まった。
「やるなあ。さすがは鬼歓だ」
「この分では、千葉の小天狗だって鬼歓には歯が立つまい」
 噂は栄次郎の耳にも入った。しかし、栄次郎は気にも留めない。ただ、黙々と稽古を続けた。
 その頃から、歓之助の様子が目に見えて変わって来た。
「おれの突きは日本一だ」
 鼻にかけて威張り散らした。父弥九郎の門弟たちを小馬鹿にして、顎の先で使い、言葉遣いも乱暴になる一方だ。
「うちの大天狗様」
 門弟たちは陰口をきいた。三平ははらはらした。
「歓之助さん、そんなに威張ってはいけませんよ」
 時々三平がいさめると、
「生意気言うな!」
 いきなり拳が飛んでくる。
 そんなある日、三平は久しぶりに町に出た。とある角を曲がった時、三平はごくっと唾を飲んだ。四人のならず者が、着飾った、どこかの若い美しい娘に、しつこく絡んでいるのだ。
 娘は真っ青になって立ちすくんでいる。誰も助ける者は無かった。三平も、出ていく勇気が無かった。
「ようよう、お姉ちゃん。あんまり澄ますなよ」
 男たちは図に乗って、なおもふざけかかる。その時、
「いたずらはお止しなさい」
 すらっとした、色の白い少年が止めに入った。歓之助と同じ年頃らしい。
「なんだ、てめえは」
「玄武館の千葉栄次郎です」
 少年はにっと笑った。ならず者たちは、ちらっと顔を見合わせた。千葉の小天狗の名を知っているのだろう。だが、すぐまた開き直った。
「千葉の小天狗が何でえ」
「子供はすっこんでろ」
 両方から、不意に殴り掛かった。栄次郎は身軽くひょいとかわした。口元には、やはり笑いが浮かんでいる。
「くそっ!」
 今度は一度に四人がかかった。栄次郎はするりと身をかわした。
「よせと言ったらよせ」
 栄次郎の声が高くなった。それでも、目は相変わらず笑っている。
「お嬢さん。今のうちにお逃げなさい。ここは私が引き受けます」
「有難う御座います」
 礼を言って、若い娘は立ち去った。
「この野郎!」
 ならず者たちは後を追おうとして、栄次郎に遮られ、懐に手をやった。匕首(あいくち)を隠しているらしい。
「馬鹿な真似はよせ!」
「何をっ!」
 四人は匕首を構えた。栄次郎はびくともしない。四人の額に汗がにじんできた。そうたくましいとも思えない栄次郎の姿が、急に大きな岩のように見える。四人で囲みながら、付き架かる隙が無いのだ。
「覚えていろ!」
 男たちは捨て台詞を残すと、こそこそ人ごみの中へ紛れ込んだ。それを見届けてから、栄次郎は何事も無かったように、悠々と去って行った。
「あれが千葉の小天狗か……」
 三平は、いつまでも見とれていた。
「歓之助さんとは、まるで違う……」
 三平は、何故か羨ましいような気がしてならなかった。
「歓之助さんだったら、腕に任せて四人を叩きのめし、大騒ぎを引き起こしたに違いない……」
 辺りはいつの間にか薄暗くなりかけていた。栄次郎の姿は、もうどこにも無かった。

                    ☆

 一年ばかり経った頃、新太郎が帰って来た。歓之助は、さっそく試合を挑んだ。
「兄上、私の腕を試して下さい」
「よし、かかって来い」
 兄弟は二年ぶりに、道場に出て立ち会った。勝負はなかなかつかず、最後は相打ちに終わった。
「見事だ、歓之助」
 面を外した新太郎は、にこっと笑った。その笑いには、意味があった。三平だけが気がついた。
「新太郎様は、汗もかいてはいらっしゃらない……」
 歓之助は、稽古着がぐしょ濡れになるほど汗が出ていた。その違いに、歓之助は気づいてもいない。
「おれは兄上と相打ちになった。もう千葉の小天狗などに負けはせぬ」
 三平は心配だった。後でこっそり新太郎に尋ねた。
「歓之助さんは、本当に千葉の小天狗に勝てるでしょうか」
「無論勝つとも。私と相打ちになった歓之助が、栄次郎に負けるはずはない」
 新太郎は、ためらわずに答えた。三平は、しきりに小首をかしげた。
 やがて、嘉永四年(一八五一年)になった。歓之助は十八、三平は十五だった。三平の腕は上がった。もちろん、まだ歓之助には勝てないが、前のように一突きで倒されるようなことは無かった。
「強くなったな、三平」
 歓之助も褒めてくれる。
 この年六月、江戸は沸き上がった。玄武館の千葉栄次郎と、練兵館の斎藤歓之助が、いよいよ立ち会うことになったのだ。
「二人を立ち会わせてみたい」
 そう言い出した水戸の殿様、水戸斉昭の言葉がきっかけだった。
「千葉の小天狗が勝つか」
「鬼歓が勝つか」
 噂は噂を呼んだ。
 場所は玄武館と決まった。
 練兵館を出る時、新太郎が注意した。
「歓之助、他の相手とは違うぞ。今日は胴をつけるがよい」
「そうせい、歓之助」
 父の弥九郎も勧めた。
「いいえ、大丈夫です」
 歓之助は断った。
「歓之助さん。父上の仰る通りにしたがいいですよ」
 三平も勧めたが、父や兄の言葉さえ聞かない歓之助が、三平の言うことなどに耳を貸すはずがない。
「いらぬお節介はよせ」
 歓之助は、三平を睨みつけた。うなだれた三平は、歓之助の後について行った。
「今日の試合は見ものだぞ」
 玄武館には大勢が集まっていた。みんな一流の剣士たちである。玄武館や練兵館の、主な門弟たちも見物席についた。
「千葉栄次郎殿。斎藤歓之助殿」
 名を呼ばれて、二人は進み出た。歓之助を一目見て、栄次郎が静かに言った。
「歓之助君、胴をつけたまえ」
「その必要はない」
「なにっ」
 さすがに栄次郎もむっとなった。
「もう一度言う。胴をつけたまえ」
「嫌だ」
「怪我をしても知らんぞ」
「そんな事は勝ってから言いたまえ」
 早くも殺気立った。歓之助は面と小手だけで、胴はとうとうつけなかった。
「三本勝負」
 審判の声が響いた。二人は一礼して、竹刀を構えた。一瞬、辺りはしいんとなった。

                    ☆

「ええい!」
「おうりゃあっ!」
 凄まじい気合が、道場一杯に響く。が、竹刀は動かなかった。互いに隙が無いらしい。わずかに、わずかに、切っ先だけが揺れた。
「うーん。どちらも出来る」
「さすがは千葉の小天狗に鬼歓だ」
 ささやきが起こった。
 間もなく、激しい音を立てて、竹刀が絡み合った。どちらの打ち込みも、浅くて決まらない。ほとんど五分五分に見えた。だが、そうではなかった。しばらくして、違いが分かって来た。一方的に歓之助が押され始めたのだ。
 歓之助は焦った。焦りが隙を呼んだ。栄次郎が、それを見逃すはずはない。
「やあっ!」
 栄次郎の竹刀が、ぴしりと歓之助の胴に決まった。防具をつけていないだけに、手ごたえも酷い。息が詰まった。しまったと思う間もなく、審判の声が上がった。
「胴あり。――二本目」
 今度の勝負はもっと早く決まって、歓之助は小手を取られた。三本勝負で二本まで取られればもう負けだ。審判の声が、厳しく歓之助の耳を打った。
「それまで」
 その声の終わらぬうちに、
「いま一本」
 歓之助が叫んで打ち込んだ。栄次郎も受けた。止める暇は無かった。
「見苦しいな」
 ぽつんと、誰かが呟いた。三平はつらかった。せめて一本でも取りたい歓之助の気持ちが、痛いほどわかった。
 三平は祈った。三平はいつか、ならず者をたしなめた時の栄次郎の落ち着きを思い出した。
「もう二本取ったんだ。あの人は、きっと負けてくれるに違いない……」
 だが、その予想は見事に外れた。栄次郎は少しも手を緩めなかった。必死に打ち込む歓之助の竹刀を、軽くいなしてはなぶった。まるで、ネズミを弄ぶ猫のようだった。
「畜生!」
 三平は拳を握った。悔しくて、涙が出そうだった。いつか、栄次郎の後ろ姿を感動の目で見送った事さえ腹立たしかった。
 歓之助は、もう目がくらんでいた。足がふらふらしてきた。散々なぶった挙句、栄次郎は最後の打ち込みを決めた。
「があっ!」
 面が激しい音を立てた。歓之助は、崩れるようにうずくまった。嵐のような拍手が起こった。その拍手の音を虚ろに聞きながら、歓之助はすごすごと自分の席に戻った。
 やがて、辺りは静かになった。歓之助は面をとった。その顔は、汗と涙でぐしょぐしょに濡れていた。
「馬鹿者!」
 兄の新太郎の声が、頭から落ちて来た。すぐそばに三平が立っていた。他には誰もいなかった。
「歓之助さん……」
 三平が泣き出した。
「おれは馬鹿だった……。あの時は相打ちなどではなかったのだ……。兄上は、わざと相打ちになって、天狗になる事の恐ろしさを教えて下さったのだ……」
 口で言って聞かせても分からない。自分で気づくまでほっておこう。そんな兄の気持ちだったのに違いない。面を外して、にっこり笑った兄新太郎の笑いの意味が、今やっと歓之助にはわかったのだった。

                    ☆

 あくる日、三平の姿が消えた。歓之助は気づかなかった。三平のことなど考えるゆとりは無い。昨日のみじめな敗北の事で、胸がいっぱいだった。
 歓之助は部屋に閉じこもって、悔し泣きに泣き続けた。
 昼過ぎ、父の弥九郎に呼ばれた。兄の新太郎も、父のそばに座っていた。
「歓之助。おれは強いなどと、自分で思い込むようになったら、その人間はもうおしまいだ」
 弥九郎は、ただそれだけ言った。横から新太郎が付け足した。
「胴は付けぬなどという思い上がりは捨てる事だな」
「分かりました……」
 歓之助は、素直に答えた。その時、門弟の一人が入って来て、弥九郎に一通の手紙を渡した。弥九郎の顔が曇った。手紙は玄武館から来たものだった。
「練兵館の斎木三之助という者が試合を申し込んできたので、懲らしめたうえ、身柄を預かっております。どうか、引き取りにおいで下さい」
 手紙にはそう書いてあった。
「斎木三之助……」
 思い当たりが無かった。
「三平です。三平に違いありません」
 歓之助がにじり寄った。
「三平の奴、悔し紛れに、敵わぬまでもと押しかけて行ったのに違いない……」
 散々に打ちのめされる三平の姿が、まぶたをかすめた。
「父上。私が行ってまいりましょう」
 新太郎が言った。新太郎なら人柄も穏やかなので、任せておいても心配はいらない。
 弥九郎は大きく頷いた。
「うん、そうしてくれ」
「いいえ、私を行かせて下さい」
 歓之助が立ち上がって、涙の乾いた目で父を見返した。
「いかん、お前はここにおれ。兄の私が裁いて来る」
「いいえ、どうか私を行かせて下さい。三平は私の弟子です。自分で受け取って来ます」
 歓之助は目をきらきらさせた。
「よし。思う通りにするがよい」
 弥九郎が優しく頷いた。

                    ☆

 歓之助は、お玉ヶ池の玄武館に行った。もう日暮れに近かった。
「練兵館の斎藤歓之助です。三之助の身柄を引き取りに参りました」
 歓之助の声を聞きつけて、門弟らしい男が出て来た。その男は、頭ごなしに言った。
「ただでは渡せん」
「どうせよとおっしゃるのです」
「手をついて謝れ」
 以前の歓之助なら、それを聞いただけで、おそらく刀の柄に手をかけたに違いない。
 が、ぐっとこらえた。
「どうした。謝るのか、謝らんのか」
 その男は、相手を歓之助と知っていながら、殊更憎らしげに言った。
「無礼な事を言うな」
 男の後ろから、涼しい声がした。
「あっ、若先生……」
 千葉栄次郎だった。ぐったりとなった三平を、右手で支えていた。歓之助の目がきらっと光った。こっぴどく打ちのめされた、昨日の悔しさがよみがえった。
 栄次郎は柔らかに言った。
「歓之助君、申し訳ありません。私がいなかったのを幸いに、門弟たちが酷い目に合わせてしまいました……」
「栄次郎君……」
 あとは声にならなかった。
「三之助君、君の先生がお迎えだぞ」
 栄次郎が優しく言った。傷だらけの三平が、栄次郎の腕の中で顔を上げた。
「あ、歓之助さん……」
 三平が駆け寄ろうとしてよろめいた。それを、歓之助が力いっぱい抱き止めた。
「三之助君。君を酷い目に合わせた奴らは、後で私が懲らしめてやる。だから、許してくれたまえ」
 栄次郎は、心からすまなさそうに詫びを言った。歓之助の胸が、すうっと和やかになった。
「君はいい人なんだな。昨日の君は、鬼みたいだったが……」
 こだわりもなく、すらすらと言えた。

                    ☆

 それから四年たった。歓之助は二十二、三平は十九になった。三平は、いつか出鱈目につけた斎木三之助という名を、今はそのまま使っていた。新太郎は、二代目斎藤弥九郎を名乗っている。
 栄次郎に敗れてから、心を入れ替えて一途に励んだ歓之助は、心も技も見事な名剣士に成長していた。二代目弥九郎と立ち会っても互角だった。
 嬉しいことがあった。
 肥前大村(長崎県大村市)の大村藩から、
「藩の若侍達に、神道無念流を教えて頂きたい」
 そんな申し出を受けたのだ。二百石を与えるという約束だった。歓之助は、喜んで承知した。
「三之助、お前も一緒に行くか」
「はい。お願いします」
 出発の日が来た。
「歓之助さん。千葉の小天狗と、もう一度勝負をしなくていいんですか」
「うん。やらなくてもいい」
「どうしてです?」
「やっても、また負けるさ」
 にこっと歓之助は笑った。
 父や兄や、大勢の門弟たちに見送られて、歓之助は練兵館を後にした。供は三平の三之助だった。
 練兵館が見えなくなった時、声をかけられた。
「歓之助君、九州へ行くそうだな。おめでとう」
 千葉の小天狗、栄次郎だった。
「やあ、有難う。これも、栄次郎君のおかげだよ」
 歓之助は立ち止まって、軽く会釈をした。
 目が綺麗に澄んでいた。
「歓之助さんも、すっかり変わったな」
 三之助は胸がじんとしてきた。歓之助はもう歩き出している。栄次郎が声をかけた。
「三之助君。君は私と歓之助君を、もう一度勝負させたかったんだろう」
「えっ……」
「隠さなくてもいい。顔に書いてある」
 驚く三之助に、栄次郎が付け足した。
「君を安心させよう。今なら私が負けるかも知れない。さっき打ち込もうと思ったが、隙が無かった……」
 三之助は、栄次郎が竹刀を持っているのに気がついた。嬉しかった。
「歓之助さーん」
 早く知らせてやろうと、三之助は走り出した。
 歓之助の姿は、もう小さくなっていた。



おしまい


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