白いほおの少女
☆ その名をセイ子と言った。 セイ子は産まれてまだ半年ばかりの頃、手に抱いてあやしていた母親から、誤って土間に落とされた。鈍い音を立てて後頭部を打ち、セイ子は気絶した。 母は慌ててセイ子を抱きかかえると、おろおろしながらその身体を激しく揺さぶった。おかげでセイ子は息を吹き返しほどなく大声に泣き声を立て始めた。 「母ちゃんが悪かった。母ちゃんが悪かった」 母はそう言いながら、セイ子の白く柔らかい頬に何度も頬ずりをした。 それっきり、セイ子の様子に大した変わりが見られないので、母は内心でほっと安心していた。しかし実際には、その時の激しいショックがセイ子の脳の正常な仕組みを壊す原因となったらしい。身体だけは普通の子と変わりなくすくすく成長した。しかしその脳は歯車の狂った機械のように、動きがおかしく、セイ子は低い知能しか持たない知恵遅れの子となって育った。 両親がセイ子の知恵の発育を怪しみ出したのは、セイ子が三、四歳の頃であった。母は慌てふためいて、セイ子を遠い町の大学病院まで連れて行き、そこで初めて、セイ子が重症ではないが精神薄弱児であることを知らされた。母は目の前が暗くなった。 「生まれつきのものかも知れませんね」 と、医者が言った。 しかし母は、セイ子を生まれつきの精薄児と思い込むことが出来なかった。セイ子がまだ赤子の頃、自分の不注意で犯した過ちがどうしても思い出され、セイ子に対する申し訳なさと不憫さとで、心が千切れるほど苦しい思いをした。 村には精薄児を教育する特別な施設が無かった。そこで満六歳になった時、両親のたっての願いで、セイ子も村の小学校に入学する事になった。 セイ子は親心のこもるさっぱりした洋服を身に着け、真新しいランドセルを背負うと、母に手を引かれて学校にやって来た。しかし、他の子のように入学の喜びは少しも感じないようであった。はしゃぎ回る子が不思議でたまらぬというように、細い目でぼんやりと辺りを見回していた。ふっくらと下ぶくれしたその顔が、まるで校庭に舞い散る桜の花びらのように白く美しかった。 セイ子は教室で一番前の机に一人で座らせられた。授業が始まると、先生が目の前に教科書を開いてくれる。しかしそれはセイ子には興味のないものであった。セイ子は例の目を細めて、ただ先生の動きをぼんやり追っていた。他の生徒が活発な声を出して手を上げると、時折不思議そうに後ろを振り返ってみる。その口元には、いつもうっすらした無邪気な笑いが漂っていた。口はほとんどきかなかった。 学校が済むと、ランドセルを背負って教室の前にぽつんと立っている。すると、畑仕事の合間を見た父か母かが、迎えに来て連れて帰った。 やがてセイ子は学校に慣れたきかんぼう達にいじめられるようになった。 その日は何故か父や母の迎えが遅くなったので、セイ子は一人で帰る気になったようである。道草を食った幸一が、他の二、三人のきかんぼう達と一緒に帰りを急いでいると、畑の中の道をセイ子がのろりのろりと歩いているところだった。 「やい、白ブタ」 一人がセイ子の顔をつついて言った。 「ブーブー言って、ないてみろ」 幸一は普段から、セイ子の白く膨らんだ、可愛らしい顔が好きであった。物語の挿絵で見惚れた美しい少女の顔のように、ときどき桜の花びらのようなセイ子の顔を胸に浮かべる事があった。 一人がセイ子の顔をつついた時、幸一もその柔らかい頬に触れてみたいと思った。その為には、みんなの手前、セイ子をいじめなければならなかった。セイ子を可愛らしいと思う気持ちを隠すと、幸一も何度もその頬をつつきながら、みんなに負けない悪口を叩いた。 「それ、ブーブーないてみろ」 セイ子のランドセルが止め金も閉めずに蓋がブラブラしているのを見ると、みんなは教科書や筆箱を取り出して辺りにばらまいた。すると悲しみだけは分かるらしく、セイ子がしくしくすすり泣きを始めた。きかんぼう達はいっせいにその場を逃げ出した。 しかし幸一だけは、内心セイ子が可哀想でたまらなかった。セイ子にすまないという気持ちでいっぱいになり、みんなと別れると、気づかれぬようにまたそっとその場に戻った。セイ子はまだ泣きじゃくっていた。 「泣くな、セイ子」 幸一はそう言って、道路に散らばっている教科書を拾い始めた。するとそこへ、セイ子を迎えに来たセイ子の母が、姿を現した。 「幸ちゃんか、すまないねえ」 母もそう言って、教科書を拾い始めた。 「うちのこは、知恵遅れの子だと分かっているのに、どうしてみんなでいじめるんだろう? 幸ちゃんみたいな子ばかりだと、助かるんだけど」 幸一は、そういうセイ子の母の目に、微かに涙がにじむのを見た。セイ子とその母を憐れみ、自分のしたことを悔いる気持ちが苦しいほどきゅっと胸に迫った。 セイ子は二年ほど通っただけで、学校に来なくなった。と言って家に生活のゆとりが無かったから、精薄児の施設に入れてもらったわけでも無い。毎日、家の周りをぶらついて遊んでいるようであった。 ☆ 村の中央を、一本の川が貫いている。数キロにわたるその堤防には、数知れぬ桜の老い木が並び、昔から桜の名所として親しまれている。 川岸に広々と広がる水田の一角に、こんもりと森に包まれて慈光寺(じこうじ)がある。これも数百年の歴史に支えられた古い寺である。 ある日、その境内で友達と遊んでいた幸一は、片隅に長い間の風雨に叩かれてざらざらになり、更にその上に苔のむした高い石塔があるのを見つけた。 「和尚さん、これ、何の塔なの?」 幸一は、傍らで草むしりをしていた年寄りの和尚さんに尋ねた。 「昔の供養塔さ」 「供養塔? 供養塔って? 何?」 「お前たち子供は、毎日屈託もなく遊んでいるけどな、人間には、生きている限り様々な不幸が付きまとうものじゃよ。これはな、そういう不幸な人たちの霊を慰めるために建てたものさ」 そう言って、和尚さんは石塔の前に腰を下ろすと、自然に寄り集まった子供たちに、昔の話を語って聞かせた。 ――六百年も前の昔から、この村の辺りは農業のやり方が大変進歩して、夏は米、冬は麦という二毛作が行われていたそうである。しかし打ち続く戦乱に駆り出されて、どこの村でも人手が足りなかった。そこで地主たちは、人買いの手から人間の子供を買い取り、奴隷として働かせたそうである。 人買いは貧しい諸国を巡り歩いて、貧しい家から子供を買ってくる。中には遊んでいる子供をさらってくる悪人もいる。そのようにしてかき集めた子供たちを、人買いは小さい者は籠に入れて担ぎ、大きい者は数珠つなぎにして引いて歩きながら、地主たちの間を売って歩いた。その頬をひねったり、走らせたりして、子供の品定めをする事もある。 買われた子の生活は哀れだった。夜明けとともに田畑に引き出されて、牛馬以上に酷くこき使われる。夜は奴隷小屋のわらの中に追い立てられる。ほとんどの小屋から、故郷や親を恋い慕う子供の泣き声が流れ出していた。 あまりの辛さに逃げ出す子供もいる。しかし、大抵は追っ手に捕まるか、野垂れ死にをするかであった。ごく少数の者が、慈光寺などの寺に逃げ込んで助けられた。寺ではそれらの子を匿い、仏事の細かい雑用を手伝う稚児として育てた。 ある年の春、土手の桜が満開になり、風に舞う花吹雪が田や小道や川の面をうっすらと赤みがかった白一色に覆い尽くした。するとその川の浅瀬に入って、ひらひら舞い落ちてくる花びらを、次々に水ごと手のひらで掬い上げている女があった。 「わしのせがれはどれじゃ? おお、これでもない、これでもない」 女はきんきんした声でそうつぶやいた。虚ろな目の色と乱れた服装を見ると、完全に気が狂っていることがすぐに分かった。 それは遠い国で、人買いに息子をさらわれた女であった。息子がこの地方に連れ去られたことを風の便りに聞いて、野山を越えて探し求めてきたが、その途中、哀しさのあまり気が狂ったのであった。 女はいつまでも花びらを掬い続けた。するとそこへ、慈光寺の坊さんがまだ年少の稚児を連れて通りかかった。 「あっ、おっかあだ。おらのおっかあだ」 しばらく女の様子を見ていた稚児が、突然驚きの声を上げると、じゃぶじゃぶ川の中に走り込んで、その身体にむしゃぶりついた。 「おっかあ、おらだ。このおらが分かるか?」 女はぼんやりと虚ろな目を稚児に向けた。しかし、哀れな事に、このくりくりに頭を剃り上げ、袈裟衣を着ている少年を、自分の子と見定めることが出来なかった。 「違うっ。わしのせがれはどこじゃ、わしのせがれはどこじゃ?」 女は稚児の手を振りほどくと、なお大声に喚きながら、川の中を目指して走りだした。稚児はその後を追った。しかし間に合わなかった。やがて女は川の深みにずぶりと体をのまれたかと思うと、二回、三回、浮き沈みしながら下流の方へ流されていった。そうして間もなく溺れ死んだ。―― 「この供養塔はな、その時の稚児さんが、後に立派なお坊さんになってから建てた物じゃよ」 慈光寺の和尚さんは、そう言って話し終わった。 幸一は話を聞いていて、一人の気ちがい女が川の水に膝まで浸かり、清らかな花吹雪を浴びながら、手で水を掬っている情景を胸に描いた。その女の顔が、幸一の中では、この頃姿を見た事も無いセイ子の顔になっていた。 「何故だろう?」 と、幸一は思った。きっとセイ子の顔が桜の花びらのように白く可愛かったせいかもしれないと考えてみた。しかしそれはほんの少し違うような感じであった。 幸一はあれこれと考えてみた。しかしとうとう、自分の心の中で、気ちがい女の顔がなぜセイ子の顔になったのかは分からなかった。 ☆ それからしばらく経って、幸一はセイ子の父が死んだことを聞いた。 慈光寺の和尚さんの話でも分かる通り、村の人は昔から米作りに励んできた。時代が進歩するにつれて、人買いなどと言う惨たらしい風習は影を潜めた。が、しかし、米作りだけは昭和になってもやめなかった。 ところが最近の日本は、必要以上に米が余って、農村は作る米の量を減らさねばならなくなっている。それは幸一たちの村でも同じことだった。 米作りだけでは暮らしにくくなった村の人たちは、競って大都市に出稼ぎに行くようになった。はじめは農作業の暇な時を狙って出かけていたが、近ごろでは年中行ったきりになって、農業を留守家族の手に任せきっている者も多い。 セイ子の父も東京に働きに出ていた。地下鉄工事をやっていたらしい。そうしてある夜、仕事が終わって帰る途中、車にはねられて死んだという話だった。もちろん遺骨が届けられて、悲しみの内に葬式が行われた。しかしセイ子はそれがなんであるかを理解する事は出来なかった。 東京に行っている間、セイ子の父は、盆と正月の二回だけ、両手にどっさり土産をぶら下げて家に帰っていた。セイ子はどうやら母の言葉を聞いて、父の帰りが間近いことを悟っていたようである。四、五才程度の知恵しかないその頭にも、自分にお土産を買ってきてくれる父の姿が浮かんでいたのだろう。その日が近づくと、セイ子は毎日のように駅まで迎えに行っていた。駅までは学校と同じくらいの道のりである。何回も連れていかれるうちに、セイ子もその道筋だけは奇妙に覚え込んでいた。 しかし、その年の暮れは、セイ子が待っていても父は帰らなかった。 「可哀そうになあ」 その晩、夕食を食べながら幸一の父が言った。 「今日の夕方、駅の前を通ってみたら、あのセイ子という子がまだ待ってたぞ。きっと、父親の死んだことが分からんのじゃろう」 幸一は、またセイ子の事を思い出した。 ☆ 幸一が四年になった時、町の女子高校を卒業した姉の信子が、東京の会社に勤める事になった。 「お盆には帰ってくるわね」 信子はそう言って、嬉しそうに汽車で出て行った。 家にいる時はよくケンカをして、時には泣かされたりしたこともあったけれども、いなくなってみると、妙に物寂しい気持ちだった。心の中にぽっかりと穴が開いたようである。幸一は信子の事ばかり考え、早くお盆になればいいと思った。 その寂しさは、初めて親元を離れた信子の方でも同じらしかった。東京では毎日何百万という人間が忙しげに動き回って、まるで渦を巻くように働いている。どこを見ても、人、人、人の波である。けれどもその中で信子の気心の知れあった友人となると、同じ高校から来た二、三人の同級生しかいない。人の波にうずもれながら、慣れない信子はかえって人恋しさを感ずるようであった。お盆が待ち遠しいと、良く手紙を書いて寄こした。 一学期が過ぎて、やがて夏休みになった。その中程になると、月遅れの盆が村にもやって来た。かんかん日照りの中で、セミが鳴いている。 盆は、正しくは盂蘭盆会(うらぼんえ)と言って、祖先の霊をお祭りする行事である。この盆の四日三晩の間、祖先の霊があの世から家に戻って来て、家族と共に過ごすのだそうである。その用意のために、父と母は墓の掃除をし、仏壇に果物や野菜を供え、軒先に大きな提灯を吊るした。 しかし幸一は、死んだ人間には興味が無かった。それよりも、東京から姉の信子が帰ってくるかと思うと、もう朝から胸がワクワクしてじっとしていられなかった。信子が帰るのは夕方の汽車だというのに、昼ご飯もそこそこにして、一時頃には駅を目指してふっ飛んで行った。 本線から枝分かれした単線の支線だから、駅は小さい。瓦屋根の古ぼけた駅舎が建っていて、その三分の一ほどが、改札口のある待合室になっている。三、四十人も詰め掛ければ、満員になってしまいそうである。それでも駅前には、猫の額のような広場があって、小型のタクシーが一台、客を待っていた。 暑い日差しの中を走り切って、幸一は待合室のベンチに座り込んだ。発着時刻に間があるらしく、待合室は人影も無くがらんとしている。何気なく辺りをきょろきょろ見回していた幸一は、その内にふと、狭い広場の真ん中に立っている一人の少女の姿を認めた。それは白っぽいワンピースに身をくるんだセイ子であった。 はじめの内、それがセイ子と分かっても、幸一は電柱かポストでも見るように、何の感じも起こさずにその姿を眺めた。しかし、少しずつ時間が経って、セイ子が何故駅に来ているのかという理由を考え始めた時、幸一の心は次第に同情の波に揺らぎ始めた。 「生きてればなあ、セイ子のお父ちゃんも、今頃はうちに帰って来るのに」 恐らくセイ子はそういう母のつぶやきを聞いて、父を迎えるために駅まで来ているのであろう。もう何日もそれも朝早くから来ているのかも知れない。 幸一は改めてセイ子の姿を見た。 幸一が四年生になって背が伸びたように、セイ子も身体だけは大きくなっていた。しかしその顔は少しも変わらなかった。四年生になれば、利口そうであるとか、きかん気であるとか、そういう才能や性格が顔にも表れてくる。しかしセイ子の顔はそういう表情を一切あらわさず、以前、白く柔らかい、桜の花びらのままであった。その可愛らしさに、幸一も今では何とも言えない哀れさを感じた。 何回か汽車が着き、その度に普段より多い人の群れが駅前に吐き出された。しかしその人波が引いてみるとやはりセイ子が一人ぽつんと取り残された。次第に斜めになる夏の日を浴びて、セイ子はちうまでも立ち続けた。 幸一は、いつだったか慈光寺の和尚さんから気ちがい女の話を聞いた時のことを思い浮かべた。あの時、その女の顔にはどうしてもセイ子の顔が重なり合った。桜の花びらがそうさせるのだなと、あの時はちらりと考えたりしたが、実際はそうではなく、二人に似通た可哀想な運命がそうさせていたのだと、今初めて幸一は思った。すると、 「この世の人間に不幸は無くならんものじゃ」 という、和尚さんの言葉を思い浮かべた。 幸一はあの時、気ちがい女の話をただの昔話に過ぎないと思って聞いた。しかし、あれは昔話であって、昔話ではない。それから何百年か経った今の世にも、目を凝らせばあの気ちがい女に似た、可愛そうな人間が何人となくいる。幸一は、この世には昔から人間には見えないいたずら者が潜んでいて、人買いが気ちがい女から子供をさらったように、色々ないたずらをしながら人間をいじめているように思えてならなかった。 夕方、また二両連結のディーゼルカーが着いた。幸一が出札口から身を乗り出すようにしてホームを見ていると、やがて人ごみに混じって、重そうな荷物を両手にした姉の信子の姿が目に飛び込んできた。 「お姉ちゃん」 幸一は思わず叫んだ。すると信子も顔じゅうをほころばせながら走り寄って来た。 「あら、幸一、迎えに来てくれていたの?」 「うん」 「汽車が遅れちまって、ごめんね。ずいぶん待ったでしょう?」 信子は待合室を出ると、幸一ん持たせる荷物を軽くするために、一度持ち物の整理をした。その間にも、慌ただしい人ゴミは次第に散って行った。 信子が重い荷物を持ち、幸一が軽い荷物を持って、二人はやがて待合室を出た。見ると、人影のまばらになった広場に、セイ子がまだ立ち続けていた。 「お姉ちゃん、ちょっと待って」 と、幸一が言った。 「僕に買ってきたお土産を、一つくれよ」 「こんなところで、どうするの?」 幸一はそれに答えず、信子の見ている前で小さな包みを一つ取り出すと、それを持ってセイ子のそばへ走った。 「さ、セイ子、これを持ってうちへ帰れ。お父ちゃんのお土産だ」 セイ子は手に受け取ったが、何も言わなかった。ただ、口元に微かな笑いを浮かべ、細い、光の弱い目で幸一の顔を見つめた。幸一は恥ずかしくなって、逃げて帰った。 「お姉ちゃん、東京は車がいっぱい走ってるんだろ?」 やがて畑の中の道へ来ると、幸一が尋ねた。 「うん、走ってるわよ。今に、幸一が東京へ出てきたら乗せてあげるね」 「違うんだよ。僕、お姉ちゃんが車に轢かれなければいいと思ってるんだ」 「大丈夫よ、そんなこと。お姉ちゃんは注意深いから」 夕映えの空が、二人の背を赤く染めていた。 おしまい 戻る |