テオフラストウスと悪魔


                    ☆

「やあ、君は、今日も散歩だね」
 友達の一人に呼び止められて、テオフラストウス君は振り返りました。
「君も一緒に行かないかい。僕がこれから出かけるインスブルクの森は、素晴らしい所なんだがね」
 すると友達は、とんでもない、と言うように、慌てて手を振って言いました。
「だめ、だめ。君はあの森に悪魔がいるって事を知らないのかね」
「僕は聞いた事が無いよ」
「この間の事だ。ある人が、森を通り抜けているとね、変な声で呼び止められたという事さ。テオフラストウス君、君は散歩好きだが、あの森には近寄らない方がいいよ」
 そう言い残すと、友達は、テオフラストウス君に背を向けて、そのまま大通りの方に行ってしまいました。
「あんな意地悪を言って、僕をからかっているのだな」
 テオフラストウス君は、気にも留めないで、森へ続く道を歩いて行きました。そこは、毎日通っている学校の裏の森でした。
 丈の高いもみの木が、背比べするように両側から覆いかぶさっていました。
 テオフラストウス君は、今お医者様になる勉強をしています。悪魔がいるって事など、とても信じられないのです。
「もし僕に用があるのなら、悪魔くん、いつでも僕を呼び止めるがいいよ」
 森の中に入ると、一本のもみの大木の下に腰を下ろして、本を読み始めました。
 と、後ろで声がします。
「テオフラストウス君」
 と、自分の名を呼んでいるのです。
 まだ朝の時間なのに、森の中は薄暗いようです。
 テオフラストウス君は、その声のする木陰をそっと覗いてみました。
「誰かが悪戯をして、僕の名を呼んでいるのだな」
 あちらこちらと探してみても、人の影は見当たりません。
「おい、誰だ、僕の名を呼ぶのは」
 すると、後ろのもみの木の中から、声が聞こえているのでした。
「どうかお願いだ。僕をこの中から救い出してくれないか。この木の中に閉じ込められているのだよ」
「ところで一体、君は誰なんだい」
「僕の事を、みんなは悪魔と呼んでいる。が、本当はそんなものじゃない。救い出してくれれば、僕が誰だか分かるだろう」
 テオフラストウス君は、そこで考えました。
(木の中から救い出しても、僕に酷い事をしないだろうか)
 そこで、
「君を助けるには、どうするのかね」
 と、たずねてみました。
「君の右側にある、もみの木を見上げると、ほら、そこに十字架が三つついた、丸い小さな栓があるだろう。悪魔よけをするという男が、僕をこの中に押し込めてしまったのさ。そこに十字架がついているので、中からはその栓を外せないのだよ」
 テオフラストウス君は、右側にあるもみの木を見上げると、十字架の三つついた、丸い小さな栓がありました。
「なーるほど、確かに君の言う通りだよ。で、君を救い出すと、僕に何のお礼をしようと言うのだね」
「君の欲しい物を進呈しよう」
「僕は医者になろうと思っている。そこで、どんな病気にでも効く薬が欲しいね」
「よーし、承知した」
「もう一つは、なんでも好きなものを金に変える薬があるなら、それも欲しいね」
「いいとも、二つとも引き受けた」
「じゃあ、すぐ栓を抜いて、救い出してやろう」
 テオフラストウス君は、小刀を取り出して、もみの木の栓をぐらぐら動かし始めました。が、なかなか抜き取れません。
 ずいぶん時間をかけて、やっと、丸い小さな栓をほじくり出しました。
 すると、その穴から、一匹の真っ黒な蜘蛛がのろのろ這い出して、すーっと下に降りてきました。
 蜘蛛が地面に着くと、そこに、ひょろひょろした背の高い男が立っていました。
 男はテオフラストウス君に命令しました。
「さあ、後について来るのだよ」
(なるほど、こいつが悪魔なんだな)
 と思いながら、テオフラストウス君は、黙って後についていきました。
 やがて岩山の前に来ると、悪魔は手に持っていたはんの木の枝で、岩の表を叩きました。まるで扉の仕掛けがあるように、岩が両側に開いて、そこに入り口が出来ました。
「すぐ戻って来るからね。この入り口で待っていて欲しい」
 悪魔は岩の中に入って行きました。
 ところがいくら待っても出てきません。日が暮れてきて、日が出始めた頃、悪魔が岩の入り口から顔を出しました。
 両手に一つずつ小さな瓶を持っていました。


「さあ、この右手の瓶の水が、何でも金に変えられる薬」
 その薬は、金色に輝いていました。
「こちらの左手の瓶の水が、どんな病気にも効く薬」
 その薬は、白い色をしていました。
「これで、君へのお礼は済んだ。今度は僕をもみの木に閉じ込めて、魔よけをした男をとっ捕まえて、仕返しをしてやらなきゃいけない。君も僕の後について、すぐインスブルクへ引っ返すかね」
 テオフラストウス君は、
(僕は悪魔を助けてやったために、悪魔を閉じ込めてくれた男が酷い目に遭うかも知れない)
 そう考えると心配です。
(そうだ、悪魔の力を利用して、あいつをふんづかまえてやろう)
 テオフラストウス君はこっそり計画を立てると、一緒にインスブルクへ戻りました。あのもみの木の前に来ると悪魔に言いました。
「君をもみの木に閉じ込めた魔よけの男は、よっぽど強いのだろうね。こんな小さな穴の中に、君の身体を押し込んだのだからね。それとも、君は蜘蛛の姿になれば、一人でこの穴に入れるのかい」
「悪魔の僕に、出来ない事は無いさ。ひとつ手並みを見せてやろう。小さな蜘蛛に姿を変えて、この穴に入るからね」
「君にそんな魔法が出来るなら、僕が貰った薬を二つとも返していいよ」
 悪魔はそれに返事もしないで、口の中でぶつぶつ呪文を唱えていましたが、
「さあ、見ていてくれ」
 と叫んだ途端、一匹の蜘蛛に姿を変えていました。
 蜘蛛はのろのろともみの木に這い登り、小さな穴に入って行きました。
 テオフラストウス君は、もみの木の側にあった栓を力任せにグイと穴に差し込みました。
 悪魔が騙されたと知った時には、もう出てくるわけにはいきません。
 テオフラストウス君は、線の上に十字架のしるしを書くと、もみの木を離れました。
「悪魔のくれたこの水は、魔法の薬なのか、一つ試してやろう」
 金の水を一滴、掌に垂らしてみました。手の上に金の塊が乗っていました。
 テオフラストウス君は、今度は帰り道で、道端にある一軒の小屋を見つけました。
 ベッドの上に一人の年寄りがいて、重い病気で寝込んでいました。
「お爺さん、僕はいい薬を持っていますよ。さあ、飲んでみて下さい」
 どんな病気にでも効くという白い水を、お爺さんの口の中に二、三滴たらしてやりました。
「ああ、とてもおいしい水だ」
 お爺さんはそう言ったと思うと、急にベッドに起き上がりました。今まで病気で寝ていたのが嘘のように、テオフラストウス君の所へ駆けよって、手を握りました。
「これで、私の病気はすっかりよくなりました」
 悪魔のくれた薬は、二つとも魔法の水でした。
 テオフラストウス君は、そののち学校を卒業すると、お医者さんになりました。そして時々、治りにくい病気にかかった人には、どんな病気にでも効く魔法の水で、病人を治してやっていました。
 もみの木に閉じ込められた悪魔はどうなっているのでしょう。
 あの辺りは、木を切ると雪崩が起こるというので、一度も木が切り出されたことはありません。
 蜘蛛の姿になった悪魔は、もみの木の中で、今でも
「ここから出してくれ」
 と叫び続けている事でしょう。



おしまい


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