上杉謙信
☆ 「お助け下され。甲州(山梨県)の山猿どもが、我らの領地を荒らしまくっております」 信濃(長野県)の豪族村上義清はじめ、小笠原、高梨などという豪族まで次々と武田信玄に追い落とされて越後(新潟県)にやってきた。 上杉謙信はこの時二十四歳、まだ名前を長尾景虎(ながお・かげとら)といっていた頃だが、もうこれ以上、信玄をのさばらせてはおけないと思った。 「よろしい、信玄の事は引き受けましょう。親を放り出した不孝者の信玄めを、きっと攻め滅ぼしてみせよう」 謙信にしてみても、信玄の力が北信濃にまで伸びてきたとあっては、川向こうの火事だなどとのんびりしてはいられない。 ――それに信玄なら敵としても不足は無い。思い知らせてやる……。 闘志を燃やして、にっこり笑った。 何しろ謙信は戦いが好きだ。若いだけに、まるでスポーツでも楽しむような気持があった。戦陣に命をかけているので、一生お嫁さんを貰わないと神に誓いを立てたほどだ。 さて、この謙信だが、これまでにはいろいろのことがあった。 謙信の家はもともと、上杉家の家来である。そして上杉氏は京都の公卿で、足利尊氏が京に幕府を開くと鎌倉に一族を置き、上杉氏をそこの執事(家老)とした。その執事職は、後に関東管領とも言われ、追々、自分の勢力を広げた。そして、ついにその一族は越後の守護となり、謙信の先祖が守護代(守護の代理)と務めていた。だが、実際は上杉氏は越後には住まないで、仕事は長尾氏に任せていた。 謙信が生まれた越後の国というのは、長尾氏の同族や古くから住んでいる豪族がたくさんいて、互いに独立して勢力争いをしていたので、上杉氏や長尾氏の支配力は十分でなかった。 また、下剋上といって、下の者が上の者にとって代わる事が流行った時代だから、越後でも長尾氏の力が強くなると、守護の上杉氏は長尾氏に抑えられついには長尾氏が実権を握ってしまった。だが謙信の父の為景(ためかげ)は、国内の武士たちをまとめるために、上杉氏を名前だけの守護として置いておくことにした。 ☆ 謙信は享禄三年(一五三〇年)正月に越後の春日山城で生まれた。三人きょうだいで、兄は晴景(はるかげ)といい、もう一人は姉だ。 謙信が虎千代といっていた七歳の時、天文五年(一五三六年)――父為景が死んだ。 すると、日ごろ為景を嫌い、良く思っていなかった武士たちが、この時とばかりに兵をあげて攻めて来た。 「それっ! 為景が死んだ今は、存分に攻めつけてやれ!」 為景の葬式は、大変な事になった。攻めてきている連合軍とにらみ合って、今にも合戦の火ぶたは切られそうだ。 「兄上、大事な父上の弔いを、敵ばらに荒らされてなるものですか! 一歩も彼らを近づけてなるものか!」 謙信は勇ましい子供だ。鎧、兜に身を固めて、敵がやって来たらいつでも相手になってやるぞと勇み立っている。 ところが、十二歳になる兄の晴景は、青くなってぶるぶる震えて、口もきけない有様だ。 晴景は謙信と違って、気も弱くて病身だから、戦いと聞いただけで病気みたいになってしまうのだ。 周りの者達は、そんな晴景を見て、なんと頼りない後継ぎだろうと思った。 父が死ぬと、続いて母も死んだので、謙信と晴景の兄弟は、力を合わせて一生懸命に家を守らなければならなかった。 「兄上、私が敵の相手をしますから、少しも心配しないで下さい」 謙信は身体の弱い兄に代わって、十四歳くらいから戦陣に出た。ただ戦場について行っただけではない、若大将として立派に戦ったのだ。 だが、何と言っても謙信は十四歳の少年だ。隙さえあればと伺っている豪族たちは、そんな謙信をバカにして、四方から兵をあげた。 謙信はその時栃尾城にいたが、少しも慌てず、落ち着き払って兜の緒を締めた。 「敵は私を子供だと思って馬鹿にしているようだ。それならそれで、うんと思い知らせてやろう」 謙信は先頭になって、どっと城から討って出るや、竜巻のような勢いで敵陣に切り込みをかけた。 敵方はいくら強いことを言っても相手は子供だから、今に降参するだろうくらいに思っていたところが、大人も顔負けの武者ぶりで攻めて来たので、驚いた。 「ひるむなっ! 逃げるなっ!」 と敵の大将は叫ぶが、謙信に続いた将兵たちは、勇ましい少年謙信に負けてはなるものかと、これまたものすごい戦いぶりをしてくるので、敵陣はたちまち崩れてしまった。 「それっ! 進めっ、進めっ!」 謙信は疲れる事も無く、城を取り囲む敵軍を、片っ端から攻め倒し、切り伏せた。 「おお、若大将は、頼もしいお方じゃ」 将兵たちはそんな謙信の働きぶりを見るにつけ、跡継ぎは晴景より謙信の方がふさわしいと考えるようになった。 はじめの内は兎も角、弟謙信の評判が次第に高くなってくると、晴景は段々それが気に食わなくなってきた。 「弟の奴、自分が長尾の主と思い込んでおるらしい」 謙信が次々と背く者たちを打ち破って、目覚ましい働きぶりをしているので、晴景にはそれが妬ましく、腹立たしい。 そんな晴景に、家来の中から謙信の悪口や告げ口を言う者も出て来た。 「今に、あなたは弟のために家を追われてしまいますよ。あなたの事を、何の役にも立たぬ弱虫め、などと言っておりますからな」 ある事無い事を告げ口されると、晴景は謙信が憎らしくなった。 「あんなやつ、もう弟とは思わんぞ。今に泣き面をかかせてやる」 晴景が謙信の悪口を言って憎んでいると聞けば、謙信も黙ってはいられない。 「家のために一生懸命に働いているのに、自分は遊んでいながら勝手な兄だ」 売り言葉に買い言葉で、お互いの仲が悪くなった。 そのうえ謙信は考えた。このままにしておくと、晴景を担いでよからぬ者たちが何をやらかすか知れたものではない。どのみち弱い大将はこの世では生き抜いていけないのだ。晴景が跡を継いでいては、長尾の家も終わりだ。そう考えついたので、謙信は越後守護の上杉定実(さださね)に相談した。 「兄は私をねたんで、今は兄弟の仲も悪くなっています。私が病弱の兄に代わって長尾の家を継ぐのが一番いいと家来たちも言っておりますので」 「うむ。私もそう思っていたぞ」 上杉定実は謙信の働きぶりを知っていたので、すぐに承知をし、晴景と謙信を仲直りさせることにした。 といってもただの仲直りではなく、謙信を晴景の養子ということにして謙信に家を継がせた。晴景を隠居させたのだ。 謙信は十九歳で家を継ぎ、晴景は二十四歳で隠居させられてしまった。武田信玄が父の信虎を駿河(静岡県)に追い出したように、謙信もまた兄を隠居させてしまったのだ。これが戦国の世の習いだが、こういう手段でも取らなければ、自分の方が、あるいは殺されていたかもしれない。 謙信が家を継いだのは、天文十七年(一五四八年)十二月の事だ。 ☆ さて、こうして長尾家の主になった謙信だが、決して狭い越後の国だけで一生を過ごそうとは思っていない。 ――今に、京にのぼろう……。 京には朝廷もあるし、将軍もいる。皇室や将軍とつながりが出来ることは、自分の地位や立場を有利にすることであった。 だが、そうは思っても、越後の国の中で次々と逆らうものが出てくる上に、京へのぼるといっても、その途中は他人の土地を通るのだからなかなか難しい。 それだけに京への通り道には、邪魔が無いように話し合いをしなければならない。その話し合いがまとまったところへ、武田信玄に追われた信濃の豪族たちが謙信を頼って逃げてきたのだ。 「出陣だ。信玄を討つのだ!」 謙信は逃げて来た豪族他tにも、あちこちの城を守らせ、自分もすすんで軍を進めたが、なかなか勝負がつかない。 その内京へのぼる日がやって来たので、謙信はひとまず軍をまとめて引き上げた。 謙信は享にのぼると、天皇(後奈良天皇)にお目にかかった。 「越後の国や、隣の国の従わない者どもを征伐せよ」 天皇の有難いご命令を頂いた謙信は、 「父祖以来、初めての幸せで御座います」 と感激した。そして、天皇が生活に困っている様子や、将軍(足利義輝)が家来の力に押し負かされているのを見ると、血潮がたぎり立った。 ――よし、今に私の力で、皇室や幕府を盛り立てて見せる……。 望みをその日に持って越後に帰ってきた謙信は、もう京へのぼる前の謙信ではない。従わない者を討て、という天皇の命令があるのだ。これに手向かう者は、天下の敵という事になるのだ。 「わあっ! 殿様のお帰りだぞ!」 謙信が帰ると、家来たちは大喜びした。留守の間に信玄が攻めてこないかと、そればかりを心配していたからだ。 「皆の者、これからは天皇のご命令で信玄を討つのだぞ! 信玄は朝敵だ!」 謙信は家来たちに、大きな声でそれを知らせた。 さあ、これから、いよいよ謙信と信玄が川中島で前後五回に渡っての合戦になるのだが、この間にも、謙信はもう一度、京へのぼっている。 この時の京土産は、謙信は関東管領上杉憲政(のりまさ)から関東管領の職と上杉姓を譲られたことだ。 「これからは、上杉と名乗るよう……」 ということで、この時から長尾から上杉と姓が変わった。上杉氏は謙信にとっては主人にあたる。大変な出世だ。 川中島の合戦が一番激しかったのは四回目だ。だから、普通川中島の合戦と言えばこの時のことだ。 永禄四年(一五六一年)八月十四日、謙信は一万三千の兵数で春日山城から出陣した。 「今度こそは、信玄に目にもの見せてくれるぞ」 謙信は張り切っている。関東管領となって関東へしばしば出陣しなければならないが、今度こそは信玄相手に、はっきり決着をつけようと思っているからだ。それだけに、大胆不敵にも敵中深く押し進んで陣を敷いた。 一方、謙信が出陣した知らせを受けた信玄は、 「なに、謙信が出て参ったと! それなら、こちらも出て行こう」 信玄が二万の兵を従えて甲府を出発したのは十八日だ。そして二十四日には川中島についた。 これで深入りした謙信は、信玄のために袋の中のネズミ同様にされてしまった。 「これでは、今に武田方に糧道(※軍隊の食糧を送る道)も絶たれて、味方は飢え死にしてしまうぞ」 将兵たちは心配したが、謙信だけは平気な顔をしていた。 「こうしていると、今に信玄が攻めて来るだろう。その時こそ、信玄の首をかき切ってやるのだ」 激しい気性の謙信は、そうした陣の張り方で信玄を待ち受けていたのだ。 ところが信玄もさるものだ。 「謙信め、やる気だろうが、その手には乗らぬぞ」 ちゃんと見抜いて、数日にらめっこをした後で陣を移してしまった。 だが、謙信は依然として動かない。 ☆ 陣を移した信玄は、大将たちを集めて軍議を開いた。 「やはり謙信とここで戦うべきですな。それには、キツツキの戦法がいいでしょう」 山本勘助が意見を述べた。 キツツキは虫のいる木をコツコツと叩くと、虫が驚いて出てくるところを捕らえて食うが、それと同じように謙信の本陣を夜襲して、謙信たちが驚いて川中島に逃げ出してきたところを、一気にとらえてやっつけようという作戦である。 「うむ。それは面白い」 信玄はその作戦を取り上げ、すぐに軍勢を分けて手配した。 ところで謙信の方は、信玄のいる城の方から盛んに煙が立ち上って、どうも様子がおかしい。そこで忍びの者を放ってやると、武田方の作戦がすぐに分かった。 「信玄は夜襲をかけて来る気だ。こっちが逃げ出すのを待っていて討ち取ろうというのだろう。だから、その手には乗らんぞ」 謙信は大将たちを集めて、にこっと笑う。 「我々は、直ちに山を下り、そこで夜を明かして夜明けと共に信玄の陣裏に切り込むのだ。わしと信玄と、どちらが勝つかここで勝負を決めるのだ」 これは九月九日の夜の事だ。謙信の軍は十一時ごろに全軍こっそり山を下り、千曲川を越えてしまった。頼山陽(らいさんよう)の詩にある「鞭声粛々夜河を渡る」とあるのは、ちょうどここを歌ったものだ。 「よいか、武田方の物見は逃がすでないぞ」 謙信がきつく命令してあるから、忍んできた武田方の者達は、途中でことごとく捕らえられてしまったから、上杉方の行動は、全く信玄の所へは届いていない。 夜襲と言っても大抵夜明けに行われる。武田方の攻撃隊は、謙信たちが山を下りたとは知らないから、鬨の声をあげてどっとばかりに上杉方の陣地になだれ込んでいった。 「や、やっ? いないぞ!」 「一人もおらんぞ!」 陣地の中はもぬけの殻だ。かがり火ばかりが赤々と燃えてはいるが、人っ子一人の姿もない。出し抜かれたと悔しがっても、もう後の祭りだ。 さらに、信玄もそんな事を知らないから、逃げてくるはずの謙信たちを打ち破ろうと夜明けに城を出て、陣を敷いて待ち受けていた。九月十日の明け方だ。 この朝は霧が深く、目の前のものは何一つ見えない。ようやく、その霧が晴れかかってきた。驚いた。 「た、大変でござるぞ! 上杉勢がこちらに迫っておりますぞ!」 先頭にいる者が大声をあげて飛んできた。 「な、なんと?」 信玄は目を丸くして驚いた。すぐに様子を見にやると、その者が、さらに驚いた顔つきで戻ってきた。 「おかしなことになりましたぞ。謙信の軍勢は、こちらに向かってきたかと思うと通り過ぎ、また次の軍勢が出て来ては通り過ぎてゆきますぞ」 「馬鹿め! それは車がかりの戦法じゃ、謙信め、決戦の覚悟で来ておるのだ」 信玄は叫んで床几(しょうぎ)から立ち上がった。同じく山陽の詩で「暁に見る千兵の大牙を擁すを」というのは、この情景を詠んだものだ。 信玄が言うまでもなく、謙信はここで勝負をつけるつもりだから、非常な意気込みだ。車がかりという戦法を取ったのもそのためで、これは謙信の旗本を中心にして、ちょうど水車が回るように、次々と新手を繰り出して攻撃を繰り返す先方だ。 だが謙信の方も深い霧が晴れると、意外に近くに武田勢がいるのに驚いた。お互い、かなり近づいているのに分からなかったのだ。 「それっ、武田勢だぞ! かかれっ!」 「つっこめ! 上杉勢に後れを取るな!」 両軍の物凄い激突となった。 「見ておれっ、信玄の首を取ってみせるぞ!」 謙信は混糸脅しの鎧に、白頭巾、萌黄色の胴肩衣をつけて、月毛の馬にまたがって旗を伏せて、無二無三に信玄の本陣を目がけて突進して行った。 この勢いに、信玄の旗本たち、思わず浮足立った。そこを目がけて謙信はなおも突っ込んでゆく。ふと見ると、床几に腰を据えて、戦いを指揮している信玄が目についた。 「おおう、それにあるのは信玄だなっ! 坊主め、ここにいたか!」 謙信は叫びざま、信玄目がけて斬りつけた。 「おのれは謙信か!」 信玄は立ち上がり、手にした軍配団扇ではっしとばかりに謙信の刀を受け止める。 「それっ! まだか! まだかっ!」 謙信は三太刀まで切りつけたが、信玄の腕に傷をつけただけだった。 この間に驚いて飛んできた信玄の家来が、夢中で槍を突き出したので、それが謙信の乗った馬の尻を叩いてしまった。 馬は驚いて謙信を乗せたまま、その場から走り去ってしまった。 これで信玄は命拾いをしたわけだが、信玄の旗本たちは、今の勇者が敵の大将謙信だと知って、その勇猛ぶりに舌を巻いた。 「全く、あいつは命知らずよ」 信玄は冷や汗をぬぐい、軍配団扇を調べてみると、刀傷が七つもついていた。 「けっ、もう少しのところで信玄めをやれたのに……」 謙信は残念がった。 「だがの、信玄には影武者が何人もおるからな。だから馬を降りずに戦ったのだが、あれが信玄だとはっきりしていたら、組み伏せても討ち取るのだった」 この合戦は、初め上杉方が優勢で、あとは武田方が押しまくっている。未だにどちらが勝ったのか、お互いに贔屓があるから議論がなされているが、どうやら武田方が判定勝ちのようだ。 五回目の川中島は三年後に行われたが、一回目から前後十一年間やっているわけだ。 それと謙信は関東管領という職にあったから、毎年のように関東に兵を出していた。 このために、すっかりくたびれてしまって、京へのぼって自分の力で朝廷や将軍を助けようと思っていた事も果たせなくなってしまった。 だが、信玄が今川家と手を切り、そのために怒った今川氏真が小田原北条と謀って信玄の所に塩を送らぬようにしてしまった時に、これを聞いた謙信は、 「そちらとは十数年戦っているが、これは弓矢の勝負で、米や塩ではない。だから塩は私の領分から送ってあげよう」 と言って、安い塩を送り込ませたこともある。 だから、信玄が死ぬときに、 「謙信と仲良くしろ。あれは頼みがいのある男だ」 と、子供の勝頼に言い残したほどだ。 結局、上杉謙信も、京への夢を果たせぬまま、天正六年(一五七八年)、四十九歳で死んだ。好敵手信玄の死から五年目であった。 おしまい 戻る |