武田信玄


                    ☆

 武田信玄は幼名を勝千代といい、元服して晴信と名乗り、入道(出家)して信玄といった。
 信玄は十三歳で結婚をし、十六歳の春、天文五年(一五三六年)に元服をしている。
 そして、冬には初陣をした。信玄の父信虎は甲斐の国(山梨県)を統一するや、信濃の国(長野県)に向けて兵を出したからだ。
 信濃は雪国だ。冬に向かってそんな所へ兵を出しては、寒さや食料で難儀をするに決まっているから、老臣たちはそれを諫めたが信虎は言い出したら聞かない。
「そんな事が分からぬ儂と思うか!」
 と、まず大声を張り上げるや、続けて、
「たわけめが。冬だからこそ攻めるのじゃぞ。これが気候のいい時であってみい、敵にも味方が増えて、こっちが難儀をするわい。文句を言わず、出陣に取り掛かれ!」
 何と言っても御大将の命令だ。武田軍はすぐ出陣法螺や、鐘を叩いて兵を集め、八千の軍勢で信濃の海野口城を攻め立てた。
 ところがここの城主は平賀入道という強い豪族で、前にも武田方に攻めてきたことのある強者だ。それだけに城の守りも固く、盛んに抵抗をしてくる。城を囲んで一か月も過ぎたが、さっぱり戦いは進まない。この間にも、どんどんと雪は降り積もり、寄せ手の難儀は一方ではなくなった。
「くそっ! 平賀入道め!」
 さすがの強気の信虎も、この有様では我を通すことも出来ず、諦めた。ひとまず兵を引いて甲府に帰ることにした。
「父上。私に殿をやらせて下さい。必ず敵に後追いはさせません」
 この時、信玄はそう申し入れた。
 この場合の殿とは、一番後から引き上げることで、敵が追いかけてきた時は命がけで食い止める役目だ。
「なに、殿だと? 阿呆な奴め、この雪に敵が後追いなどしてくるものか。その心配もないのに、名誉にもならぬぞ」
 信虎は晴信が何をぬかすとばかりに決めつけて、それでもさっさと引き上げて行ってしまった。
 手の者三百ばかりで後に残った信玄はわざとゆっくり引き上げて、途中で休んでは暇を潰して夜を待った。そして夜中になると、急に取って返した。
「それっ、城壁をよじ登って、城に火をかけろ、敵は油断しているに違いないぞ!」
 信玄には勝算があった。これは初めからの計画である。
 この計画は見事に当たった。城の者達は一か月も城を囲んでいた武田軍が引き上げたので、喜んで祝宴を開き、油断して寝込んでしまっていた。
 信玄の郎党たちは、やすやすと城に入り込むや、あちこちに火を放っていっせいに鬨の声を上げた。
「うわっ! て、敵だぞ!」
 叫ぶ間もなく、片っ端から切り殺され、それまで頑固に粘っていた海野口城も難なく信玄の手に落ちてしまった。
 信玄は初陣を大勝利に飾ったが、信虎はこの大手柄をいい顔で迎えなかった。
「お前は運が良かったまでだ」
 信虎は信玄のやったことが苦々しかった。
 ――俺を出し抜きおって……。
 信虎は何でも自分の思い通りにやる我儘者で、それだけに武田家を盛んにもしたのだ。
 武田家は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光から出ているが、信虎の代まではあまりぱっとしなかった。信虎は乱暴者で、怒れば気に入りの家来たちまで切り殺した。
 こうした狂気じみた信虎だが、勇猛さと戦上手は抜群だった。俺に敵うものがあるか、という自信もたっぷりだ。それだけに、生まれながらに賢い信玄が何とも気に入らなかったのだ。
 ――小賢しい信玄め、武田の跡継ぎは弟の信繁に決めよう……。
 信虎は、内心そう思っていた。

                    ☆

 信虎に嫌われた信玄はそれほど賢い子供であった。普通の親なら賢い子供を喜ぶところだが、戦国の独裁者は自分が第一だ。自分より優れたものは、それが我が子であっても我が子でなくて競争相手だ。信玄がまだ勝千代と言っていた頃、こんなことがあった。
 勝千代が春の野に遊びに行くと、男が草の中で何かもそもそやっているので、家来に尋ねさせると、ヒバリの巣をとるのだという。
「馬鹿な奴め。ヒバリの巣をとるくらいに、そんな苦労はいらぬものだ」
 勝千代はそう言うと、傍らの高い所に登って、ヒバリが空から舞い降りる位置を確かめ、家来をそこへやった。たちまちいくつもの巣が取れた。
「ヒバリはな、飛び立つ時は用心して巣から離れた所から飛び立つが、降りる時は、少しも早く雛に餌をやろうとして、巣を目がけて降りて来るものなのだ」
 と言ったので、みんなが驚いたという。
 またある時は、駿河(静岡県)の今川家に嫁に行っている勝千代の姉から、貝遊びに使うたくさんの貝殻が送られてきた。数えてみると三千何百組かの貝殻であったが、これを集まった家来たちに、いくらあるか当てさせた。
 それぞれ戦いに手柄のある物ばかりだったが、ある者は二万といい、ある者は一万五千と言った。
「なるほどな、人数というものは多く要らんな。五千も兵があれば、人は二万とも一万五千とも見るものだな」
 まだ十二か三の少年勝千代が、もっともげにそう言ったので、その場の武将たちは目を見張ったという。
 こんな勝千代だっただけに、たとえそれが我が子にせよ、信虎は好まなかったのだ。
 だが勝千代はそんな信虎の気持ちをちゃんと見抜いている。自分よりも弟の信繁を可愛がっている父親だ。乱暴者だから、いつどんなことをされるか分かったものではない。
「よし、しばらくは愚か者になってやろう……」
 勝千代は考えた末に、わざとへまばかりやるようにした。水泳をやればわざと溺れてみせ、馬に乗れば落ちてみせた。剣術の稽古では負けてばかりで、さっぱり腕が上がらない。字を書かせれば、下手くそに書いた。
 信玄の手柄で海野口城を落として五年あと、天文十年(一五四一年)六月、信虎は今川義元に嫁に行っている娘を見に出かけた。本当の理由は武田家を信繁に継がせるために、長男の信玄を今川家に預かってもらう相談の為であった。
 ところがそれを先に知った信玄は、今川家に密使を走らせた。
「父は手荒で民、百姓ばかりか、家臣までを追い出そうとしています。そんな父を、そちらに留めて帰さぬようにして下さい」
 信玄からの知らせを受けた今川義元は、
「よし、引き受けた」
 とばかりに、やって来た信虎をそのまま駿河に留めてしまった。
 乱暴者の城主信虎がいなくなったので、民百姓ばかりか家臣たちまでもが国中を上げて大喜びをした。それだけ信虎には人気が無かったのだ。
「これからは私がやるぞ」
 信虎を駿河に閉じ込めた信玄は、すぐさま武田家の主になり、信濃の諏訪への侵略を始めた。
 だが、親を追い出したということで、信玄は一生不幸者呼ばわりされることになった。

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 諏訪を手に収めた信玄は、今度は次々と信濃の小豪族たちの城を落としていった。それはすさまじいばかりだ。
「おお、あそこに、武田の風林火山の旗がゆくぞ。またどこかの城攻めじゃ!」
 山間を、旗を先頭に武田の軍勢が進んでゆく。風林火山の旗というのは武田家の軍旗で、「疾きこと風のごとく、徐かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」と染め抜いた大旗だ。
 この風林火山の旗が行く所、向かう敵なしという有様だった。そして、今残る所は南の少しと、北の村上義清(むらかみ・よしきよ)だけになった。村上義清は北信濃の大豪族で、この地では勢力を張っていたが、信玄が次々と攻めて来るので、それまで村上方であった者たちも信玄になびいてしまった。
「おのれ、武田め! このままのさばらせてなるものか!」
 義清は、何としても信玄を押し負かしてやろうと意気込んだ。
 一方の信玄も義清を滅ぼして、早く信濃の国を手に入れたいから、将兵たちを激励して、風林火山の旗を押し進めた。
「よく聞けよ! 村上を滅ぼしたら、それぞれ功労により信州(信濃)に相当な土地を褒美としてくれてやるぞ!」
「おおう! 我こそは手柄をあげるぞ」
「村上を滅ぼして信州を手に入れようぞ!」
 将兵は歓声を上げた。
 天文十七年(一五四八年)二月、こうして信玄は、まだ雪の深い敵地へと軍を進めた。
「来たか、信玄め!」
 村上義清は上田原に軍を進め、ここで一大激戦が展開されることになる。上田原の合戦だ。何と言っても村上方もこれ以上信玄に信州を踏み荒らされては大変だから必死だ。全力を挙げての血戦である。
 うおう、うおっ! という軍勢と軍勢がぶつかり合う合戦の音は物凄く、二月十四日の早朝から始まって、日に五度も激しいぶつかり合いをやった。その為に両軍の名だたる大将たちも次々に戦死した。
「かかれ、かかれっ! ひるむなっ!」
 信玄も本陣で地を踏みしめ、必死に頑張っていたが、一方の義清も、
「くそっ! 甲斐の山猿ずれに負けてなるものか! 俺に続け!」
 目をむき、太刀を振りかぶると手勢をまとめて、無二無三に信玄の陣営に切り込んできた。
「我こそは村上義清なり、信玄殿、いざこれにて一騎打ちをいたそう、行くぞ!」
「おおう、望むとこだ!」
 信玄も敵に後ろを見せるような大将ではない。傍らの馬にまたがると、太刀を抜いて義清目がけて斬りかかる。
 こうして信玄と義清が馬上で太刀を振るい馬を掛け違えること十数度、お互い手傷を負ったが勝負がつかない。
「残念だがこれまでだ。またやろうぞ!」
 義清は手兵をまとめると、無念げに引き返していった。
 この大将同士の勝負は引き分けだったが、合戦の方は信州の奥地まで次々と戦って進んできた武田方の方が敗北であった。
「俺は、ここで引き下がってはおれぬ。村上を討つのだ!」
 再び信玄の風林火山の旗が進軍を始めた。
 これにはさしもの村上義清もたまらず、信濃から逃げ出して越後国(新潟県)の上杉謙信のところへ助けを求めた。
 こうして信玄は信濃国をほぼ手に入れた。信虎を駿河に押し込め、諏訪に兵を出してから十二年目である。
 信玄は三十三才になっていた。

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「お力をお貸しくだされ。信玄めが信濃で暴れ狂い、信州は奴の手に落ちてしまいました。残念ですが、何とも……」
 義清は悔し涙をぽろぽろと流す。
「あの親を追い出した不孝者の信玄めが! あんな奴を天が許しておくものか。よし、わしが奴を滅ぼしてみせる。任せておきなされ」
 上杉謙信はこの時二十四歳の青年武将だ。それに戦うために生まれてきたような人物で、戦いが大好きだ。胸を叩いて義清の求めを承知した。
 いや義清の求めが無くても、信玄の兵力が北信濃にまで伸びてきたとなっては、これと隣り合う越後ではうかうかできない。まごまごしていると、信玄が勢いに乗って攻めて来るかも知れない。
 そうしている間にも、信玄に追い落とされた信濃の豪族たちも、謙信を頼って次々と逃げて来た。
「おのれ、信玄、目にもの見せてやるぞ!」
 謙信は立ち上がった。
 こうして始まったのが川中島の戦いだ。
 だが、信玄の方は雪深い越後の方になどあまり魅力が無かった。何と言っても関東を抑え、温暖で越えた広い土地を手に入れる事、それが目的だ。
「あんな戦争好きの謙信に、まともに構っておれるものか」
 信玄はさらに、駿河、三河(愛知県)を経て、やがてはそれが天下に繋がる道と考えている。それだけに強敵の謙信を相手に、真正面からやり合う気持ちは無い。
 だが戦いが好きでたまらない謙信にしてみれば、信玄こそ願ってもない好敵手だ。やる気が無い信玄と川中島でひと手もみ合った後、京にのぼって朝廷からの命令を貰って来た。
「越後や隣の国の敵を討て」というものだから、これだけでも信玄を討つ大義名分が立つ。そのうえ、今度は関東管領の跡を継いで関東を支配することになった。
「信玄めを、これで思い知らせてみせる」
 謙信も今度は川中島で、一気に信玄を討ち取ろうと考えている。
「ええい、謙信め! 俺の気持ちはそれどころではないわ!」
 天下に大きな夢をはせている信玄は、駿河の今川や小田原の北条と組んで謙信に張り合っているものの、全く煩わしいことであった。
 ところが、そんな信玄に、眠りを打ち破るような事が飛びこんできた。大軍を率いて京都へのぼろうとした今川義元が、尾張(愛知県)の桶狭間において織田信長に討ち取られてしまったのだ。時に永禄三年(一五六〇年)五月十九日の事だ。
 これによって天下の様子がだいぶ変わって来た。信玄にとっての今川義元は、姉が嫁に行った義兄にもあたっていたし、その姉が死んだ後は義元の娘を長男の義信の嫁にもらっている縁続きだ。それだけに、今川家をどうしようなどと考えてもみなかったが、いま義元がこの世から亡くなったとなると、むらむらっと欲望が湧いてきた。
「駿河を手に入れ、三河を従えて、京へのぼろう……」
 それに、駿河国は甲斐や信濃の山国とは違い、地味豊かで産物も豊富だ。思えば、何としても手に入れたい。
「だが、京へのぼるには、うるさい謙信を始末しなければならん」
 信玄はここでやっと本気で謙信を相手にする気になった。
 これまでに三度も川中島で謙信と戦っているが、こうして四度目の対決が行われることになる。

                    ☆

 信玄と謙信は川中島で前後十一年に渡って五回戦っているが、四度目のが一番有名だ。
 それは永禄四年(一五六一年)九月の事だ。この激戦には両軍は死力を尽くして戦ったし、信玄と謙信も一騎討ちまでした。
 まさに甲信越代表二人の世紀のタイトルマッチだったが、この勝敗については、両軍とも自分の方が勝ったといっているだけに、一見どちらとも判定がつかない有様だったのだろう。
 だが、これを境に謙信の方は振るわなくなるし、信玄の方はいよいよ駿河の今川に向けて野望を伸ばしてゆくことになるから、どうやら武田方の判定勝ちと見たい。
 信玄は永禄十一年(一五六八年)十二月、三万五千の兵を引き連れて駿河に入った。
 ところが、こうした信玄の計画に反対したのは長男義信(よしのぶ)であった。
 義信は今川義元の娘を妻にしているので今河びいきだ。
「父上、今河へ乗り込むなんて、それはいけません。やめて下さい」
 義信は一生懸命止めたが、信玄は聞かず、かえって義信を閉じ込めて殺してしまった。そのうえで義信の妻を今川へ送り返した。
 こうして今川とは手を切り、甲府を出発してきた信玄だ。戦国の世を生き、領土を守って野望を広げてゆくためには、ぬくぬくと血肉の情などにひたってはいられない。同時代に生きたほかの武将もそうだったように、信玄もまたそうであった。
「な、なんと! 信玄が大軍で駿河へ入って参ったと?」
 義元の後を継いだ氏真(うじざね)は、びっくり仰天して慌てて人数を駆り集めた。もともと出来の悪い氏真だから家来の信望もなく、領民からも疎まれていたから、今更慌てても、誰も命がけで氏真のために働こうという者はいない。
「信玄という奴は、血も涙もない酷い奴だ」
 散々恨み言を言って、小田原の北条に逃げ堕ちて行った。
「それっ! 駿河は我が物ぞ!」
 信玄は難なく駿河に押し入り、今川館を占領した。
 だが、小田原の北条氏康(うじやす)は、今川氏真が助けを求めてきたのを名目にして、信玄に向かって兵を進めてきた。
 さらに謙信とも手を組むという有様には、信玄も参った。
「くそめ! ここまで来たのに!」
 信玄は唇を噛んで、甲府に引き返した。うまくやったのは北条氏康で、駿河を今川に返してやったが、実験は自分が握ってしまった。
「このまま引っ込んでいられるか!」
 信玄の駿河・三河・遠江(静岡県)、さらにそれが天下への道という夢はくじけていない。やがて北条氏と手を組み、越前(福井県)北近江(滋賀県)というようにあちこちと手を組んで目的のために全身を続けている。だがその勇途も虚しく、徳川家康の軍を三方ヶ原で大敗させた後、信州の陣中で病死した。五十三歳である。
 信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀」と言って能力次第で人を重用し、国内の政治にもよく努めた。性格が無鉄砲でなく、用心深かったのが京への道へなかなか進ませなかったのだが、謙信との川中島の対立も、京を目指すお互いにはマイナスであった。このために得をしているのは織田信長や家康ということになろう。



おしまい


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