トールの神話
☆ 大昔、ヨーロッパの北の方に、トールという神様がいた。 生まれて間もなく、大きな木箱をぐいっと持ち上げたと言われている。 「あっ、あ、あれを見ろ!」 見ていた人たちはびっくりして、腰を抜かしたという。その木箱の中に、熊の毛皮がぎっしりと詰まっていたからだ。 「今にきっと、私達の手に負えない子になる」 と、お母さんが心配した通りになった。 「大変です! またトールが暴れ出しました」 トールは一日に一回は必ず、雷のように暴れまわった。 「早く、早く来て下さい。誰も止めることが出来ないのです」 その声にお母さんとお父さんは、慌てて小川の岸へ飛んで行った。 「あっ!」 押さえようとしている大人たちが、ぽんぽんと投げ飛ばされていた。 「トール、おやめなさい! トール!」 お母さんは必死に叫んだ。 その目から涙がこぼれているのを見て、トールは急に大人しくなった。 でも、その時お母さんは、トールを自分の手元から離す決心をした。 「みんなから尊敬されているフイングニルと、フロラに預けましょう。きっと立派に育ててくれます」 と、お父さんに相談をした。 「それはいい考えだ」 お父さんも賛成した。 こうしてトールは“翼のある神”と言われているフイングニルの家に預けられた。 フロラはフイングニルの奥さんで、元は雷の光だったという。 稲妻は時には青く、時には白く、時には真っ赤に見える時がある。ピカッと光って、すっと消えていく。 そのせいか、フロラと話しをしていると、 「苦しい事も、悲しい事も、イライラしている事も、すうっととけて、不思議に力が湧いてくる」 と、みんなから言われていた。 トールは身体が見上げるほどに大きくなり、見違えるほど立派な若者になった。 太い腕をぎゅっと曲げると、盛り上がった筋肉が岩のように見えた。 特に見事だったのは、真っ赤な頭の毛と、真っ赤な顎髭だった。怒るとそれが針金のようにぴんと立って、その間から火花が噴水のようにほとばしったと言われている。 そのトールが大切にしていた三つの宝があった。 一つはミヨルニルという名前を付けた見事な刀だ。 戦いが始まると真っ赤に焼けて、炎が噴き出す。そればかりか、敵に投げつけてもひとりでにトールの手に戻ってくるという、不思議な刀だ。 次はグライベルと呼んだ鉄の手袋だ。 この手袋をはめていないと、真っ赤に焼けた不思議な刀を握っていることが出来ない。 三つめはメギングヤルデルという不思議な帯だ。 その帯を締めると、物凄い力がひとりでに湧いてくる。だから、力帯とも呼んでいる。 この不思議な三つの宝が、どうしてトールの手に入ったのか――。 それではまず、ミヨルニルの物語から始めよう。 ☆ トールは、シフという美しい女神を奥さんにもらった。 シフのふさふさとした長い髪の毛は、いつも黄金のようにキラキラと輝いていた。 そのために、 「シフの髪の毛を見ていると、とり入れ時を思い出すよ。まるで稲の穂が風になびいているようだ」 と言って、みんなはいつの間にかシフの事をとり入れの神様にしてしまった。 すると、飛び上がって喜んだ神様がいた。ロキという、いたずらの神だ。 「こいつは面白いぞ。それじゃ、あのふさふさとした髪を切ってしまったら、シフは畑になるのか」 と言って、ゲラゲラと笑い出した。 その内、くるくると回っていた大きな目玉がぴたりと止まった。 「よしっ!」 ロキは真剣な顔をして頷いた。 その日、トールは遠い所へ狩りに出かけていた。 夜になると、ロキはシフの部屋へ忍び込んだ。 ……そして、朝が来た。 目を覚ましたシフは、びっくりして飛び起きた。 「あっ、髪が無い!」 両手を頭に当てて、シフはき〇がいのように泣き出した。その声は四方の山にこだましたと言われている。 「どうしたんだ?」 ばたばたっと、大勢の人が集まってきた。その中に、ロキの顔も見えた。 そこに、ひょっこりとトールが帰ってきた。 見る見るうちにトールの顔が真っ赤になった。赤い髪と赤い顎髭がピンと立って、火花が飛び散った。 その姿を見ると、今までにやにやと笑っていたロキがぶるぶると震え出した。 「こらあー、シフの髪を切ったのはお前だな!」 雷のように、空がゴロゴロと鳴った。 「ごめんなさい」 ロキは頭を抱えて地面に潜り込もうとした。 「待てっ!」 トールの大きな手が、ロキの首をぎゅっとつかんだ。 「苦しい、た、た、助けてくれ……」 ロキは苦しそうに、なおも叫び続けた。 「返す、シフの髪を返す……。ほ、本当だ……。も、もっといい金の髪を手に入れてくる」 「なに、本当か!」 「う、う、嘘を、嘘なんかつくものか……ほ、本当だ! こ、殺さないでくれ!」 手足をバタバタと動かしているロキを、ぐっと睨みつけていたトールは、ロキを千メートルも先に投げ飛ばした。 「よしっ、すぐ取って来い!」 木も山もグラグラっと動いた時、ロキは早くも地面をぐんぐん、ぐんぐんと潜って、小人の世界に飛び込んでいった。 「頼む! お願いだ! 美しい、美しい、金の髪を作ってくれ」 ロキは小人の王様ドリファンに必死に頼んだ。 「よし。仲良しのお前さんの事だ、よかろう」 「えっ! 本当か、有難う!」 いたずらの神、ロキの頬に涙が光っていた。 それまでは良かった。だが、その後がいけなかった。 「それから、ついでにオーディンの大神と、お妃のフリッガの女神に捧げる贈り物を作ってくれ」 小人の王様ドリファンは、黙ったまま、何かしきりに作っていた。 まず初めに、金の槍を作った。 「この槍は、主人の手を離れると、狙ったものにぐさっと突き刺さって、また元に戻ってくる不思議な槍だ」 と言って、次は小さな金の船を造った。 「これは空を飛ぶことも出来る。そればかりか、いらない時は、もっともっと小さくして、ポケットの中に入れる事も出来るのだ」 ロキが大して嬉しそうな顔をしないので、小人の王様はさらに言葉を付け加えた。 「しかしじゃ、良いかな! 反対に、もっともっと大きくすることも出来る。神々はもちろん、神々の馬もいっぺんに乗せることが出来るのだ」 「えっ! それは凄い」 ロキが金の船をいじっている間に、小人の王様ドリファンは、驚くほど細い金の糸で髪の毛を作り始めていた。 「どうだ、見事な髪だろう。これをシフの頭にかぶせると、すぐ本当の髪の毛になってしまうのだ」 ロキは飛び上がって喜んだ。 ところが、ブロックという小人がいかにも馬鹿にしたように笑いだした。 「それくらいの物なら、わしの弟のシンドリにだって作れるぞ」 ぴょんぴょんと飛び上がって喜んでいたロキは、冷たい土の上に足をぴたりとつけると、ブロックを睨みつけた。 「本当か! 嘘をつくと許さんぞ」 「うそ? 嘘をつくわしではない!」 「よしっ、それでは、三つの宝を作ってみろ! もし本当に出来たら、わしのこの頭をお前にやろう!」 「よかろう。お前さんも嘘をつくなよ」 と言うや、シンドリの仕事場に飛び込んでいった。 「わかった、兄さん! それでは、ふいごを動かしてくれないか。どんなことがあっても、止めてはいけませんよ」 訳を聞いたシンドリは、そう言うと、火が燃えているかまどの中に豚の毛皮を投げ込んだ。 「そ、それは豚の毛皮じゃないか!」 「兄さんは、黙って手を動かしていればいいんです。いいですか。手を止めたら火が消えてしまいますよ」 と言うと、シンドリはさっさと外へ出て行った。 ブロックはブツブツ言いながら、ふいごで風を送っていた。 その様子を見ていたロキは、にっこりと笑って頷いた。 「よしっ、アブに化けて邪魔をしてやろう……」 さっと飛び上がると、ロキはアブに化けていた。ブンブンと音を立ててブロックの顔の周りを飛ぶと、ふいごを動かしている手をチクリと刺した。 「痛い!」 ブロックは歯を食いしばって我慢をした。そこにシンドリが戻ってきた。 「さあ、兄さん、一つ出来たよ」 火の中から出てきたのは、金のイノシシだった。 「これは空飛ぶイノシシです。早く飛べば飛ぶほど光が出て、眩しくて見ていられなくなるのです。では、二番目の仕事にかかりましょう」 と言うと、シンドリはどこからか持ってきた金の塊を、また火の中へ投げ込んで、さっさと外へ飛び出してしまった。 「よしっ、今度こそ!」 ロキはブンブン飛んで、ブロックの太い首をめがけて急降下した。 チクリ! 「痛い!」 物凄い声をあげたが、ブロックは手を止めなかった。 シンドリが、鉄の塊を抱えて戻ってきた。 「もういいでしょう」 そう言って、シンドリは火の中から金の指輪を取り出した。その金の指輪は、三日ごとに八つ、金の指輪を産み落とす――という事だった。 「さあ、いよいよ三つ目です。兄さん、しっかり頼みますよ」 シンドリが持ち上げた鉄の塊を見て、玉のような汗をふきだしているブロックは眉をひそめた。 「そんな、鉄の塊が……」 「兄さんは黙って、手を動かしていればいいんです」 シンドリの鋭い目が、ブロックの手をじいっと見つめているので、ロキはもう手の出しようも無かった。 その鉄の塊が、不思議な刀ミヨルニルだったのだ。 「さあ、兄さん。三つの宝が出来ましたよ。ドリファンの宝と、どっちが素晴らしいか、神様たちの所へ行って聞いていらっしゃい」 小人のブロックは三つの宝を持って、ロキの後に続いて地上へ飛び出した。 ロキはオーディンの大神の居る城へ、一直線に飛んで行った。 そこに、トールも丸坊主のシフもいた。 「おう、見事な髪だ」 トールは目を丸くして、小人の王様ドリファンが作った髪を見つめていた。 「どうだ、素晴らしいだろう。それが本当の髪の毛になるのだ。それから、この不思議な槍を大神様に、そして、この空飛ぶ不思議な金の船をフリッガの女神さまに差し上げます」 ロキはご機嫌を取るのに汗をかいている。 すると、小人のブロックも負けずに、 「不思議な金の指輪を大神様に、ええと、それからと、そうそう、この空飛ぶ猪を女神さまに、そして、この、不思議な不思議な刀を、トールの神様に差し上げます」 と言って、ブロックは三つの宝を差し出した。そして、力を入れて言った。 「いかがです。その六つの宝の中で、どれが一番良いか、一番役に立つか、一つだけ皆さんで選んで下さいませんか」 ブロックの顔を見つめていたオーディンの大神が、にこっと笑った。 「なるほど、それは面白い。では、みんなで相談をして答えを出そう」 さあ、大変な騒ぎになった。 神々が集まって、それぞれの宝を試しだした。 ブンブンと飛ぶイノシシ! その横をかすめていく、金の船! ぽこぽこと出てくる、金の指輪! 槍が飛び、刀が風を切った! 答えはなかなか出なかった。だが、大神オーディンの一言で、刀が一番と決まった。 「ひや……」 と飛び上がったのはブロックだ。 「さあ、その腐った頭はもらったぞ!」 と叫んだので、神々は初めてブロックが飛び上がって喜んだ訳を知った。 ロキは逃げようとした。 だが、トールがロキの首をがっちりとつかんでしまった。するとロキは、急に胸を張った。 「よしっ、頭をやろう! しかし、首はわしの物だ。首に傷をつけないで、頭が取れたらお前にやろう」 ブロックは小さな小さな足をばたばたさせて悔しがった。 が、あっと言う間にロキの口をシュシュと糸で縫ってしまった。それを見た神々は手を叩いて喜んだ。 今まで目を赤くしていたシフも、長い金の髪をキラキラ輝かせて笑い出した。 ☆ その時、騒々しい声が聞こえてきた。 「なんだ、あの騒ぎは」 大神オーディンの目が、ぎらっと光った。 「はい、スウェーデンからの使者です!」 「スウェーデンから? 何かあったのか」 「はい、巨人国の王、ウトガルデロックが、大神の神殿を壊し、永遠に燃え続けていた神の火を踏み消したとの事です!」 オーディンの顔が、さっと曇った。辺りが急に暗くなった。 「なにっ、それは本当か?」 神々の前に立ったのはトールの神だ。 スウェーデンのウプサラに、オーディンの神をまつる神殿がある事もトールは知っていた。 そこに、神の火が燃え続けていることも聞いていた。その火が消され、神殿が壊されたのだ。 「うむ!」 と拳を握り締めたトールの赤い髪と、赤い顎髭がピンと立って、その間から火花が噴水のようにほとばしった。 「ようし……今に見ておれ! ロキ、戦いの支度だ。すぐ、車にヤギをつけろ!」 ロキはすぐ、八頭のヤギを車につけた。 「ロキ、一緒に行くか」 「う、う、う……」 ロキは嬉しそうに大きな頭を前後に振った。ロキの神は、絶えず何かいたずらをしていたのだ。 「そうか。よし、口を出せ」 と言うや、トールはロキの口を縫い合わせている糸を、プツプツと切っていった。 「うわあ、行こう! どこへでも行くぞ!」 ロキは飛び上がって喜んだ。 トールの神は、不思議な刀を持って車に乗った。そして、オーディンの大神と、フリッガの女神の顔を見た。 「よく見ていて下さい。われわれ二人で十分です。では」 トールはシフの顔をちらっと見て、ピシッと鞭を鳴らした。不思議な力を持っているヤギは、風邪を切って虹の橋を下っていった。 一日、走り続けた。 大平原も夕焼けに染まってきた。 「あっ、あそこに家があるぞ!」 お腹をグー、グーと鳴らしていたロキが、いかにも嬉しそうに叫んだ。 見ると、荒れ果てた大平原のかなたの森の前に、小さな家が一軒、ポツンとあった。 「よしっ、あそこで一夜を過ごそう」 トールは手綱を右へ右へ引いていった。 次第に近づいてくる家の窓に、明かりがともった。 その横に、八頭のヤギは滑り込んでいった。音も無く、すっと止まった。 「これはひどい農家だ」 ロキが顔をしかめた。 「ぜいたくを言うな」 トールは頭をぶっつけないように身体を折って、家の中へ入っていった。何か、臭いにおいがプンプンと鼻をついた。 「頼む。一晩だけ泊めて欲しい」 火を囲んでいた老夫婦と、二人の子がびっくりしたように顔を向けた。 「これはこれは、旅のお方で……。どうぞ、どうぞ、遠慮なくお泊り下され。しかし、この通り、草の根っこしか差し上げる物が御座いませんが、それでよろしかったら」 ロキは目を丸くして、火の上に下がっている鍋の中を覗き込んだ。男の子と女の子がガリガリかじっているのも草の根っこだ。 「こりゃ、ひどい!」 トールの神は、やせた子供たちの顔を見つめていた。 「ご馳走は、私の方が用意をいたそう」 そう言うと、外へ出たトールは二頭のヤギを殺して皮をはいだ。 「さあ、肉を食べろ! どんどん食べろ。しかし、骨だけは折らないようにするんだぞ」 「うわっ、肉だ!」 男の子のチアルフは手を叩いて喜んだ。ガツガツ、ガツガツ食べだしたので、うっかり一本の骨を折ってしまった。だが、そのまま知らん顔をしていた。 食後、トールは骨をきれいに洗って、はいだヤギの皮の上に並べておいた。その不思議な様子を、じっと見つめていたチアルフも、女の子のロスカも、いつの間にかうとうとと眠ってしまった。 その夜、二人は、不思議な不思議な夢を見た。 「あれっ! ヤギが八頭いるぞ?」 太陽が昇る前、トールがヤギの皮の上に並べた骨の上を、不思議な刀でポンポン叩いた事を、もちろん知らなかったからだ。 ポンポンと叩くと、ヤギは元通りに生き返って、車に繋がれた。お爺さんもお婆さんも、いや、ロキの神でさえ知らなかった。 「さあ、ロキ、出発だ!」 ピシッと鞭が鳴った。 だが、すぐ、一頭のヤギが足を引きずり出した。 「誰か、骨を折ったな?」 雷のような声に、四人はその場にへなへなっと座り込んでしまった。 「どうぞ、お許しください!」 お婆さんの顔は真っ青だ。 「どうか、乱暴な事はしないで下さい。何でも、何でも差し上げますから」 お爺さんも真剣だ。 「よしっ、それでは、その男の子と女の子をもらっていくぞ! ここに置いていたら、骨と皮になって死ぬだけだからな」 「は、はい、宜しゅう御座いますとも」 「有難い事で……」 お爺さんとお婆さんは顔を見合わせて喜んだ。その嬉しそうな顔を見て、子供たちもにっこりと笑った。 トールは二頭のヤギをその場に残すと、六頭のヤギに鞭を当てた。 ☆ 荒れ果てた大平原を過ぎると、まるで油でもひいたように見える広い野原に出た。 「トール、ヤギが滑って、前へ進まないぞ」 ロキが不思議そうに叫んだ。 「本当だ! よしっ、こうなったら、歩いて行こう」 「車はどうする」 「ここに置いていこう。帰りに、また要るからな……。いいか、待っているんだぞ!」 ヤギに命令すると、トールは先に立って歩きだした。つるつるっと滑る。 「これは怪しいぞ? ロキ、油断をするなよ」 四人はつま先に力を入れて、ペタ、ペタッと、足を地面に押し付けるようにして、ゆっくり、ゆっくりと歩いて行った。しかし、一歩行くと二歩後ろへ下がっているような気持ちがした。 辺りがだんだん暗くなってきた。 「トール、あれを見ろっ! 岩だ。岩と岩の間に、細い道があるぞ」 ロキがふいに叫んだ。 「どうやら助かったようだな。よし、それでは、あの道を行こう」 つるつる滑っていた足の下が、ざらざらしてきた。 「トール、あんなところに赤い門があるぞ?」 ロキが、また大きな声をあげた。すると、岩の間からバタバタッと真っ黒い鳥が十五羽飛び立った。 「きゃー」 女の子がトールにしがみついた。 「大丈夫だよ、ロスカ!」 兄のチアルフが、ロスカの手をぎゅっと握った。 辺りがますます暗くなってきた。星も見えない。 ホー、ホー、ホー。 と、フクロウのような声が闇の中から流れてくる。 「怖い……」 ロスカが今にも泣きだしそうな声で言った。 道は次第に上り坂になっている。風が冷たくなってきた。その風に乗って、ゴーゴーと不気味な音が聞こえてくる。 「そらっ、お化けだ!」 「きゃー」 「あはは、は、は、嘘だ! あの白く見えるのは、滝だよ。あはは、は、は」 「ロキ! そんな悪戯はよせ! 弱い者いじめをすると、今に自分が酷い目に遭うぞ」 四人はいつの間にか、大きな滝つぼの前に来ていた。ゴーゴーと音を立てている滝が、闇の中に白く浮かんで見えた。 それから道は、下り坂になっていた。その道の中央に、ぽつんと小さな火が見えた。 「あれは何だ?」 刀を抜いて、トールが一歩、一歩、近づいて行った。 「何だ、たき火のあとじゃないか?」 「すると、人が近くにいるという事だ」 頭のいいロキがすぐに叫んだ。 「あっ、月が出てきた」 チアルフが、空を見上げて指さした。 「おやおや、おかげで素晴らしい家が見つかったぞ。ほら、あんなに大きく、ぽっかりと口を開けて待っているよ」 いたずらのロキの神が、ぴょんぴょんと跳ねて前へ飛び出していった。 「待てっ! 油断をするな」 トールは刀を構えて、口を開けている大きな洞穴に近づいて行った。ひやっとする、冷たい風が流れてくる。 洞穴に一歩入ると、右と左に幽霊が座っていた。 「あっ、ゆ、幽霊だ……」 ロキもチアルフもロスカもぶるぶるっと震えたが、幽霊の方もがたがた震え出した。鉛のような歯がカチカチと音を立てている。 右は男で、左は女の幽霊だ。 「お、お前たちは、ど、どこから、どこから入ってきたのだ」 男の幽霊は、死人の骨で作った槍のようなものを持っている。女の幽霊の頭には、カラスの羽が何本もついている。二人とも、青い光の鎧を付けていた。 「お前たちの血は、まだ温かい……。いま戦場で死んだばかりかな……。ああ、あの恐ろしい戦争が、まだまだ続いているらしいな」 冷たい、冷たい声だ。 女の幽霊が、かすれた声で言った。 「お前さん達は、何が欲しくてここに来たの……。夜が食べたいの……。それとも、あの恐ろしい魔女に食べられたいのかい」 ひ、ひ、ひ、ひと笑った女の幽霊は、 「お帰り、さあ、早く、早く……」 と、不意に大きな声を出した。その声が、大きな洞穴の中で不気味に響いて広がった。 チアルフとロスカは目を固くつぶって、両手で耳を押さえていた。その二人を、ロキは母親のようにしっかりと抱きしめていた。 「ト、ト、トール……か、帰ろう」 ロキも歯をカチカチと鳴らしだした。 「ロキ、喜べ! ここは地獄らしいぞ。お前の、死んだ娘と会えるんだぞ!」 「えっ、じ、地獄! 嫌だ、嫌な所だ。こんなぞくぞくする穴ぐらから、早く出よう」 「なに、早く出よう? ロキ! 馬鹿な事を言うな! うっかりした事を言うと、それこそ、ここから出られなくなるぞ」 「トール、おどかすなよ」 「女のようにくよくよするな! それでも戦士か」 「よし、それじゃ、どこまでも行くよ!」 「それでこそ、本当のロキだ! こういう所に来ても、いたずらをするようでなければ、本当のいたずらの神と言われないぞ」 「そうだ、お前たちも、元気を出せ!」 ロキは歯をカチカチと鳴らしながら、チアルフとロスカに力を込めて言った。自分では力を込めて、堂々と言ったつもりだが、その声はかすれて震えていた。 トールが歩き出した。ロキもすぐその後に続いた。足音が不気味に響いている。 ロスカはいつの間にか、トールの太い腕にしがみついていた。 二人が肩を並べて歩くのがやっとというほど、洞穴の岩と岩の間が狭くなってきた。その岩の壁が青く光っている。 水がちょろちょろと音を立てて流れている。その水に触るとひやっとした。 「あ、生暖かい風が吹いてきたぞ!」 不意に叫んだロキの声が、頭の上でがんがんと響いた。 目の前が急に、ぱっと広がった。天井の高い、大きな洞穴に出たのだ。 「あ、あんな所に幽霊が……」 洞穴の両側には、がたがた震えている幽霊たちが、数えきれないぐらい立っていた。その何百という冷たい目が、四人に集中した。 「おい、あそこを見ろ!」 トールが不意に叫んだ。 「きゃ……」 と、ロスカの悲鳴が上がった。 「ロスカ! 大丈夫だよ」 兄のチアルフが、ロスカの身体をしっかりと抱いた。 「あ、あれは……」 ロキの震える声が、ひゅうっと唸った風の音に吹き消された。 「幽霊の王座だ。見ろ、ロキ! あそこに座っているのは、お前の娘、ヘルじゃないか!」 「えっ!」 ロキはびっくりして、洞穴の中段の正面を見た。 王座は、人間の骨と骸骨でできている。その上に胸を張って座っている女の身体は、上が真っ青で、下が真っ赤だ。 「あっ、ヘ、ヘル……」 ロキはふらふらっとして、その場に倒れかかった。 「ロキ! しっかりしろ」 ロキの背中をどんと叩いたトールは、鋭い声で叫んだ。 「臆病者! お前はびくびくするために生まれてきたのか。びくびくして死ぬ運命を自分で作ろうとしているのか! みっともないぞ」 ロキは目を開けた。だが、何も言わなかった。 トールは青い光を放っている王座の前へ近づいて行った。 「幽霊の女王! 我々は、自分から好んでここに来たのではない。道が一つしかなかったのだ」 女王は黙っていた。 「我々は、巨人の国へ行く途中、道に迷っただけだ! もし、巨人の世界に行く近道を知っていたら教えて欲しい!」 上が真っ青で下が真っ赤の幽霊の女王は、たくましいトールの身体を舐めるように見つめていた。 突然、女王のヘルが叫んだ。 「ああ、あなたの、その、その健康な身体を、私は、私は見ていられない!」 真っ赤な口が耳まで裂けて、不気味な声が大きな洞穴の中に響いた。 「頼む! すぐ、すぐ、ここから出て行って欲しい! 巨人の国へ行く道は、この下の細い道を行けばすぐだ! 早く、さ、早く!」 幽霊の女王が苦しそうに胸をかきむしった。すると、洞穴の両側に立っている幽霊たちが、しくしくと泣き出した。耳が痛くなるぐらい騒がしくなった。 「ロキ! 行くぞ」 トールは、震えているロスカを抱き上げて歩き出した。 チアルフはその後にすぐ続いた。 二、三歩歩きかけたロキは、足を止めて王座を見上げた。 (あ……あれが、私の娘なのか!) 思わず顔をそむけた。 生きている時は、悪い事ばかりしていた娘だ。 かわいい小鳥の羽をもぎったり、家に火をつけたり、子供の顔に火を押し付けたりして、神様たちを困らせたり、怒らせたりしたものだ。 その娘が、物凄い所に、物凄い姿をして座っている。ロキは顔を伏せると、一気に駆けだした。走りながら、涙をぼろぼろとこぼしていた。苦しくて、苦しくて、喉が詰まる思いがした。しばらく走ると、頭の上に、月がぽっかりと見えた。 ☆ 雲の間から月が出ていた。 ロキは、草の上にペタっと座った。 草は夜露でしっとりと濡れていた。 「ロキ、向こうに家があるぞ!」 「あっ、本当だ! 本当だよ」 洞穴から飛び出してきたチアルフが、嬉しそうに叫んだ。 「えっ、本当か!」 ぴょんと立ち上がったロキは、初めて辺りを見た。五百メートルほど先に大きな森が見えた。その手前の野原の真ん中に、一件の家がぽつんと立っていた。 「しめた、夜露に濡れないですんだぞ。ああ、眠い、眠い」 ロキはぶつぶつ言いながら家まで走った。 家の中には何もなく、誰もいなかった。 「こりゃ、空き家だ」 「空き家でもなんでもいい、オレはくたくただ」 と言うや、ロキはその場にばったりと倒れてしまった。 「だらしのない奴だ。ロスカに笑われるぞ」 そう言って、トールは抱いている女の子の顔に目を向けた。ロスカは可愛い顔をして寝ていた。 「なんだロスカも……」 トールの神は、月の光に照らされているロスカの顔に目をとめた。美しい顔だ。 (よしっ、この子を、幸せにしてやるぞ!) トールはロスカを静かに、静かに寝かした。チアルフは、もうロキの横でいびきをかいていた。 「さてと、それでは、この幸せな三人の番をしながら、わしも寝るとするか」 家の入口の黒い壁の前に、どかっと腰を下ろすと、トールは不思議な刀を抱えて目をつぶった。 それから、どのくらい経った頃か――。ふいに、ぐらぐらっと地震が来た。 ひやーっ、と飛び上がったロキは、真っ先に外へ飛び出していた。 「早く早く、森へ逃げるんだ。家の中にいては危ないぞ!」 ロキは一人で大騒ぎをしている。 ロスカとチアルフを抱えたトールが、ゆっくりと家の中から出てきた。 「ロキ、静かにしろ。よく寝ているんだ」 四人は大きく枝を伸ばしている木の下で一夜を過ごした。 夜明けに、またゴロゴロッと空が鳴った。 「雷にしてはおかしいぞ?」 雷の神と呼ばれているトールの神だ。 不思議な刀をさっと抜くと、不気味な音のする方へ近づいて行った。 グオ―― グオ―― という、物凄い音があたりの大木を激しく揺さぶっている。 「あっ、巨人だ」 森の中の広場に、全身毛だらけの大男が長々と寝そべっていた。 「そうか、夕べ、地震と思ったのは、この男のいびきだったのか」 トールは目的の巨人の国があまりにも近くにあったのでびっくりした。 大男の目が開いた。 「うるさい奴だ! お前は誰だ、どこから来たんだ!」 と言いながらも、大男は目の前に立っているトールを見ようともしないで、辺りをきょろきょろと見まわしていた。 「おやっ、手袋が無いぞ? あっ、あった、あった!」 太い大きな腕が、びゅっと風を切ったと見る間に、森の外にぽつんと立っている一軒の家をつかんだ。 「えっ、あ、あれが手袋か!」 トールはどきっとした。家だと思い込んでいたものが、巨人の手袋だったのだ。 「あった、あった、こいつが無いと困るからな」 と言った大男は、ぎょろっとトールを見た。 「おう、お前はトールの神だな! いやいや、名前を聞かなくても知っている。そんな変な顔はそういないからな。うはははは」 森の木がぶるぶると震えた。 「お前は誰だ!」 「わしか。わしは巨人の国の王様ウトガルデロックの家来だ。お前こそ、何の用があって巨人の国に来たのだ」 「ウトガルデロック王に用があって来たんだ!」 「ほう、そうだったのか……よし、それでは、わしがお城の近くまで案内してやろう」 そう言って立ち上がろうとした大男は、木の下でガタガタ震えているロキと、女の子と、男の子を見つけた。 「トール、あれは、お前の家来か」 後ろを振り返ったトールは、 「そうだ、仲間だ!」 と叫んだ。 立ち上がった巨人の顔は、森の上に飛び出していた。歩くたびにグラグラっと、地面が激しく揺れる。足をドシン! と降ろすたびに、ロキたちの身体がピョンピョンと跳ねている。 森から野原へ出た。大きな大きなお城が、美しい野原の真ん中にそびえていた。 「トール、あれが王様の城だ。いいか、悪い事は言わぬ。あまり大きなことは言わぬほうがいいぞ! では、わしはここで失礼する。そうだ、腹が減っただろう。この袋に食べ物が入っている。では、ごめん!」 腰に下げていた袋をポンと下に置くと、大男はズシンズシンと遠ざかっていった。トールの神は、目を輝かして、その後姿を見つめていた。 袋の中には、干し肉や果物が入っていた。 食事を済ますと、四人はお城に向かって歩き出した。 美しい野原に、甘い香りが漂ってきた。花の匂いだ。 「ロスカ、あれを見てごらん。あの林が、草の茎なんだよ」 トールに言われて、三人は上を見た。緑色の太い木の上に、紫色の花が付いている。大きな大きな花びらが風に揺れている。 「ひや……すごい花だ!」 「あっ、あれはトンボだ!」 チアルフが突然叫んだ。 羽の長さが二メートルもある、大きな大きなトンボだ。 トールは刀を抜いて、みんなに危険を知らせた。黒い影は、すうっと頭の上を通り過ぎて行った。 「何もかも、見上げるほど大きいんですね」 と、チアルフが言った。 「当たり前だ。だから巨人の国と言われるんだ」 ロキはふと小人の世界を思い出した。様々なものを作った大神の方が、じぶんよりもっともっと悪戯好きだと思った。 お城が近づいてきた。上の方が雲に隠れている。 「うむ、これは凄い!」 巨大な門を見つめたトールは、思わずうなってしまった。 「これは都合の良い事だ。下から楽に通れるぞ」 ロキの神は、さっさとくぐっていった。まるで、珍しい国に遊びに来たようなはしゃぎようだ。 「あっ、トール、あれを見ろ」 巨大な宮殿の前の広場に、大勢の巨人が背中を問の方に向けてずらりと立っていた。 その向こうから、威張った声が聞こえる。 「よいか、小さな人間が四人やって来るが、決して手を出してはいけないぞ」 トールはびっくりした。なんでも見ることが出来る、魔法の玉があるのに違いない。 「よし、こうなったら、堂々と王様の前へ行こう」 四人は巨人の間を通って、前へ、前へ進んだ。悪戯好きのロキだけは、ときどき、足を開いて立っている巨人の下を通って、きゃっきゃっと声を上げて喜んでいる。 「おう、やって来たな……」 空がバリバリっと裂けたかと思った。物凄い声だ。 「巨人国の王、ウトガルデロックか!」 王の前に立ったトールが叫んだ。 「そうだ。お前はトールだな。よく来た! ここに来るまでには、色々苦しい事があっただろう……。何のために来たのか、そんな事はどうでもよい!」 トールは、どこかで聞いたような声だと思った。だが、どうしても思い出せなかった。 「この国に来た者は、何か一つ優れたものを持っていないと、誰も話し相手にならないのだ! お前にも、お前の家来たちにも、何か一つぐらいは人に負けない物があるだろう」 ロキが、 「しめた!」 と叫んだ。 「ありますとも。食い競争なら、私は誰にも負けないんだ」 散々歩いてきたので、ロキはお腹がペコペコだった。 「これは面白い! では、さっそく見せてもらおう」 ウトガルデロック王の命令で、肉が山のように盛ってある、大きな木皿が二つ並べられた。 「ロゲ! ロキの神の相手をしろ」 「はっ!」 王の命令で肉の山の前に立った巨人の身体は、真っ赤だ。トールの神より真っ赤だ。 それもそのはず、ロゲは、炎と言われている巨人だ。めらめらと火が燃えるように肉の山を食べだした。 ロキも負けずと、むしゃむしゃと食べだした。ロゲが勝つか! ロキが勝つか! 山のような肉の塊が、見る見るうちになくなっていった。 「ロキ、頑張れ!」 と、いくら応援しても、ロゲの減り方の方が早い。 「ああ、駄目だ」 チアルフがついに目をつぶってしまった。 「よし、次は僕だ! 走る事なら負けないぞ!」 ロキが負けると、チアルフが飛び出した。 「チアルフ、偉いぞ。よしっ、頑張ってみろ!」 トールが嬉しそうに叫んだ。 「これはすごいぞ。あんなチビが、風より早く走るというのだ……。フーゲ、お前、やってみろ!」 ひょろひょろっと背の高い巨人が、ゆっくりと出てきた。自分の足元を見るように少年を見た。 「向こうの金の棒を回って、ここに戻ってくるのだ。よいな! では、走れ!」 チアルフはさっと飛び出した。 びゅんびゅん風を切って走った。歯を食いしばって、必死に走って、走って、走り続けた。 でも、勝てるはずがない。笑いながら走っているフーゲは、すいすいっと行って、すいすいっと戻ってきた。 「よし、今度はオレだ! 力と力の戦いをする者はいないか!」 腰につけていた刀を下に置くと、トールはウトガルデロック王の前に仁王立ちになった。 「これは面白い。だが、気の毒だが、お前さんと取っ組んで、負けそうな男はいないよ。そうだ、エレを呼べ!」 トールは、さっそうと出てくる若者の顔を目に浮かべた。 ところが、ひょろひょろと出てきたのは、歯が全部抜けたお婆さんだった。 「えっ、こ、こんなよぼよぼの……」 「よぼよぼ、かな……。トール、馬鹿にすると酷い目に遭うぞ」 そう言うと、ウトガルデロック王は楽しそうに笑いだした。 「よし、行くぞ!」 ぱっと、トールはエレに飛びかかった。 神々の国で、トールのその勢いを、ぐっと受け止める者はいない。ほとんどの者が、ドシンと尻餅をついてしまう。 それなのに、よぼよぼのおばあさんは、平気な顔をして立っている。 「えい! とうー」 トールの気合だけが、まるで一人で空回りしているようだ。 その内に、あっと言う間にトールの大きな体が投げ飛ばされてしまった。トールはくるくると二回転すると、さっと立ち上がってもう一度飛びかかっていこうとした。 「トール、やめろ! 勝負は決まった。男らしくないぞ」 「しかし、まだ……」 「よし、それほど言うなら、あの猫を片手で持ち上げてみろ」 「えっ、猫を……」 トールの顔が真っ赤になった。 「トール、怒るな怒るな。確かに、猫を持ち上げるゲームは、巨人の国では子供の遊びだ。しかし、それが出来ないと一人前の若者になれないのだ」 トールは、ウトガルデロック王の前で、のんびりと日向ぼっこをしている金色の猫を見つめた。つかつかとその前に来ると、トールは右手を猫のお腹の下に差し込んだ。 そして、ひょいと持ち上げようとした。トールの顔が、ぴくっと動いた。真剣になった。髪も顎髭もピンと立って、火花が飛び散った。だが、猫はびくともしないのだ。 ついにトールは両手を使った。それでも、猫は持ち上がらなかった。お腹がやっと離れたが、足は下にピタっとくっついたままだ。 「参った……」 トールはその場にばったりと倒れてしまった。大きな口を開けて、はあはあ言っている。 「そうだ、酒だ! 酒を持ってこい! 酒の飲み比べだ!」 太い動物の角が二つ用意された。赤い酒がどくどくとつがれた。トールはぐいぐいと飲んだ。飲んでも飲んでも尽きなかった。 青い顔をした若者は、一気に飲み干すと、けろりとした顔でトールを眺めている。 トールはまだ飲んでいる。 その内バタッと倒れてしまった。そのままグウグウといびきをかきだした。 「寝かしておけ、目が覚めるまで、寝かしておくんだ」 ウトガルデロック王が立ち上がると、美しい音楽が鳴りだした。王も家来達も、どこかへ消えていった。 広い、広い大広場に、四人だけがぽつんと取り残された。 やがて朝が来た。 トールが目を覚ました。 その時、巨人がぞろぞろと出てきて、昨日のように並び出した。美しい音楽が鳴って、ウトガルデロック王が姿を現した。 「どうだな、トールの神」 優しい声だ。トールはまた、どこかで聞いたような声だと思った。 「だいぶ、自信を失ったような顔だな。結構、結構。広い世の中には、お前さん以上の力持ちがいっぱいいる事が分かれば、それでいいのだ」 ウトガルデロック王はにこにこ笑っている。 「だが、本当の話を聞かせてあげよう。トール、お前さんは大変な力持ちだよ。大変な豪傑だよ」 不意に話が変わったので、トールも、そばにいるロキたちもビックリした。 「わしは、力ではお前さんに到底勝つことが出来ない。そこでだ、魔法を使ったのだ」 「えっ、魔法!」 「そうだ。あのお婆さんのエレの事だが、あれは“老年”なんだ」 「老年?」 「さよう。人間はいつか必ず年をとる。それは、どうする事も出来ないのだ。いくらうまい物を食べても、薬を飲んでも、お爺さんになり、お婆さんになる。人間がいくら暴れても、わめいても、駄目なんだ」 「それを、あの力相撲で見せたのか」 「それから、あの猫だが……。本当のことを言うと、あれは大地を取り巻いている大蛇だったのだ」 「えっ!」 「猫のお腹が持ち上がった時は、わしはびっくりしたよ。それから、お前さんが飲んだ酒は海だったのじゃ」 「えっ、う、海!」 「海じゃ、いくら飲んでも飲んでも尽きないはずじゃろ」 ウトガルデロック王の顔が急に真剣になった。 「トールの神! 何故、わしがそんな魔法を使ったか分かるかな。わしは争いが大嫌いだからさ。お前さんが何をしに来たか、ちゃんと知っている。オーディンの大神の神殿を、わざと踏みつぶしたのではない! 誤って蹴ってしまったのだ」 「誤って?」 「その瞬間、永遠に燃え続けていた神の火が消えてしまったのだ」 トールは何も言えなかった。 嘘ならば、激しい怒りが湧いてくるはずだ。 その時、ふと、お城にやってくる前、森の中で会った大男の事を思い出した。 「あっ、あの声だ!」 と叫んだ時、 「トール、国へ帰ったら、よく大神に詫びてくれ。それから、この魔法の鉄の手袋は、お前さんに上げよう。大きくなったり、小さくなったり、そりゃ便利だぞ。それに手袋が無くては、真っ赤に焼けるその立派な刀を持ってはおられまい。では、ごめん!」 と言って、巨人の王ウトガルデロックは、煙のように消えてしまった。四人がはっと気が付いた時には、大勢の家来も、お城も消えていた。 「あっ、ヤギの馬車だ!」 ふいに、少年チアルフの元気な声が上がった。 六頭のヤギが、嬉しそうに鳴いた。 辺りには美しい緑の大平原が続いていた。 ☆ 戦の支度をしていた神々の国に、再び平和が訪れた。 「そうだ、お前が無事に帰って来たらお祝いをしたいと、海の神イーギルが行っていたぞ」 と、一人の神様がトールに言った。 「そうか、ではさっそく、イーギルの城へ出かけよう」 神々はわいわい騒ぎながら、海の底へ降りて行った。 「おう、よく来てくれた」 イーギルの神は喜んで神々を迎えた。ところが酒を飲み出すと、神々は急に不機嫌になった。 「どうも、こんな小さな貝の盃では酒がまずいな」 「そうだ。もっと大きな器は無いのか」 その話し声を耳にしたイーギルの神が、 「いや、悪い悪い! 食べる物はいくらでもうまい物はあるが、確かに、その小さな貝ではまずいな」 と言った。 「では、どこからか大きな器を手に入れてきたらどうだ」 頑固者のトールがすぐ叫んだ。 「しかし、どこから……と言っても」 海の神イーギルは、いかにも困ったような顔をした。すると、チルという神様が、 「そうだ」 と、不意に大きな声を出した。 「私の親父の家に素晴らしい大きな釜があるんだ」 チルの神は目を輝かせて、さらにしゃべり続けた。 「それは素晴らしい大釜だ。親父は釜を集めるのが好きで、見事な釜がいっぱいある。だが、その大釜は深さが一キロもあるのだ」 一キロと聞いて、トールの顔色が変わった。 「お前の家は、確かエリファガル川の近くだったな」 「そうだ。エリファガル川の東の、地と天の境だ。だが、親父のヒメルが問題だ」 「知っている。千人力で気が荒いと聞いている」 「他の釜なら、きっと分けてくれるだろう」 「いや、わしはその大釜が欲しくなった。チル、行こう! 必ず親父と仲良くなって、もらってみせるぞ」 「そうか、では、出かけよう」 二人は空飛ぶ魚にまたがると、海の中から飛び出した。 抜いたり抜かれたり、空飛ぶ競争を楽しんでいる内に、美しい夕焼けに染まったエリファガル川が見えてきた。ヒメルの城は、その河口にあった。 「お前の親父は、よほど釜が好きなんだな」 釜を逆さまにして、ぽんと置いたような城を見て、トールはお腹を抱えて笑い出した。 「トール、変な笑い方をするな! もし、親父の耳に聞こえたら、それこそ大変なことになるからな」 チルの真剣な顔を見て、トールの胸もキュッとしまった。城の側の水面に降りると、二人は裏口からこっそりと中へ入っていった。 「まあ、チル! いつ帰ってきたの」 チルを見つけたお母さんが、嬉しそうに駆け寄ってきた。 「お母さん、あの大釜をもらいに来たんですよ。ええ、神々に差し上げるのです」 綺麗な若いお母さんは、ちらっとトールの神を見た。そして、暗い顔をした。 「でも、今日は駄目だよ。とても荒れているの。うかつな事を口にしたら、それこそ殺されてしまうわ」 お母さんは、二人を大きな部屋の中に案内した。部屋の周りに、大きな釜がいくつも並んでいる。 その大きな部屋を見回していたトールはびくっとして、目を止めた。そこに、九百の頭を持った、醜い、醜いお婆さんがいた。 「お婆さんは、もう、動くことも、口を利くことも出来ないんだから心配はいらないよ。でも、荒れているお父さんには困ったね」 と、お母さんが言った。 その時、ドシン! ドシン! と、地響きが伝わってきた。 「あっ、お父さんが海から帰ってきた! 早く早く、あの大きな釜の後ろに隠れて……。お母さんがきっと、ご機嫌を取ってあげますよ」 二人が釜の後ろに飛び込むと、ヒメルの神が入ってきた。 「う、う、う……人間臭いぞ!」 ぎょろっと部屋の中を見回した。 「チルが帰ってきたんです! 人間の味方で、悪魔の敵と言われている、一人の神様をお連れして」 お母さんは必死に叫んだ。 「うるさい! あの釜の後ろだな」 ヒメルが真っ赤な顔をして、ぐっと睨むと、並んでいる八つの釜が木っ端みじんに砕けて飛び散った。 トールとチルが隠れている前の大きな釜だけが、ポツンと残った。うひゃひゃひゃーと、物凄い笑い声が上がった。 「出てこい!」 チルが先に出た。続いてトールが姿を現した。グワォ、グワォとトールのお腹から物凄い音がしている。それを聞くと、ヒメルがまた笑い出した。 「牛を三頭ばかりひねりつぶしてやろう! 火をたけ、火の用意だ!」 今まで青い顔をしていたお母さんが、ニコッと笑った。 「トール、良かったな」 チルが嬉しそうに小さな声で言った。 牛がこんがりと焼けると、トールは二頭も食べてしまった。これがまた、ヒメルには気に入ったらしい。 「よし、明日の朝は、大きな大きな魚を捕って来てやろう」 と言って、酒を飲むとごろりと寝てしまった。 朝が来た。 ヒメルが海辺に来ると、そこにトールが立っていた。 「よし、乗れ……」 二人は海へ乗り出した。舟の中には、昨日ひねりつぶした牛の頭が転がっている。それが餌だ。 「ここらでいいだろう」 と、ふいにヒメルが叫んだ。 「ダメだ、こんなところで何が捕れる!」 トールは、まだぐんぐん漕いでいる。青い海が黒くなってきた。 「ここらで良かろう」 トールは舟を止めると大きな錨に、ぶつっと牛の頭をさして、ドボンと海へ放り投げた。間もなく、ぐ、ぐっと太い綱が引いた。 「それっ……」 グイっと引くと、クジラが水面から飛び出した。 「すごい獲物だ。トール、もういい、帰ろう」 何故かヒメルはそわそわしている。 「いや、一匹では足らん! もういっちょうだ」 ドボン! ぐぐっときた。 「やあ……」 トールの鋭い掛け声に、クジラが跳ね上がった。これで二つだ。 「トール、もう帰ろう! 危険だ」 「何が危険だ。こんな面白い事が他にあるか」 ぶつっと、牛の頭を錨に叩き込むと、トールはまたドボン! と海へ投げこんだ。これが最後の餌だ。 急に生暖かい風が吹き出した。真っ黒な海鳥が何百羽と集まってきた。 「なんだ?」 ぐっと空をにらんだトールは、鉄の手袋をはめて、不思議な刀をしっかりと握った。 「ミッドガルドだ……」 「ミッドガルド? 何だ、それは」 と言った時、太い綱がぐっと引いた。 「それ、もういっちょうだ!」 トールが素早く綱を手繰ると、海中に真っ赤な血が噴き出した。引いてあった綱が、急に緩んだ。 「トール、危ない!」 ヒメルは舟の底に身体を伏せた。頭の上が真っ暗になった。熱い風がトールの顔に当たった。 「あっ、大蛇だ……」 と叫んだ時、ヒメルが、 「ミッドガルドだ!」 と、き○がいのように叫んだ。 「えいっ……」 その時、物凄い声がトールの口から火のように噴き出した。 と同時に、不思議な刀がキラッと光った。 ギャオ――。 不気味な声が頭上で光った。その上から生暖かい血の雨が、夕立のように降ってきた。赤い海に、ミッドガルドの大きな大きな頭が落ちてきた。 「トール」 ヒメルはぽかんと口を開けたまま、水面に浮かんでいる大蛇の巨大な頭を見つめていた。 「お前ほど強い男を、わしは見た事が無い。強い、全く強い」 と、独り言を言っていたヒメルが、何を思ったかふらふらと立ち上がって、腰に巻き付けてある汚い帯をほどきだした。 「恐ろしいミッドガルドがいなくなった今は、もう、この力帯にも用はない。お前にやろう。……そうだ、あの大釜も担いでいくがよい」 「有難う!」 力帯を締めたトールの神は、元気よく舟をこぎ出した。物凄い力である。二頭のクジラと大蛇の巨大な頭を引いているのに、すいすいと進む。 朝の太陽を一杯に浴びた、エリファガル川の河口が見えてきた。 ☆ その頃、朝の太陽を浴びて、神々の王オーディンは馬にまたがって空を飛び回っていた。 翼のある白馬スレイプニルは、勢いよく神々の国から、巨人の国の上空に飛び出していた。 すると目の前に、真っ黒な馬に乗った髭だらけの巨人が現れた。 「お前は誰だ!」 と叫んで、巨人は太い手綱をぐっと引いた。金色のたてがみがキラキラと輝いた。 「私は神々の王、オーディンだ」 巨人はオーディンの顔を見ようともしないで、白馬スレイプニルをじいっと見つめていた。 「いい馬だ! うむ、素晴らしい」 これを聞いたオーディンの大神は胸をそらした。 「どうだ、これに並ぶ馬は無いだろう」 「なにっ!」 巨人がぎょろっと大神を見た。 「そうかな……。わしのこのグルファクシに勝てるかな」 笑っていたオーディンの顔色がさっと変わった。 「よし、では、追いつけるか来てみろ!」 ヒュッと風が鳴った。 白馬スレイプニルは雲を蹴った。後に続くグルファクシ! 空を蹴って蹴って蹴り続けたので、朝の空がお昼に、昼の空が早くも夕焼けに染まってきた。 はっと馬を止めた巨人は、びっくりして辺りを見た。いつの間にか神々の国の都に来ていた。 「しまった!」 と叫んだが既に遅かった。周りを火の神、風の神、雲の神、雨の神などがぐるりと取り囲んでいた。 巨人は神々の怒りに触れて、殺されると思った。盾も刀も無い。 「心配はいらぬ。君は大神の友達ではないか」 風の神が優しく言った。 「そうだ、何を勘違いしているのだ。さあ、一緒に酒でも飲もう。喉が渇いただろう」 神々の案内で、巨人は城の中へ入って行った。 「これは有難い」 酒をなみなみとついだ大きな壺を両手で持つと、ゴクンゴクンと音を立てて一気に飲み干してしまった。 「やあ、美味かった! わしは巨人の国の勇士フルングニルと申す……。フルングニルとは、永遠の若者と言うのじゃ」 と言っては、また大きな壺の酒をぐっと飲みほした。 その大きな壺を、じっと見ている者がいた。トールの帰りを待っている、シフの女神であった。 「あの壺は、トールが大切にしている物……。もし、壊しでもしたら、それこそ……」 巨人が壺をドシンと置くたびに、シフはいつの間にか前へ前へ身体を乗り出していた。 七杯目の酒を飲みかけていたフルングニルの口と手がふいに止まった。大きな目が、真正面に向いたままになった。神々は、思わず後ろを振り返った。 「あ、シフだ!」 神々は初めて、巨人が両手に持っている壺に気が付いた。いや、それ以上に恐ろしい事に気が付いた。巨人の目が怪しく燃えだしたのだ。 「わしは、金の髪が大好きだ。わしの名馬グルファクシに勝る、素晴らしい髪だ」 そう言いながら巨人はシフに近づいて行った。 「やめなさい! 悪ふざけはいけない」 雲の神が間に入ったが、フルングニルは雲をかき分けてシフに近づいた。 「グルファクシ! 帰るぞ……素晴らしい土産を抱えて帰るのだ!」 シフは、逃げようとしたが足が動かなかった。 巨人の手がシフの身体に触れようとした。きゃーっと、シフの悲鳴が上がった。 その時だ。 「あっ、トールだ! トールの神が帰ってきたぞ……」 と、どっと声が上がった。 大広間に姿を表したトールは火のように怒り出した。真っ赤な髪と顎髭がピンと立って、火花が噴水のようにほとばしった。 さすがの巨人もびっくりして、足がすくんでしまった。 「待て! トール、気を静めろ! 平和の城に血を流すな!」 火の神の鋭い声に、トールは刀から手を離した。 「お前がトールか! 戦うなら、堂々と戦いたいものだ。わしはこの通り丸腰だぞ」 巨人の前に、雨の神が立った。 「トール、この方は大神の友達としてお招きしたのだ、気を静めろ!」 シュシュシュと激しい音を立てていたトールの全身から、火花が消えていった。 「よし、それでは堂々と戦おう! 場所と、時を決めろ!」 「よかろう! 場所は巨人の国と神々の国の境のグリオッツガルド! 時は明日の夜明けだ!」 金のたてがみを風になびかしているグルファクシに飛び乗るや、巨人フルングニルは夜風に乗った。そして、あっと言う間に星空に消えていった。その後姿を見つめていたトールの神は、夜明けが待ち遠しくてまたらなかった。 夜明けが近づいた。 静かだ。 神々の国と、巨人の国の境、グリオッツガルドの草原に立つ二つの影! 巨大な影と、それを見上げるように立っている影が、美しい朝焼けの前にくっきりと浮き出ているように見える。 巨人は左手で大きな盾を構え、右手に太い意志の棒を握っている。 トールは鉄の手袋をはめ、不思議な刀を握り締めている。 じりっ、じりっと、二つの影が寄った。 「えい!」 と叫んだトールの声が、ばりばりっと天を引き裂いたかのように聞こえた。 巨人のフルングニルははっと、思わず上を見た。その時、ぐる、ぐるっと回していたトールの刀が、ビュンと飛んできた。それは、あっと言う間の事であった。 巨人は石の棒で、飛んできた刀を受け止めた。 が、太い石の棒は木っ端みじんに砕けて飛び散った。不思議な刀ミヨルニルは、空中でくるっと一回転して、矢のように巨人の頭をめがけて突き刺さっていった。 ガオ! グオ! グオ! 同時に二つの物凄い声が大空を震わした。 ギャーッ――と叫んだのは、トールの声だ。 木っ端みじんに砕けた石の雨が、トールの頭にばらばらっと落ちてきた。その中でも特に大きな一つの石が、トールの頭の後ろに強く当たったのだ。 トールはそのまま気が遠くなっていった。きらっと光を跳ね返しながら飛んで行ったミヨルニルが、巨人の頭にぐさっと突き刺さったのを、トールははっきりと見た。真っ赤な血がパッと四方へ飛び散ったのも見た。が、その全てがかすんで、その中に自分が小さく小さく溶け込んでいくような気がした。 トールはドシンと倒れた。 倒れたトールの首の上に、巨人の巨大な片足がどんと落ちてきた。 「勝った、トールが勝ったぞ!」 雲のふちから顔を出して見ていた神々が駆け寄ってきた。だが、首の上に乗っている巨大な足を、どうしてもどかすことが出来なかった。 「みんなで力を合わせろ!」 それでも動かなかった。 そこに、三つになる息子のマグニの手を引いてシフの女神が飛んできた。 「まあ……」 シフは今にも泣きだしそうな顔をした。その時、母の手から離れたマグニが、ドシンドシンと父親の側へ近づいて行った。 気を失って倒れているトールの顔を、しばらく見ていたが、にこっと笑った。 そして、巨人の片足に手をかけたかと思うと、えいっ! と跳ねのけてしまった。 「おっ……」 神々の驚く声が、どっとあがった。その声に、トールが目を開けた。 ☆ ある朝、トールが目を覚ますと、大切な刀が無くなっていた。 「マグニでも、持って行ったのか」 と、シフの女神に訊いた。 「いいえ」 見ると、マグニは物凄いいびきをかいて、まだ寝ていた。 どこを探しても、ミヨルニルは見つからなかった。トールの顔が次第に激しくなってきた。 そこに、いたずらの神、ロキがひょっこりとやって来た。 「お前だな! ミヨルニルを隠して喜んでいるのは……」 不意に胸ぐらをつかまれて、ロキの神は目が飛び出しそうになった。 「く、く、苦しい、は、放してくれ! 違う、オレじゃない。ほ、本当だ」 その真剣な顔を見て、トールは手を離した。 「良かった。もし、この事が巨人の国に知れたら、どっと攻めてくるだろう」 「心配するな。きっとどこかにあるさ。そうだ。あの美しいフライアの女神が、タカの羽を貸してくれたら、必ず捜し出してみせるよ!」 ロキが力を込めて叫んだ。 「そうか、よし! では早速フライアの女神の所へ行こう!」 二人は、すぐフライアの女神のもとへ飛んで行った。神々の国が危ないと思った女神は、喜んでタカの羽を貸してくれた。 その羽を付けると、ロキは見事なタカになって大空へはばたいた。 グリオッツガルドの大草原に流れるイフイング川を越えると、巨人国の荒野が続いた。岩だらけの丘の上に建っているトリムの城が見えてきた。 その城の庭から、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。 「王様、たいそうご機嫌がよろしいですが、何か素晴らしい事でもあったのですか」 空の上から、ロキは声をかけた。 「おう、タカか! そうとも、見事な刀を盗んできたのさ」 「見事な刀……。それはトールの刀でしょう。神々の国では、大変な騒ぎですよ」 「そうか! それはいいぞ」 トリム王はガボガボと音を立てて笑い出した。 「しかし、王様……あんな刀を盗んだって、楽しくないでしょう。それよりも、あの美しいフライアの女神と取り換えたらどうです」 ガボガボと笑っていたトリム王の顔が、鉄のように固くなった。 「なるほど! お前はかなり利口なタカだな。よし、そうしよう! フライアをオレの嫁さんにくれるなら、刀は返してやるとトールに伝えてくれ。ガボ、ガボ、ガボ……」 しめた、とばかりに、ロキは神々の国をめがけて空を切って飛んだ。 「えっ! まさか、そんなことが出来るものか」 話を聞いたトールは、顔色を変えた。 喜んだのは、いたずら好きのロキだ。 (よし、今度はあの美しい女神を困らせてやろう) 二人はフライアの女神の所へ行った。思った通り、フライアは怒り出した。 「私は死んでも行きません!」 トールはがっかりした。 だが、ロキの顔は明るい。 その顔を見ると、ロキが何かをたくらんでいることが分かる。 しかし、それに気づくトールではなかった。握りしめた拳を激しく振るわせて、歯をかみしめていた。 「トール、そんなに怒ると身体に悪いぞ。考えても考えてもどうにもならない時にはどうするのだ」 トールはロキの顔を見た。その時初めて、平気な顔をしているロキを知った。 「考えが無くなった時は、考えの神のもとへ行く」 「そうだ、それでいいんだ」 「そうか、考えの神ハイムダルの所へ行こう!」 トールとロキは、大きなタカに化けたフライアの女神の背中にまたがると、ハイムダルの所へ飛んだ。そこにはすでに神々が集まっていた。 「騒ぐことは無い。フライアの女神をやれば、それですべては平和に収まるのだ」 フライアの女神が、わっと泣き出した。 「何故泣くのだ! わしはお前さんをあの醜い男のもとへやるとは言っていないぞ」 「えっ!」 と驚く声が上がった。 「と、言うと?」 トールが叫んだ。 「お前が行くんだ」 また、騒がしくなった。 「ハイムダル、はっきり言ってくれ! それは、どういう事だ」 トールは真剣だ。 「お前さんが花嫁になるのさ」 神々がどっと笑った。が、すぐ、見事な作戦に感心した。 「良いか、トール。彼らは必ず、刀で花嫁を清める……その時だ!」 トールの目がキラッと光った。 さっそく、トールの花嫁支度にかかった。 ロキはタカになって、トリムの城へ飛んで行った。 「そうか、フライアの女神が来るか。ガボ、ガボ、ガボ……」 トリム王は、子供のようにはしゃぎまわった。 「では、さっそくお連れしてまいります」 ロキのタカは、再び神々の国へ帰っていった。 神々の国の勇士、トールの花嫁姿! 考えただけでも、ロキは楽しくて、楽しくてたまらなかった。 その花嫁の姿を見た途端、ロキはぷっと噴き出してしまった。 「いや、これはすごい!」 と言うと、げらげらと笑い出した。その内、笑いながら転がり出した。 花嫁の頭が、たくましい神々の上にぬっと出ている。 「ロキ、静かにしろっ! 相手は巨人だ。ちょうどいいんだ」 火の神が、真っ赤な顔をして怒った。 「では、成功を祈るぞ」 考えの神が、花嫁の大きな手をぎゅっと握った。 「さあ、花嫁さん、背中に乗って下さい」 大きなタカに化けたロキは、鋭い目をトールに向けた。トールはしっかりと、タカの首にまたがった。 風の神が、さっと風を吹き上げた。 花嫁を乗せたタカは、大空へ飛び立った。 トリムの城へ―― トリムの城へ―― イフイング川の上に来た時、トールは自分の姿を鏡のような水面に見た。ウハハハハハと思わず笑いだしてしまった。 「トール、静かに! 巨人に見つかったらどうなるんだ」 トールは慌てて口を押さえた。 「あっ、トリムの城だ」 丘や城の庭で、巨人断ちが嬉しそうに手を振っている。 城の真上を三回回ったロキのタカは、すうっと庭に向かって舞い降りた。 「おう、フライア!」 トリム王は胸を震わせて花嫁を見た。 「これは立派な花嫁だ」 トリムはお祝いの大広間にズシンズシンと歩いて行った。そこにはご馳走が山のように積んであった。 「さあ、みんな、思い切り食べろ! 飲め! 倒れるまで飲め!」 酒好きのトールののどが、ゴクリ、ゴクリ! と鳴った。トリムが不思議そうに見た。 「空をかけて来たので、喉が渇いているのです」 花嫁の横にいるタカが言った。 「そうか。さあ、お前も飲め! お腹が空いただろう。食べろ、食べろ、ガボ、ガボ、ガボ……」 トールはお腹がグウグウ鳴り出したので、目の前にある大きな牛の丸焼きをぐっとつかんで、むしゃむしゃと食べだした。ゴクンゴクンと酒を飲み出した。 「これはすごい! トリム王のお妃にもってこいだ!」 巨人たちは、どっと声を上げて喜んだ。 ロキは冷や冷やして、足が震え出した。 「そうだ、誰か、あの刀を持ってこい! 花嫁を清めるのだ!」 不思議な刀、ミヨルニルが運ばれてきた。トールの目が、ぎらっと光った。 「刀を抜け。そして、花嫁の前に置くんだ」 トリム王の命令で、一人の家来がミヨルニルを花嫁の膝の上に置いた。 と、同時に、花嫁の太い腕がぬっと伸びた。 「あっ!」 と叫んだトリム王の首が真っ先にすっ飛んだ。 フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク地方に、『トリムのクイダ』という歌が残っている。 飛び上がって喜んだロキのように、人々は今も、その歌を歌って楽しそうに手を叩いている。 乙女を清める剣をもて 乙女の膝に剣を置け われら しかと手を取りて 誓わん! いざ トール トールの胸は微笑む 膝の剣が置かるるや トリムの王の首をはね 群がる巨人をなぎ倒す! おう トール! トール! ☆ いたずら好きのロキの神は、もう一度タカになって大空を飛んでみたくなった。 「それでは、本当にもう一度だけですよ」 フライアの女神は、宝物のタカの羽をロキに貸した。 ロキはタカになって大空へ飛び立った。花嫁姿のトールを乗せて、巨人の国へ行った事を思い出した。 「そうだ。巨人の国へ行って、ひとつからかってやろう」 よせばよいのに、いたずら好きのロキは、巨人の国へ、巨人の国へと飛んで行った。緑の大草原に囲まれた高い山の上に、立派なお城があった。ロキはその城の屋根の上に舞い降りた。 「おう、見事なタカだ! 誰か行って、あのタカを捕まえて参れ」 城の王様ガイルロッドが大声で叫んだ。鷹捕りの名人と言われている一人の巨人が、するするっと城を上り出した。 これを見たロキが、飛び上がって喜んだ。わざとその巨人の側に飛んで行っては、するりっと身をひるがえして、ばさっと逃げた。その度に、巨人の顔が赤くなったり青くなったりした。もし、捕まえることが出来なかったら、気の荒いガイルロッド王の鋭い剣が飛んでくるのに違いない。 鷹捕りの名人は真剣になった。 ひらりと逃げようとするタカの太い足を、ガッチリとつかんだ。 バタバタと物凄い羽音が立った。ロキは必死に逃げようとした。だが、どうにもならなかった。 「偉いぞ! さすがは鷹捕りの名人だ」 バタバタ暴れているタカをじっと見つめていたガイルロッド王は、ふと、トールに殺された兄のトリム王の事を思い出した。 (そうだ! あの時のタカだ……) ガイルロッド王は、辺りがビリビリッと震えるぐらい大きな声で怒鳴った。 「お前は誰だ! 姿を見せろ!」 ロキは硬く目をつぶって、ぐっとこらえていた。今にきっと逃げるチャンスがある! 「よしっ、逃げられるものなら逃げてみろ!」 ガイルロッド王は、タカを鉄のかごの中に入れてしまった。 「ああ、もう、駄目だ……」 ロキはがっかりしてしまった。それでも逃げるチャンスを狙った。ところが、ひと月経ってもふた月経っても食べ物さえくれないのだ。 いたずら好きで、元気もののロキも、これにはすっかり参ってしまった。 「どうしたら許してくれるのだ」 と、ついに声をかけてしまった。 「そうだ、いかにもわしは神々の国の者だ。ロキの神だ」 と、今にも泣き出しそうな声で言った。 「お前がロキの神か。なかなかの知恵者と聞いているが、わしの言う事を聞いたら許してやろう」 ガイルロッド王は、いかにもずるそうな顔をして言った。 「どんな注文だい」 ロキの神は、もう真剣だ。 「トールと会いたいのだ。神々の国の英雄の顔を見たいのだ。ただし、あの恐ろしい刀と、手にはめているという魔法の手袋と、不思議な力の出る帯を身につけさせないで連れてきてもらいたいのだ」 ロキはびっくりした。 「そ、それは無理だ」 ロキは、トールの身に危険を感じた。 「ロキ、何を考えているのだ。わしはトリムのような目に遭いたくないからな。何も、喧嘩をしようと言うのではない。ただ、あの三つが恐ろしいだけなのだ」 「すると、仲良く酒でも飲もうと言うのかい?」 「そう、そうだとも! さすがは神々の国の知恵者だ」 褒められると、すぐいい気になるロキだ。 「よし、きっと三つの宝を置いて連れてくるよ!」 と、嬉しそうに叫んだ。 「よろしい、では、神々の国へ飛んでいけ!」 鉄の扉がさっと開けられた。 ロキは素早く大空へ飛び立った。 だが、何も食べていないので、思うように飛べない。ふらふら飛びながら、やっと神々の国にたどり着いた。 タカの羽をフライアの女神に返すと、元のロキになって、トールの所へ行った。 「どうした、ロキ! しばらく顔を見なかったが、どこへ行っていたのだ」 ロキの顔を見ると、トールは嬉しそうに叫んだ。 「実は……フライアの女神には内緒だよ。タカの羽を借りて、巨人の国へ遊びに行ったのだ」 「えっ、巨人の国へ?」 「ガイルロッドの城だ」 そう言ったロキは、いかにも楽しそうに話しだした。 「いや、本当だ。あんないい巨人は初めてだ。そのガイルロッド王が、是非お前に会いたいというのだ」 ロキは、なおも楽しそうに喋り続けた。 「そうか。そんなに、わしと会いたがっているのか」 しばらく考えていたトールは、 「よしっ、行こう! その代わり、お前も一緒だぞ」 と言った。ロキはびっくりした。 「えっ!」 「嫌か。嫌なら、わしもやめる」 「行く、行くよ。行けばいいんだろう」 トールはさっそく旅の支度をした。力帯を締め、鉄の手袋を持った。 「トール、駄目だよ! そんなものを持って行くと、喧嘩に来たと思われるだろう。ほら、トリムの事で、巨人たちは酷く怖がっているんだ。第一、お前ほどの者が、そんなものが無くては、巨人の前に行けないのかい」 ロキにそう言われて、トールはなるほどと思った。そこで、三つの宝を置いて旅に出た。 お供は、ロキとトールの家来になった百姓のせがれ、少年チアルフであった。 巨人の国との境に近づいた時、日が暮れた。そこでフイダルの神の城に泊まることにした。 みんなが寝静まった頃、フイダルの神のお母さんが、トールの側にやって来た。 「トール、お前さんは、見たところ丸腰だが、それは危険だよ。ガイルロッド王は、お前に殺されたトリム王の弟なんだよ」 「えっ、本当ですか?」 「ロキは知らないんだよ。だから、油断はできないよ。さあ、これを持っておゆき。力帯は、肌にじかに締めると見えないだろう。それからこの杖は、お前のミヨルニルと少しも変らぬほど、役に立つよ」 トールはしわだらけの顔をじっと見つめた。 「有難う!」 フイダルの神の母、グリッドは、ニコッと笑うと立ち去っていった。 もちろん、ぐっすり寝込んでいるロキは、知るはずがなかった。 朝が来ると、巨人の国へ出発した。 まもなく、フィメルという大きな川にぶつかった。 「きれいな水だな」 と、チアルフが言った。 「流れも静かだし、それほど深そうでも無いし……よしっ、歩いて渡ろう!」 ロキが真っ先に水の中へ入って行った。 「油断をするな! この川は、巨人の国の川だぞ」 三人が川の中ごろに差し掛かった時だ。 ふいに、水かさが増して、流れが速くなった。 「あっ、危ない! チアルフ、わしにつかまるんだ」 真っ先にしがみついたのはロキだ。 トールは魔法の杖を突き立てて、ぐっと川上を見た。 川は幅が急に狭くなって、両岸に足をかけて立っている若い女がいた。ガイルロッド王の娘ギアルプだった。 トールは素早く足元の岩をつかむや、 「えーい!」 と娘をめがけて投げつけた。娘はびっくりして風のように消えてしまった。 川は、もとのように穏やかな清流となった。 川を渡り、ガイルロッド王の城に着いた。 ロキの足は、がくがく震えていた。 三人は、すぐ大きな部屋に案内された。 「綺麗な部屋だな!」 チアルフが、目を丸くして叫んだ。 ところが、ロキは不思議そうに首をかしげていた。 「窓も無い、真四角な部屋……。それに、真ん中に椅子が一つ、ぽつんと置いてあるだけだ」 その椅子には、ぴかぴか光るきれがかかっている。その上に、柔らかそうな布団が置いてある。 「これは有難い」 そう言って、トールがその椅子に腰を下ろした途端、椅子がむくむくと動き出して、あっと言う間に空中へ飛びあがった。天井は大理石だ。 「あっ、危ない!」 思わず叫んだチアルフの声が、部屋の中に響いた。 ロキは、飛び上がった椅子の下から出ていた二人の娘の顔を見ていた。耳まで裂けた真っ赤な口が火を吹いていた。 だが、チアルフは天井の方を見つめていた。大切な主人トールが、潰される。 「ああ……」 と、思わず叫んでいた。が、飛び上がった椅子が急にドスン! と落ちてきた。トールが魔法の杖で天井を突いたからだ。 ギャッ―― ギャッ―― ガイルロッド王の娘ギアルプとグライプは押しつぶされて死んでいた。 そこに、ガイルロッド王が現れた。 「よくもやったな! 娘と兄の仇だ!」 巨人ガイルロッドは、真っ黒な髪を逆立てて、トールをにらみつけた。 トン、と足を鳴らすと、足の下から鉄の釜が飛び出してきた。中に、真っ赤に焼けた鉄の塊が不気味な光を放っていた。 何をするのか? ロキは真っ青な顔をして、後ろの壁にピタッとくっついていた。歯がカチカチと鳴っている。 トールは素早く鉄の手袋をはめた。 と同時に、 ウオー―― と、ものすごい気合が響いた。 そのトールをめがけて、真っ赤に焼けた鉄の塊が飛んできた。 「あ……」 ロキは気を失いかけた。 はっと気が付くと、その火の塊が、トールの手からガイルロッド王へ――突き刺さるように飛んでいた。 にこっと笑っていたガイルロッド王が、崩れるようにその場に倒れた。 声も聞こえなかった。 叫び声も、何も聞こえなかった。 ロキは、目を激しく瞬いた。 「ロキ、お前が言う通り、本当に面白かったぞ! さあ、チアルフ、帰ろう」 そう言って、トールが初めてニコッと笑った。 「ま、待ってくれ! これは、一体どうなっているんだい?」 ロキは慌てて、倒れているガイルロッド王の側に飛んできた。見ると、巨人ガイルロッド王の厚い胸に、ぽっかりと大きな穴が空いていた。 「すごかったなあ。ガイルロッドは、真っ赤に焼けた鉄の塊を、トールの神目がけて投げたんだ」 「チアルフ、ちょっと待ってくれ! 何を投げたんだい? オレにはよく分からなかったのだ」 「黒い、火を挟むようなものだったよ。そしたらトールの神が、それを受け取って投げ返したのさ」 少年チアルフは、しっかりと見ていたのだ。 「偉いぞ、チアルフ!」 と、トールが言った時、ロキがまたふいに慌てて叫んだ。 「ト、トール! 石に、石になった。ガイルロッドが、石になったぞ!」 トールもチアルフも、不思議な不思議な事を見た。倒れていた巨人が、石に変わっていたのだ。 トールは、ガイルロッドの倒れていたままの形をした石に手をかけた。 「トール、ど、どうするんだ!」 「丘に立ててやるのさ」 石を担いだトールは、小高い丘の上へ歩いて行った。 おしまい 戻る |