下っぱ忍者


                    ☆

 この話は今から四百年余り前、日本のあちこちに大名が居て、お互いに戦い合っていた頃の話です。

 うっすらと名の花の匂いが匂う、ある春の晩の事です。越前の国、矢の根の里の領主、矢の根五郎左衛門(やのね・ごろうざえもん)の屋敷の前で、黒い影が一つ、むくりと地面から起き上がりました。
 影は、何かをパッと門の屋根に投げ上げました。
 ピシッ! と、小さな音がして、投げ上げたものは、太い綱のようになって、屋根から垂れ下がりました。だが、よく見ると、綱ではありません。いくつもの竹筒に、綱を通した物でした。殺気の小さな音はその綱の先の熊手が、わら屋根の骨組みの木に食い込む音でした。
 影は竹の節を手掛かりにして、するすると、屋根に上りました。とんと屋敷の中に飛び降ります。と思うと、屋根の上からはもう、さっきの竹筒が姿を消し、地上に降りたはずの姿も消えてしまいました。
 しばらくすると、影はまた現れました。屋敷の中の一番大きな建物の、玄関の前でした。影は腰の袋から、細く尖った道具を取り出し玄関の敷居の下に、穴を掘り始めました。

 この影は伊賀の忍者で、名を麦助(むぎすけ)といいます。伊賀の国の侍の百地源太夫(ももち・げんだゆう)に使われている下っ端の忍者です。伊賀の侍たちは、みんな下っ端忍者を何人も使っていて、あちこちの大名が、忍者が入り用だと言ってくると、その下っ端忍者を仕事に出してお礼のお金をもらいます。
 こんど百地源太夫は、矢の根五郎左衛門を殺すようにと、越前の朝倉義景に頼まれました。五郎左衛門はちっぽけな領主ですが、朝倉の言う事を聞きません。五郎左衛門はいくさに強い男だったのです。
 源太夫は麦助にその仕事を言いつけました。麦助はびっくりしました。
「一人でですか? あんなに強い侍を殺すのに。段三(だんぞう)と一緒にやらせて下さい」
 段三は、やはり源太夫の下っ端忍者で、麦助の友達です。高いところへ飛び上がるのが上手い男でした。
 源太夫は答えました。
「二人の忍者が、心を一つにして動くのは難しい。一人でやれ」
 一人で越前へ行く事になった麦助を、段三は国境の峠まで見送ってきました。二人は、峠の草の上に座りました。


「忍者はいつ、どこで死ぬかわからぬ。別れの酒だ」
 段三は、腰の竹筒に入れた酒を、やはり竹筒の盃についで、麦助に回しました。峠ではウグイスが鳴き、スミレが咲いていて、とても平和な感じでした。
 この時、段三は言いました。
「源太夫様は、俺達二人が親しくするのを嫌っているんだと思う」
 そうかもしれない、と麦助も思いました。もし、下っ端忍者たちが、心を合わせて源太夫に背けば源太夫は困ってしまいます。
 そして、下っ端忍者たちが源太夫に背くわけは、十分ありました。源太夫は大名からたくさんの金をもらうのに、麦助達にごくわずかの金しかくれません。だから、源太夫は下っ端忍者たちが仲良くなるのを嫌がっているのでした。

                    ☆

 麦助は、矢の根五郎左衛門の家の玄関の敷居の下に穴を掘りぬきました。その穴から、玄関の内側へ麦助が頭を出そうとした時、穴の外に積み上げた土の山が、どさりと崩れました。――しまった。
 麦助は頭を引っ込めました。どかどかと走ってくる足音がし、玄関に明かりがつき、穴のそばに立った男が槍を構えました。
「出てきたら、一突きだぞ」
 そう言った男の耳に、声が聞こえました。
「見つかったらしいぞ、平左。裏の物置から入れ」
「よし、そうしよう」
 答える声がし、また別の声がしました。
「いや、もう三郎たちが忍び込んだぞ」
 槍を構えた男は慌てました。
「敵は大勢だぞ。奥の部屋へ誘い込んで、討ち取ってしまえ」
 男は叫びながら、奥へ駆け込みました。
 穴の中から麦助は飛び出しました。別々の人の声を出す、これが麦助の得意の術だったのです。
 矢の根の家の家来たちが十人余り、刀や槍を構えて、奥の部屋の入り口に固まっています。
 その部屋の横の薄暗い廊下を、麦助は足音を立てないで走り、五郎左衛門の部屋の前で叫びました。
「殿、敵です。起きて下さい」
 さっきの、槍を構えた男の声でした。
「よし、行く」
 五郎左衛門は出ていきました。廊下の薄暗がりから麦助は飛び出しました。刀を五郎左衛門の背中に突き立てました。
「うむ」
 五郎左衛門の大きな体は、音を立てて廊下に転がりました。同時に、麦助は雨戸を蹴破って外へ飛び出しました。


「追え! 忍者だ」
 五郎左衛門の家来たちも、庭に飛び出しました。途端に家来たちは「あ、あっ」と叫んで、地面にかがみました。
 逃げながら麦助は『まきびし』を撒いたのです。『まきびし』はヒシの実のように、尖った先がいくつもついている、小さな武器です。
『まきびし』を踏み抜いた家来たちが走れないでいるうちに、麦助は門の前に着きました。入る時に使った竹筒の熊手――忍び熊手と言いますが、これをもう一度使って、門の外に飛び降りました。
 だがすぐ、五郎左衛門の家来たちは門を開き、松明を振りかざし、馬を走らせて麦助を追ってきました。
 麦助が逃げていく道の右側に、竹藪があります。五郎左衛門の家来たちがその竹藪に近づいた時、

 バ、バーン!

 すごい音がして、竹藪は火を吹きました。次から次へと音は鳴り響きます。
 馬は驚き、人間は慌てました。
「鉄砲だ。今度こそ、敵は大勢だぞ」
 家来達は馬から降りて、道端に伏せました。だがやがて、鉄砲の弾が飛んでこない事に、家来たちは気が付きました。麦助は花火を竹藪の中に仕掛けておいたのです。
 家来たちが道端に伏せている間に、麦助は、もうずっと先の方へ逃げて行ってしまいました。

                    ☆

 忍者の仕事はすぐに片付くものではありません。相手の様子を探り、色々な準備をしていなければなりません。麦助は矢の根の里の仕事を仕上げるために、ちょうど一年かかりました。
 麦助が伊賀に帰って来ると、驚いた事には、段三が居なくなっていました。
「逃げたんだ。伊賀の掟を破ってな」
 と、仲間の一人は言いました。
 話を聞くと、こうでした。麦助の留守中、段三の母親が、重い病気にかかりました。その時、源太夫は段三に徳川の仕事に出ていくように、言いつけたのです。母親が病気ですから、段三は断りました。すると、源太夫は言いました。
「行けと言えば、行け。わしがお前の母親の面倒は見てやる」
 仕方なく段三が徳川に行っている間に、母親は死にました。源太夫は、別に看病もしてやらなかったのです。後から徳川に来た忍者が、その事を話すと、段三は一晩中泣きました。そして、それきり姿を消してしまったのです。
 段三が逃げたのは当たり前だ、と麦助は思いました。しかし、源太夫はかんかんになっていました。
「徳川で仕事もせず、逃げてしまった男は、殺さなければならぬ」
 そして、段三の行方が分かったら知らせてくれるようにと、伊賀中の侍たちに頼みました。
 麦助が矢の根の里から帰って来て、二年ばかりたった頃、源太夫が麦助を呼びました。
「段三が、越後春日山の城下にいるそうだ。行って殺してこい」
 春日山には上杉謙信の城があります。その城下で段三が、目くらましの術――今で言えば催眠術――を使っていたそうです。
 麦助は友達の段三を殺したくはありません。しかし、源太夫の蛇のような目つきで睨まれると、震えあがりました。
 麦助は鎌売り商人に姿を変えて、伊賀を出、忍者の早足で、飛ぶように越後へ急ぎました。
 越後へ行く道は、途中、越前を通ります。麦助は、ふと思いついて、矢の根の里へ行ってみました。
 矢の根の里に入った麦助は首を傾げました。里の様子が変わっていました。田には草を生やしたままだし、田に水を入れる溝も、うずまったりしています。


 麦助は、一軒の農家に入りました。
「鎌はいらぬか、鎌は」
 出てきた年寄りと麦助は話し込み、話の間に麦助は聞いてみました。
「以前、この里は豊かな里だと思ったが」
「一昨年まではそうだった。ところが、矢の根五郎左衛門様が殺されてしまい、この里を守ってくれる人がいなくなった」
 年寄りの話では、五郎左衛門が死ぬとすぐ、この里は朝倉の領地になりました。朝倉はこの里から物を取り上げるだけで、五郎左衛門のように百姓の事を考えてくれません。
 ――そうだったのか。
 聞いている麦助の胸は、きりりと痛みました。麦助が五郎左衛門を殺したため、この里の人々みんなが不幸せな目に遭ったのです。
 年寄りと別れ、越後春日山へ急ぐ麦助の心は重く沈み込んでいました。

                    ☆

 麦助が春日山について、町の人々に聞いてみると、段三の事はすぐに分かりました。
 段三は馬を飲み込む術をやってみせ、それを見て感心した上杉の家来の長尾修理(ながお・しゅり)が自分の屋敷に連れて帰ったそうです。
 その夜更け、麦助は修理の屋敷に忍び込み、天井裏に隠れました。
 次の日の朝、屋敷の中が騒がしくなりました。謙信が、馬を飲む忍者を見に来ると言うのです。
 麦助が客座敷の天井裏に移ると、やがて段三が出てきて、座敷の端にきちんと座りました。麦助は、思わず懐かしくなりました。段三は痩せて苦労しているようでした。
 坊主頭の謙信が家来を連れて、座敷に入ってきました。謙信は尋ねました。
「馬を飲む忍者、お前の名は何という?」
「とび加藤と申します」
 麦助は嬉しくなりました。伊賀の下っぱ忍者の段三が、天下に名高い上杉謙信に、堂々とでたらめの名を言っているのです。
 続いた段三は言いました。
「このとび加藤、忍びの術で上杉家にお仕えしたい」
「よし。では、術を試そう。今夜、わしの家老の、直江山城の屋敷に忍び込み、山城の薙刀を持ち出してこい」
「かしこまりました」
 段三は、頭を下げました。
 その夜、直江山城の屋敷では、庭にも、門の前にも、赤々とかがり火をたき、足軽や侍がいっぱい、見張りに立ちました。
 奥の部屋の真ん中には机を置き、その上に袋に入れた薙刀を乗せ、十人の侍がその薙刀を守りました。
 ところが朝になると、長尾修理の家来が、馬を飛ばしてきました。
「とび加藤、昨日の夜のうちに、薙刀を持って帰ってきました」
 慌てて薙刀を出してみると、袋の中はただの木の棒になっていました。
「恐ろしい男だ」
 侍たちは顔を見合わせたのです。
 それから五日目の夜、麦助はやはり、修理の家の天井裏に潜っていました。
 下の座敷では、酒盛りが始まり、段三が笑い声をあげて酒を飲んでいます。その嬉しそうな顔を見ると、麦助は段三の肩を叩いて、
「良かったな、段三」
 と言ってやりたいほどでした。
 あれは実に簡単な事でした。
 あの日、直江家に忍者が忍び込むと聞いて、あちこちから応援の侍が駆けつけました。段三は、その侍たちの家来のようなふりをして、直江の屋敷に入り込みました。
 そして、薙刀を蔵から取り出す時、自分の持ってきた木の棒とすり替えてしまったのです。麦助も直江の屋敷に入り込んで、それを見ていたのでした。
 薙刀取りに成功した段三は、明日からいよいよ上杉家の家来です。今夜は、そのお祝いの酒盛りでした。
 しかし、麦助は段三が上杉の家来になる事を喜んでばかりはいられません。源太夫の、蛇のような目つきが、麦助の頭の中に浮かんできます。もし麦助が段三を殺さなければ、麦助は源太夫に殺されるでしょう。
 ――すまぬが、段三。死んでくれ。
 麦助は手裏剣を握りました。だが、すぐその手を下ろしました。下の様子がおかしいのです。見ると、下の座敷のふすまの向こうに、侍たちが集まってきて、刀や槍を構えました。
 麦助は、すぐその訳が分かりました。上杉家が、段三を殺すつもりになったのです。あの恐ろしい忍者が、もし裏切ったら大変な事になる、と直江山城や、長尾修理は考えたのでした。
 ――けしからん上杉家め。
 麦助は腹を立て、段三にその事を知らせてやりたくなりました。しかし、すぐ考え直しました。もし段三が上杉家に殺されるなら、自分は友達を殺さないで済む、と思ったのです。
 下の座敷では、段三が言いました。
「一つ、面白い物をお見せしよう」
 段三は自分の酒を入れた竹筒を取り出して、長尾修理の盃につぎました。
「これは――」
 修理も、座敷の中の男たちも、思わず声を上げました。竹筒から出てきたのは酒ではなく、小人の女でした。女は盃の中で、笛を吹き始めました。
 段三は次から次へと、座敷の人々に酒を注いでいき、つぐたびに小人が飛び出しました。やがて、数十人の小人たちは座敷の真ん中に集まり、笛や太鼓に合わせて踊り始めました。


 不思議な事には、ふすまの向こうの侍たちにも、この小人の姿は見えました。みんな、吸い付けられるように、この小人の踊りを見つめました。
 ――見事だ。見事な目くらましの術だ。
 天井裏で、麦助がまた嬉しくなっていました。
 やがて段三は座敷を出ていきました。しかし、侍たちは、座敷の真ん中のいもしない小人たちの姿に、じっと見とれているばかりでした。

                    ☆

 それから三月。ここは上杉謙信の敵、武田信玄の住む町、甲府の町はずれです。
 野原の真ん中に、見上げるほどの高い塀があり、その前に、眼を光らせた段三が立っていました。そして、数十メートル離れたところに、鉄砲を構えた足軽たちがいて、ぐるちと段三を取り巻いています。段三は腹の底から絞り出すような声で言いました。
「忍者はどこへ行っても、人並みに生きていくことが出来ないんだな。伊賀では病気の母親の看病も出来ず、伊賀を出て大名に仕えようとすれば殺されるのか」
 段三は、今度は武田に仕えようとしたのです。上杉の時と同じように、術が試される事になりました。その術試しは、いま段三の後ろにある、高い塀を飛び越える事でした。
 段三は見事に塀を飛び越えました。だが、段三は向こうに下りないで、塀に片手の指を一本つくと、くるりと向きを変えて、もと来た方に飛び降りました。塀の向こうには、尖った釘や茨がいっぱい植えてあったのです。すると、術試しの係の侍が叫びました。
「塀を飛び越えながらこちらに飛び降りるとは怪しい奴。魔法使いに決まったぞ」
 その声を合図に、隠れていた鉄砲隊が立ち上がり、段三の胸に狙いをつけたのです。鉄砲隊に囲まれては、段三もどうしようもありません。
 ――死ぬよりほか無いのか。
 段三はばりばりと、歯を噛み鳴らしました。すると、その時、どこからともなく自分の声が聞こえてきました。
「天下の忍者、とび加藤。死ぬ前に最後の術を使って見せよう。オレは一羽の鳥になる。鳥になったところを撃ち殺せ」
 段三ははっとしました。この野原のどこかに、麦助がいるのです。
「だまされるな! 相手は魔法使いだぞ。撃て」
 侍が叫んだ瞬間、段三の姿はぱっと消えました。鉄砲隊は、塀の上に飛び上がった一羽の鳥を狙ったのです。
 鳥はトビでした。鉄砲は当たらずトビは青空に悠々と輪を描きながら小さくなっていきました。
 次の日、二人の鎌商人が甲府を出て、駿河へ向かいました。麦助と段三でした。
 きのう麦助は、段三が「忍者はどこへ行っても、人並みに生きていけないんだな」と言った時、目が覚めたような感じがしたのです。
「その時、忍者をやめようと俺は思った。やめた事で、源太夫が俺たちを殺そうとしても、二人が力を合わせれば、防ぐことが出来るんだ」
 麦助の言葉に、段三は頷きました。
 昨日、麦助は塀の向こうにぶら下がっていました。鳥を使うのは、麦助の術の一つです。麦助が捕まえていたトビを放し、みんながトビを見た瞬間、段三は地面に身体を伏せたのです。


 トビが飛び立つのと、地面に伏せるのと、同時でなければ、段三がトビになったと思わせることは出来ません。二人に忍者の心が一つにならないと出来ない術でした。
 あとは簡単でした。鉄砲が鳴り響いた途端、段三は塀の向こうに隠れたのです。

 そのあと、この二人の忍者の行方は分からなくなりました。ただ、何年か後、越前矢の根の百姓たちが、自分たちをいじめる領主と戦った事があります。その時、百姓たちの中に、八方手裏剣や花火を使う男が二人混じっていて、侍たちは散々な目に遭わされたという事です。



おしまい


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