死の谷
☆ 今から百二十年ほど昔……一八四八年の正月の事であった。 アメリカの太平洋側、カリフォルニアの東に、背骨のように北から南へつながる山並みがある。シェラネバダ山脈と言う。このシェラネバダ山脈から流れ出し、太平洋のサンフランシスコ湾へ注ぐ川の一つに、アメリカ川という川がある。このアメリカ川の上流に水車小屋を建てて住んでいるマーシャルという木こりがいた。 朝、川のふちを歩いている時に、川の中のあちこちに、やたらぴかぴかするものを見かけた。拾い上げてみると、それは鱗をはがしたような形の金の塊であった。はじめマーシャルは、近くのインディアンが何かのはずみでまき散らして行ったのだろうと思った。けれども気になるので、試しにその辺りを掘り返してみた。驚いた! 出るわ、出るわ、面白いように金の塊が出た。 そこでマーシャルは、元軍人のサッターという老人と組んで金を掘り出した。金の事は二人だけの秘密であったが、すぐに町の人たちに知られてしまった。町の人たちも来て、掘ってみた。呆れるほど簡単に金が出た。こうなると金の事は、たちまちアメリカ中に知れ渡ってしまった。 まだアメリカ大陸を横断する鉄道も無かったから、大西洋側の東部の町の人たちは、自分たちも金を掘り当てようと、馬車を連ねてカリフォルニアへ向かった。五千キロメートルの旅は楽ではなかった。途中、険しい山や谷もあれば、砂漠もあった。野獣もいれば、インディアンもいたし、白人の強盗団もいた。目指すカリフォルニアへ着かない内に、病気で死んだ者もいた。とにかく、途中で大勢の人が命を落とした。それでも、カリフォルニアへは金を目当てに十万人もの人間がやって来たと言われている。それを歴史では『ゴールド・ラッシュ』と呼んでいる。 さて、それから四年後の一八五二年九月のある日、カリフォルニアのフリスコ(サンフランシスコ)へ貨物船が入港してきた。三本マストの帆船で、太平洋を航海してきたネ・ペルス号であった。 そのネ・ペルス号の甲板で、びっくりしたように目をむき出して、周りを見ている一人の少年がいた。少年は膝まで届くほどのだぶだぶなシャツを着ていた。 通りかかった若い士官が声をかけた。 「トム。ビックリして目をむき出すのもいいが、目玉を海へ落っことすなよ!」 少年は士官の言ったことがよく分からないらしく、ぽかんとしていた。少年の髪の毛も、瞳の色も黒かった。少年は士官が船室へ姿を消すと、再び周りの景色に目を移した。次第に迫ってくる岸壁の辺りには、少年が今まで見た事も無いような形の二階建て、三階建ての石やレンガの家が建ち並んでいた。 一方、港の中には、このネ・ペルス号のような船が、何十艘となく泊まっており、中には大砲を摘み、鉄の船端に水車を付けた軍艦もあった。そして港のはずれの浜辺には、何百という小舟がもやってあった。 「ひぇーっ! 越後(新潟)とはまるで違うや!」 少年の独り言は日本語であった。トムと言うのはこの少年の本当の名前ではない。少年は日本人で友吉(ともきち)といった。 友吉は五か月ほど前、越後の新潟から蝦夷(北海道)の箱館(函館)へ向かう、北斗丸という千石船に乗っていた。父の持ち船で、父が友吉に蝦夷見物させるために乗り込ませたのである。 北斗丸は快調に北上して、四日目に津軽海峡へ入った。箱館は目の前だった。ところが、その時になって風がぱったりやんだ。船は激しい潮の流れに乗って、ぐんぐん流され始めた。乗員一同が櫓(ろ)で漕いだが、潮の流れには勝てなかった。船はとうとう太平洋に押し出されてしまった。その内に強い風が来た。一気に船を戻そうとしている内に、今度は舵が壊れてしまった。それから北斗丸の果てしない漂流が始まった。 北斗丸はわずかな食量しか積んでいなかった。乗組員たちは小さな友吉を庇って、自分たちの食料や水を回した。だが、ひと月経ち、二月三月するうちに、友吉父子の他に十二人いた乗組員たちは、飢えと渇きと病気で、次々と死んでいった。友吉の父も死んだ。一人残された友吉も、飢えと渇きのために、ほとんど死にかけていた。 気が付いた時、アメリカ船に救われていたのである。はじめ友吉は唖(おし)かと思われた。無理も無かった。四か月近い死の漂流と、生まれて初めて見る異国人に、ただただ怯えていたのである。その友吉もネ・ペルス号がフリスコに着くころには、どうやら片言の英語が話せるようになっていた。 ネ・ペルス号が錨を降ろすと、税関のはしけが役人を乗せてやって来た。船長と役人たちは荷揚げの事を打ち合わせた。その内に話が友吉のことになったらしく、役人たちはいっせいに友吉を見て頷いた。 税関の役人が帰る時、船長は先ほどの若い士官を呼んで、友吉を連れて買い物に行くように言いつけた。 「トム。新しい服と靴を買ってもらってこい。明日税関長がお前に会うそうだ。その前に何とか外見だけは整えなくちゃな」 士官と税関のはしけに乗った友吉は、こうして五か月ぶりで土を踏んだ。それも生まれて初めて見る異国の土であった。 道の両側には、商店の大きなガラスのショーウインドーがずらりと並んでいた。道幅も広く、石畳が敷いてあり、真ん中は車道で、馬車が石畳に車輪をきしませながら走っていた。 縞模様の揃いのシャツを着た囚人の一隊が、足に鎖を付けて宿舎へ戻るのが見えた。真っ白な長い服を引きずって歩いている女の人もいたし、歩道に腰を下ろしてぼんやりと向かいを見ている乞食もいた。 士官は大して苦労もせずに服屋を見つけ、友吉に合った服を買い、その場で着替えさせた。 「お似合いだぜ、ちびのゼントルマン!」 隣が靴屋だった。靴は少し大きかったが、今まで履いていた大人の靴に比べたら、申し分なかった。 靴屋を出たところで、士官は友達にばったり会った。お互いに肩を抱き合って挨拶を交わした後、立ち話を始めた。退屈した友吉はゆっくりとその辺を歩き回り、商店を見物して歩いた。 と、一見の建物から、汚れた皮の服を着た男が投げ出されるようにして、転げ出てきた。続いてこれもまた、皮の服を着た男が飛び出してきて、倒れている男を棒で滅茶苦茶に殴りつけた。目の前でそんな事が起きたので、友吉はすくみ上ってしまった。棒で殴っていた男は、相手がぐったりしてしまうと、大声で口汚くののしって、戻って行った。血だらけになって道路に投げ出されていた男が、起き上がろうとしてもがいた。 「お、おじさん、日本人じゃないの?」 友吉は思わず叫んで、男の上半身を抱え起こそうとした。男は髪の毛も、目の色も、黒かったのである。ただ、肌は赤銅色で、どちらかと言えば赤かった。男は友吉と目を合わせると、手に持っていた数珠のようなものを友吉に渡し、何やらぶつぶつと呟いた。友吉には、何を言っているのか分からなかった。 と、男は前へ飲めるようにして、ぐにゃりと倒れた。たちまち野次馬が、周りを取り巻いた。一人の立派な身なりの外人が出てきて、男の手首を握ったり、目を覗き込んだりすると、ふんと言った様子で馬車を呼んだ。馬車は男を乗せ、東へ走り去った。 そこへ士官が飛んできて、友吉をさっと人込みから引っ張り出した。 「ひ、ひ、人、死んだ」 「いいんだ、いいんだ。あれはインディアンの浮浪者だ」 「どうして、いいの?」 士官は答える代わりに、友吉の持っている数珠のような物をちらりと見たが、何も言わなかった。先ほどの所にまだ士官の友達が立っていた。そして立ち話ではきりが付かないらしく、酒場へ入った。友吉もお供した。 「じき、話が済むからな」 士官たちの話はなかなか済まなかった。友吉は退屈し抜いて、先ほどの男から渡された数珠のような物を取り出して眺めた。端っこの青い玉は、不思議な色をしていた。その青い玉が友吉の運命を大きく変えていくとは、友吉も気づかなかった。 友吉は新潟の港を出る時、母替わりの祖母がお守りにと言って、母の形見の数珠を渡してくれたのを思い出した。その数珠は今も、北斗丸で太平洋のどこかをさまよっているはずであった。 友吉がその数珠のような物をポケットにしまおうとした時、紐の端が切れて、青い丸い玉が落ちて、床を転げて行った。友吉は思わず四つん這いになって、それを追いかけていった。青い玉は酒場の墨のテーブルの下へ転げ込んだ。 そのテーブルには二人の客がいて、顔を寄せてひそひそと何か熱心に話し込んでいた。友吉は構わずテーブルの下へ潜り込んで、玉を拾おうとした。一人の男の靴がそれを踏んだ。友吉は靴の上から指でとんとんと叩いた。男の靴が動いた。友吉は玉を拾い上げた。気が付くと、男が恐ろしい顔をして、上からにらみつけていた。 「サンキュウ!」 友吉が笑って言ったので、男も仕方なしににやりとした。 友吉が元のテーブルに戻り、振り向くと、男たちはテーブルに金を置いて、店を出て行くところであった。 と、その一人が友吉に手招きをしながら外へ出た。 ☆ 友吉はどうしようかと士官の方を見たが、あまり熱心に話をしているので、声を掛けずに店を出た。男はぴかぴか近るものを取り出して、それを道に停めてある馬車へ投げ込んだ。 「ヘイ! 拾ったら、お前にやるぞ」 友吉は怪しみながら、馬車の中を覗き込んだ。と、友吉はいきなり馬車の中へ引きずり込まれた。先ほどのもう一人の男が先回りしていたのである。友吉は口に布切れを押し込まれ、綱でぐるぐる巻きにされた上に、上から毛布を掛けられた。 馬車は猛烈な勢いで走り出した。やかましい車輪の軋みが、床からじかに伝わって来て、友吉の耳をつんぼにする程だった。友吉は自分がどうしてこんな目に遭わされるのか、さっぱり見当がつかなかった。 馬車は町を通り抜け、山道へ差し掛かったらしく、前にもまして激しく揺れ、身体の自由の利かない友吉は馬車の弾む度に、容赦なく全身を馬車の床に叩きつけられてうめいた。 やがて馬車が止まり、友吉は頭から毛布を掛けられたまま馬車から引きずりおろされた。男たちはそこでひそひそやっていたが、一人はそのまま馬車で町へ戻っていく様子だった。 友吉は担ぎ上げられ、どこかへ運び込まれて、ドスンと放り出された。悲鳴を上げたくても、口にきれを押し込まれているので、どうにもならなかった。男は毛布を取った。そこは街道筋の蹄鉄屋の物置らしかった。男はいつの間にか腰にガン・ベルトをしていた。男は友吉の綱をほどくと、改めて友吉を後ろ手に縛り上げ、また、頭から毛布をかぶせると、外へ引きずり出し、馬に乗せた。そして、自分もその馬に乗ると、走らせた。 うんざりするほど馬に揺られ、毛布を取られた時、もう辺りは薄暗くなっていた。目の前に崩れかけた、一軒の掘立小屋があった。男は友吉を乱暴に突き飛ばすようにして小屋へ連れ込んだ。 「そこへ座れ!」 男は顎でベンチを指した。男は友吉の口に押し込んであるきれを抜き取った。 「小僧、オレの言う事が分かるか?」 「分かる。少し」 「よし、お前は正直だ。だが、正直も時には命取りになる。オレはやっぱりお前をさらって来て良かったと思っている。ところで、おめえは中国人(チャイナ)か?」 「日本人(ジャパニーズ)」 「何を? ジャパニーズだと? そいつあ何か? インディアンの身内か?」 「分からない」 「分からねえだと? まあいい。とにかくオレ達の話を聞いちまった以上、おめえをこのまま町へ帰すわけにゃいかねえんだ。分かってるだろうな?」 「何のこと?」 「とぼけるな! 誤魔化そうったって、その手は食わねえ。お前はオレたちの“やばい”話を聞いちまったんだ。本当なら、これでお前のどたまに風穴を開けてやってもいいんだぜ」 男はガン・ベルトからピストルを引き抜くと、カチリと音をさせて撃鉄を起こした。友吉はネ・ペルス号で士官たちが時々ピストルの射撃の練習をしているのを見ていたので、ピストルの恐ろしさは知っていた。男は銃口を友吉の顔へ向けた。言葉のよく分からない友吉には、相手が本気かどうかも見当が付かなかったので、青くなって震えあがった。男の目がきらりと光って、にやりと笑った。途端に、 「バーン!」 男は銃声の口真似をした。怯え切っていた友吉はびっくりして、悲鳴を上げてベンチから転げ落ちた。それを見て男は、腹を抱えて笑った。 「うははは……。気に入ったぜ小僧! おめえのその腰抜けぶりは結構に笑わせてくれるぜ。うははは……」 男は友吉を酷く臆病者だと思い込んだらしく満足そうだった。そして友吉の綱をほどいた。逃げ出すほどの勇気も無いと思ったのである。 次の日、フリスコで一緒だった男が馬でやって来た。他に三人、どれもこれも一癖ありそうな男たちだた。男たちは小屋に居た男をボスと呼び、フリスコで一緒だった男だけがチャーリーと呼んだ。そしてチャーリーはその男をジムと呼んだ。 男たちは小屋で一休みして茶を飲むと、すぐに小屋の荷物をまとめて旅の支度を始めた。支度の済んだところで、ジムは友吉の方を見ながらチャーリーに尋ねた。 「おい、あのガキはどうする?」 「そうよなあ……」 チャーリーはあやふやな返事をした。 「一思いに片付けるか」 ジムはそう言いながらピストルを抜いていた。 「よせ。相手は子供じゃねえか?」 「じゃあ、どうするんだよ」 チャーリーは困って友吉を見た。 「チャーリーさん、連れてって下さい」 友吉だ頼んだ。こんな所に置いてきぼりを食わされたら、北斗丸の時と同じことになってしまうと思ったからである。それに、一緒に行くと言えば、ジムもすぐ殺すなどと言わないと思った。 チャーリーは呆れたように友吉を見たが、ジムが納得しように頷いてみせたので、荷物運び用の馬を友吉に回すことにした。ところが、今まで自分一人で馬に乗った事のない友吉は、馬が走り出す前から、何度も転げ落ちて悲鳴を上げた。 「この間抜け野郎!」 怒ったジムは、友吉の足を馬の鞍に縛り付けてしまった。 こうして、友吉は素上の知れない男たちと馬の旅を始めたのである。一行はまるで人目を避けるように、山裾に沿って南へ南へと下っていった。 馬の旅は辛かった。友吉は一日で音を上げてしまった。尻の骨が馬の鞍に当たる辺りが、赤むけになり、じくじくして、ズボンがぺったり尻に張り付いてしまった。それを引きはがすのがまた、大変だった。友吉がひいひい言いながら尻からズボンをはがすのを見て、男たちは笑い転げた。 次の日、チャーリーは友吉の尻にべっとりと油を塗った。友吉もなるべくそこを鞍につけないように気をつけて、調子を取りながら馬に乗っている内に、馬に乗るのがそれほど辛くなくなった。が、ただのんびり馬に乗っていればいいという事では無かった。男たちは友吉を下男のようにこき使った。水汲み、薪取り、炊事……友吉は言いつけられた仕事はきちんとやった。 ある時、男の一人が友吉にピストルの撃ち方を教えた。友吉がへっぴり腰で一発撃った途端、ピストルは跳ね上がるようにして友吉の手から飛び出した。それがあまり酷かったので、友吉は指が千切れたかと思ったほどであった。男たちはまた、それを見てゲラゲラ笑った。だが、ボスのチャーリーは弾の無駄遣いは許さないと言って、男たちを怒鳴りつけた。男たちはチャーリーの立ち去った後で、チャーリーの悪口をぶうぶう言った。 そのチャーリーが目をむいた。友吉が「これから、どこへ何しに行くのか」と尋ねたからである。 「おい、聞いたか、ジム。とんだお笑い草だぜ。このガキはフリスコで、オレたちの話を聞いてなかったらしいぜ。オレたちの事は何にも知らねえらしい」 「何だと!」 ジムも呆れて友吉を見た。そこで、チャーリーは分かり易い英語でゆっくりと言った。 「ようし! 小僧ようく聞けよ。オレ達はこれから、正義の戦争をしに行くんだ」 「戦争?」 「そうだ。戦いだ。いいか、誰でも金を掘る者は政府の許しをもらってから、金を掘ることになっている。それに掘り出した金は政府の事務所で金貨に変えてもらうことになっている。それなのに、勝手に無いそれなのに、勝手に内緒で掘ってる奴がいる。しかも、そいつらは中国人の奴隷を使って、かなりの金を掘り出し、それを外国人に売って丸儲けしている。これから、そういう悪い奴らをやっつけに行く」 「ほう……」 友吉は頼りない返事をした。実を言うと、チャーリーの話の英語が難しくて、「正義の戦争をしに行く」という事しか分からなかった。それにしても正義の戦争をしに行く者が、変に人目を避けてこそこそしたり、自分のような子供をさらったりするのは怪しいとは思ったが、友吉はそれ以上は聞かなかった。 全く呆れた「正義の戦争」だった。チャーリーたちは、そういう許しを得ないで掘っている(密採掘者と言う)連中の金を横取りする事を計画していたのである。もちろん、相手ももぐりだから、横取りされても役人たちに訴えないという安心があった。また、それだけにそういう連中は用心深く、そして命がけで戦うこともあった。 ☆ 一行が旅に出て七日目、ある谷あいの道へ入っていった。それから、なおも進むと道は険しくなり、左右の尾根が迫って、一つになる崖の下へたどり着いた。一行はそこで馬を降りて、立木につないだ。 「インディアンの道を通りゃ、四日で着く場所なのによ」 ジムはぶつぶつ言いながら、ピストルの手入れを始めた。男たちも、それぞれのピストルの調子を調べた。チャーリーは地図を広げて、男たちに説明を始めた。 「奴らは昼間は油断している。攻めるなら早い方がいい。向こうの人数は七人、あとは中国人の鉱夫だけだ。最初の一撃で、一人が必ず一人をやれば勝ったも同じだ」 男たちに細かい説明をした後、チャーリーは友吉に小型のピストルを渡した。 「小僧、それはおもちゃじゃない本物だ。お前はここで馬を見張っていろ。何かあったら、それをぶっ放して合図しろ」 こうして、チャーリーたちは銃を持つと、北側の尾根をのっこして行った。 友吉は馬の側に腰を下ろして、ぼんやりと景色を眺めた。左右に張り出した尾根の向こうにも山があった。そして、その向こうの果てしない平地は白い地平線で霞んで、空と溶け合っていた。 と、その時、どこかで甲高い悲鳴が聞こえた。友吉ははっとして周りを見回した。気のせいかと思ったが、馬たちは怯えたように鼻の穴を大きく広げ、耳をぴっと立てていた。 しばらく、そのままの姿勢で耳を澄ましていると、また悲鳴が聞こえた。友吉は思わず立ち上がって声のした方を覗いた。 「もしかすると、鳥だったかもしれない」 友吉は独り言を言って地面に腰を下ろした。それからいくらも経たない内に、また悲鳴が聞こえた。今度はいくらか近くでしたような気がした。友吉は立ち上がると、声のした方へ歩いて行った。 いた! 馬を引いた毛むくじゃらの大きな男が、皮の服を着た少女を後ろ手に縛り上げて、引き立ててくるところだった。かなりの道のりを歩かせられたのか、あるいは散々逃げ回って捕らえられたのか、少女は疲れ切って、よろめいていた。少女が倒れると男は靴の先で少女を蹴りつけるのであった。その度に少女は甲高い悲鳴を上げながら、懸命に立ち上がってはふらふらと歩き出すのであった。 少女は黒い髪の毛を編んで左右に長く垂らしていた。土埃で汚れた顔の目は怯えて大きく見開かれていた。しかも、その目は友吉と同じように黒かった。 ――あの子が何をしたんだろう?―― 友吉がそんな事を思ってみていると、少女はまた、のめるようにして倒れた。男は何か喚きながら、前にもまして、乱暴に少女を蹴った。友吉は男の側へ近づいて行った。 「さあ、立て! それともここで殺されたいか。お前がここにオレ達の小屋があるのを知った以上、部落へ帰してやるわけにはいかないんだ。ここにオレ達の小屋があるとわかりゃ、貴様らインディアンは大勢で攻めかけるだろう」 友吉は自分がフリスコでチャーリーたちにさらわれた時の事を思い出した。そしてこの少女も、自分と同じ目に遭わされようとしているのだと思った。 「許してやんなよ。どうぞ!」 男は友吉が近づいていたのに気づかなかったのか、ぎょっとして友吉を見た。 「何だ、お前は?」 「可哀そうだ」 友吉は倒れている少女を見ながら言った。少女も顔を上げて友吉を見た。男は呆れたように友吉を見たが、友吉が右手に小型のピストルを持っているのに気づき、さっと顔つきを変えると、やにわに、友吉のピストルを持っている右の手首をしたたかに殴りつけた。友吉は思わずピストルを落とした。そして慌てて拾おうとするところを、今度は男の靴が蹴り上げた。鼻がずーんと痺れたようになり、両方の目から涙が出てきた。慌てて目をこすった。男はピストルを抜いて友吉に突き付けていた。 「おい、仲間がいるんだろう。どこだ?」 友吉は悔しくて、本当に泣き出しそうになった。その時だった。谷の向こう側で激しい銃声が響き渡った。 「ちきしょう!」 男はうめくように言って、駆け出そうとした。友吉はその男の足に猛然と飛びついた。男は足をすくわれて前へのめった。と、耳のすぐそばで、凄まじいピストルの音がした。 「やられた!」 友吉はうめいた。そのまま引きずり込まれるように死んでいくような気がした。と、友吉は強く背中を押された。ふと目を開けると、縛られていた少女が、肩で友吉の身体をゆすっていた。 「あれ? おれは今やられたはず……」 首を持ち上げて見ると、先ほどの男がうつぶせになっていた。友吉は急いで自分のピストルを拾い上げ、それを構えながら男に近づいた。 「おい、起きろ! さっきはよくも……」 少女が激しく首を振って、綱を解けと言うように友吉に背中を向けた。 「あ、そうか」 友吉は急いで少女の綱を解いてやった。少女はにっこり笑うと、倒れている男を起こそうとした。 「よせ! 危ないぞ!」 だが、男はうつ伏せになったまま、ピクリともしなかった。そこで友吉は少女と力を合わせて男を仰向けにした。途端に二人は、悲鳴を上げて飛びのいた。男の胸は、べっとりと血に染まっていた。 「ひぇっ! 自分で自分を撃ちやがった……」 そうではなかった。男が友吉に足をすくわれて倒れた時、ピストルが暴発して、弾が男の胸を撃ち抜いたのであった。少女はそうっと男のガン・ベルトを拾い上げ、血をぬぐうと友吉の方へ差し出した。 「いらねえや、そんなもの」 少女が首を傾げた。気が付いたら、友吉は日本語を喋っていた。そこで慌てて英語で言い直した。 少女はにっこりすると自分を指でさし、 「モルシーター」 と言った。名前を言っているという事が友吉にも分かった。 「そうか、あんたモルシーターか」 「モルシーター」 少女は頷いて、もう一度繰り返した。そこで友吉も自分を指さしてゆっくりと言った。 「トモキチ」 少女はにっこりすると友吉を指さして、たずねるように言った。 「トモキチ?」 「そうよ。トモキチよ」 「トモキチ、トモキチ、トモキチ」 少女は歌うように言った。友吉は思わず笑い出してしまった。少女も声を合わせて笑った。その笑った顔が何とも愛くるしかった。友吉はそのモルシーターと名乗った少女と、友達になりたいと思った。 「そうだ、いいものやるぜ!」 友吉は上着のポケットへ手を入れると、あの青い丸い玉をつまみ出した。そして、少女の手をつかむとその手へ乗せてやった。少女は驚いたように青い玉を見た。それから友吉の目をじっと見た。 「フリスコでもらったんだ。持って行けよ」 友吉は青い玉を乗せている少女の手を握らせてやった。少女はまた、頷いた。 「さ、また捕まるといけない。早く行けよ」 「トモキチ」 「何だい、モルシーター」 モルシーターはにっこり笑うと、ぱっと見をひるがえして駆け出した。転げるように斜面を走って行った。しばらくすると立ち止まり、友吉の方を向いて手を上げた。 「さよなら、モルシーター」 友吉も手を振った。モルシーターは木の茂みの中へ姿を隠した。友吉は、モルシーターの消えた茂みの所を見続けた。もう一度、モルシーターを見たいような気がしたのである。が、もう、モルシーターは現れなかった。 友吉はほっと溜息をついたが、悲鳴を上げて飛びのいた。死んだ男の開いたままの目と目が、ばっちり合ってしまったからである。友吉は夢中で、馬をつないでおいた場所へ戻った。 どうした事か馬は一頭残らず消えていた。友吉は途方に暮れた。あちこち足跡をたどって歩いて見ると、足跡はチャーリーたちが越えて行った尾根と反対側の尾根に向かっていた。友吉が尾根の上へ駆け登ると、馬が遥か彼方を一団となって走っていくのが見えた。先頭の馬には、頭に羽飾りをかぶった男が乗っていた、インディアンが馬を盗んで行ったのである。 「とんでもないことになったぞ!」 友吉が元の場所へ戻ると、ジムが待ち受けていた。ジムはニコニコしながら、下の方を指さした。 「小僧、でかしたぞ。毛むくじゃらのマックスをやったな。あれが悪党のボスだ」 友吉は困ったように頷きながら言った。 「馬ない。取られた」 「何だと! このうすらとんかちめが!」 ジムは友吉のほっぺたをしたたかに殴りつけると、友吉の襟首をつかんで歩き出した。 尾根を越えると、ごつごつした岩肌の下り坂となり下の方に小さな小屋が三つ並んでいるのが見えた。小屋へ近づくにしたがい、金を掘る道具があちこちに散らばっているのが見えた。そればかりか、血だらけになった男の死体が、そこここに、無造作に転がされてあった。 「チャーリー、安心しろよ。ボスのマックスは小僧が向こうの尾根の上でやったぜ」 ジムが面白くも無さそうに言った。小屋の前で、二人が来るのを見守っていたチャーリーは、躍り上がって喜んだ。 「ふん、そうそう気楽に喜んでもいられねえ。馬を一頭残らずかっぱらわれちまった。差し引きゼロどころか、とんだマイナスよ!」 友吉は小さくなった。 ☆ 「まずいじゃねえか。ここにいた馬は、さっきの撃ち合いでほとんどがケガして使い物にならねえっていうのによ」 ジムは腹立たしそうに、友吉を小突いた。チャーリーもさすがに不機嫌に黙り込んだが、手下の一人を呼ぶと、 「死体を片付けさせろ。小屋へ運び込ませるんだ」 と、言いつけた。 と、手下が飛んで行って、小屋の戸を開けた。小屋の中から、ぞろぞろと男たちが出てきた。それはみんな、髪の毛も、目の色も、肌の色も友吉と同じ男たちだった。 男たちは倒れている死体の所へ行って、死体を殴ったり蹴ったりし始めた。 「やめさせろ!」 チャーリーが怒鳴った。と、中の年寄りがチャーリーの所へ来ると、癖のある英語で話し始めた。 「私たち中国人、ここへ来た時、三十人。いま十人。みんな、あの人たち殺した。水飲ませない。鞭で打つ。病気、裸にして、木に吊るす。逃げる、撃ち殺す。私たち牛と同じ、耳切られる。背中、焼いた鉄つける。みんな、怨み深い」 「黙れ!」 今度はジムが怒鳴った。 「悪党でもあいつらは、おめえ達のような異教徒のけだものと違わあ。早く言った通りにさせろ! さもねえと、おめえも撃ち殺すぞ!」 老人はうなだれて、仲間達の所へ行くと、何やら叫んだ。男たちは頷きながら、死体を小屋へ移し始めた。それでも、中の何人かが、わめき声を上げながら死体を蹴った。途端にピストルが火を噴いた。一人がのけぞって倒れた。すぐにチャーリーが止めた。 「それぐらいにしておけよ。それに、あいつらを馬代わりにしたらどうかと思ってよ」 「そうか、よし!」 チャーリーは死体を全部一つの小屋へ集めさせると、小屋に火をかけた。次にもう一つの小屋から、木の箱を担ぎ出させた。それには金が詰まっていた。木箱は全部で六つあった。次に食料の入った袋を出させると、残った全部の小屋に火をかけさせた。 「さあ、出発だ。街道へ出るまでの辛抱だ!」 荷物は全部中国人の鉱夫たちが担いだ。こうして、チャーリーを先頭に一行は谷を出て、山裾を回りながら帰ることになった。 「何とか馬を見つけなくちゃ、やばいな」 ジムがチャーリーに話しかけた。 「ああ、でもな、夜になりゃ、街道の近くでキャラバンのキャンプの一つや二つは見つかるさ。こいつらから馬を買う」 「手ぬるい、手ぬるい! 買うなんて言わず、力ずくで頂戴するのよ」 「しかし、そんな事をしたら後が厄介だぞ」 「ははは、証拠が無ければいい。証人を一人残らず消すという寸法よ。それに、こういう手もあるぜ。キャラバンの連中の死体に、ちょいとばかり細工する」 「細工?」 「そうさ。頭の皮をぺろぺろ剥がしておくのよ。そんなことをするのはインディアンしかいないからな。死体を見つけた騎兵隊のおじさん達は頭にきて、何にも知らねえインディアンをドンドンパチパチとぶっ殺すって訳よ。その間にこちらはこっそりフリスコへお帰りってな。ははは……」 チャーリーは流石に嫌な顔をした。 「あんまり気が乗らねえなあ」 「なあに、分け前の割合をもう少し出してくれるなら、オレが引き受けるぜ」 「分かったよ。それで、馬がそろったら中国人たちをどうする」 「そこはそれ、この先に死の谷ってね、一度入ったが最後、永久に出て来られないという地獄がある。そこへこっそり、ご案内しちまうって訳ね。いひひひ……」 聞くともなく聞いていた友吉には、細かい所までは分からなかったが、その恐ろしい企みの事は分かった。そして震えあがった。 ――そうか、これは気を付けないと、おれもやられてしまうな。何とかして、あの連中にも教えてやらなくちゃ―― ☆ 三日目、一行は街道の通る谷へ出て、そこでキャンプをすることになった。夜が来た時、一行の場所から大して離れていない所に、キャンプの火が見えた。 「どうだい。おあつらえ向きだぜ。いっちょう行くから、留守を頼むぜ」 ジムは舌なめずりをしながら、三人の手下を連れて夜の闇に消えて行った。チャーリーはピストルを抜くと、友吉の隣に腰を下ろした。焚火に映るチャーリーの顔はさえなかった。 「ボス……」 友吉が声をかけた。 「ねえ、ボス、おれ、ジムさんおっかない」 「うむ」 「もしかすると、金を一人で取るよ。ボスを撃つかもしれないよ」 「下らねえことを言うんじゃねえ……」 そういうチャーリーの声はあまり元気が無かった。友吉のいう事を全部打ち消す自信が無かったのである。 「ボス、正義の戦争って言ったね。中国人をみんな助けるのも、正義の戦争……他の何もしない人を殺さないのも正義の戦争じゃないかい?」 「…………」 「もし、みんなの命を助けたら、みんなボスの事、余計な事言わないと思うよ」 「出来るかなあ……」 「おれ、みんなに約束させるよ。おれ、嘘言わないよ」 「ふむ……そうだよな。お前は馬鹿正直で、危なく命を落とすところだったんだものな。……そう言えば、オレはお前のことを腰抜けだと言って笑ったことがあったけど……オレも腰抜けらしいな。今度の仕事も、オレがボスという事になってるが、オレは支度の金を出しただけで、子分もみんなジムについてるし……いつも、ずるずるとジムに引きずられていたみたいだしなあ……」 「その通りだよ、チャーリーさん!」 なんとその声は、キャラバンのキャンプを襲いに行ったジムの声だったのである。 「チャーリー、お前のピストルをこちらへもらおうか」 ジムはチャーリーのピストルを取り上げると、いきなりピストルでチャーリーの後頭部をどやしつけた。 「小僧、チャーリーを縛れ!」 友吉は気を失っているボスを縛った。 「ようし! いいか、ちょっとでもつまらねえ事をしたら、暗闇からぶっ放すぞ! 話をしちゃなんねえ。いいな」 そう言うと、ジムは再び暗闇に消えた。みんなはその場に貼りつけられたように息をひそめた。 それからどれくらい経ったろう。遥か彼方で銃声がして、明かりがちらちらと割れるように揺れ動いた。友吉はそうっとチャーリーの側へ這って行った。チャーリーの綱をほどいてゆすると、チャーリーはうめき声をあげて目を開けた。 「ねえ、ボス。今の内に逃げようよ」 「駄目だ。逃げ切れるものじゃない」 「でも、ここにいたら、ただ殺されるよ」 「ようし、一か八かでやるか。おい、イムじい! みんなに言って、火を消せ! それから、食料の袋と水だけを持て!」 暗闇でじいっと二人の話を聞いていた老中国人が中国語で鉱夫たちに命令した。中国人の鉱夫たちは、言われた荷物だけ担ぐと、すぐに焚火を踏み消した。 「ついて来い!」 チャーリーは先頭に立って歩き出した。チャーリーはジムたちをまくために、いったん、来た道を戻ることにした。一行は暗闇の中を懸命に歩いた。チャーリーは時々立ち止まっては、磁石をすかして見て、方向を確かめ、確かめ、歩いた。 東の空が次第に白くなり始めるころ、さすがに一行は疲れ果て、ばたばたと荷物を放り出すものが現れた。 「よし、ここいらで休もう!」 一行は折り重なるように地面に倒れて、寝込んだ。 それから、どれくらい経ったろうか、激しい銃声で一同は飛び起きた。 「皆さん方、お早うさん!」 それは馬に乗ったジムの声であった。しかも呆れた事に、どういう事か、一晩中歩き回ったというのに、友吉たちは元の場所からいくらも離れていない所に倒れ込んで寝ていたのであった。ジムはにたにたしながら言った。 「チャーリーさんよ。馬はまんまと頂いたよ。細工もきちんとしてきたよ。残りはあんた達を片付けるだけだ。でも、ちょいとピストルは使えない。何しろ近くに騎兵たちが来てるんでね。まあ、騎兵隊のパトロールが通り過ぎるまで、こちらの谷間に引っ越していてもらおうか」 ☆ 馬に乗ったジムと三人の手下たちは、疲れ切っている友吉たちに銃を突き付けて、荷物を担がせると、いったん谷を出て、別の尾根のくぼ地へ追い込んだ。 「ほんのしばらくの御辛抱!」 ジムは銃をひねくりながら、一同を睨み回した。と、その時騎兵隊のニ十騎ほどのパトロールがすぐ近くへ姿を現した。そして、そのまま行き過ぎようとした。 「助けてくれーっ!」 叫ぶと同時にイム老人が飛び出した。途端にジムの銃が火を噴いた。イム老人がのけぞって倒れた。みんなの注意が老人の方へ向けられた時、友吉が飛び出そうとした。振り向きざまにジムの銃が再び火を噴いた。 倒れたのは友吉ではなく、ジムの銃の前に立ったチャーリーだった。もっとも、チャーリーはジムの腰のピストルを狙おうとしていたのである。 銃声を聞きつけた騎兵隊が一行の所へ向かってきた。ジムは友吉を手下の一人の所へ突き飛ばした。 「いいか、そのガキが一言でも言ったら、ぶっ放せよ!」 パトロールの隊長が一同を見た。 「リーダーは?」 「はい。私です。ジム=マッケンジーです」 「今の銃声は?」 「はい。あなた達パトロールを見た途端、逃げ出そうとした犯罪人を撃ったのです」 「その人種の違うのは?」 「密採掘者が、フリスコから連れて来た中国人の奴隷鉱夫です。これからフリスコへ連れて帰るところです」 「ご苦労。この辺りにインディアンがいるようだから気を付けたまえ。昨日の夜も、この先のキャンプで女、子供含めて二十人、皆殺しにされた」 「はい、気を付けましょう」 その時である。インディアンの一隊が、遥か彼方の平原を土埃を上げて走るのが見えた。 騎兵隊はたちまち、そのインディアンを追って引き返して行った。 「さあて、あとはまともに英語を喋れそうなのは、このガキだけだ。他の奴はここへ置いてきぼりを食わせてやれ。ぼやぼやしてるとやばい。さ、食料と金を乗せて出発だ!」 中国人の鉱夫たちは、ジムたちには目もくれなかった。みんな撃ち殺されたイム老人の死体に取りすがって声を上げて、泣いていた。ジムはそれを幸い、友吉を荷馬車に乗せ、子分たちに出発の合図をした。馬車が動き出しても中国人たちは追って来なかった。 友吉は荷馬車で揺られながら、澄み渡る空を見上げた。 ――仕方ないな。本当なら、おれは北斗丸で死んだんだ。それがこうして異国見物できただけでも、有難いのかも知れないな。冥土へ行ったら、おとっつあんにこの話をしてやろう。ネ・ペルス号の人たちはみんな、優しかった。殺されたチャーリーだって、それほど悪い人とも思えなかった……。そうだ。変わった娘に会ったよ。モルシーターって日本の娘みたいな顔をしてたよ……。ねえ、おとっつあん、死ぬ時は一思いに死にたいな。そんなこと、贅沢かい? 冥土でおっかさんに会ったかい? もうじき、おいらも行くって言ってね。……ね、おとっつあん、アメリカで死んでも、そこへ行けるね―― 「まずいぞ、インディアンだ!」 山裾にそって西へ荷馬車を走らせていたジムが叫んだ。インディアンの一隊が、正面山側から迫ってくるのが見えた。 「よし! 南へ突っ走るぞ!」 ジムは馬車を街道から外し、南へ向けた。馬車はなだらかな斜面を南へ向かって登った。 「こいつを越えると平地に出るんだ!」 だが、その斜面を登り切って、下り坂になったとき東側を一行と並ぶようにして、南へ向かうインディアンの一隊が現れた。一行は、完全にインディアンの挟み撃ちに遭った。東側を並んで走っていたインディアンの一隊は、前方をふさぐように、やや西へ向きを変えた。やむを得ず、ジムは馬を南西に向けた。南西の正面には、屏風のような岩山が立ちはだかっていた。 昼過ぎ、インディアンの一隊は姿を消した。一行はくたびれ果てて、馬から降りた。馬も完全にへばっていた。 日がいくらか西へ傾きかけた頃、ジムは一同に出発の合図をした。そして、それを待っていたように、またインディアンの追手が姿を見せたのである。が、気になる事はインディアンが、攻撃を仕掛けない事だった。これは彼らが、ジムたちを生け捕りにしようとしている事であった。 ジムたちは南西の岩山の裾まで来ると、山裾に沿って、やや西寄りに馬を走らせた。インディアン達は、一定の距離をおいて一行と並んで馬を走らせていた。と、急にインディアンたちは一行を取り囲むように馬の首を回した。 「ちきしょう! 後ろがこの岩山じゃ!」 ジムが悲痛な声を出した。が、その岩山に、まるでわずかに開いた門の隙間のような切れ目があった。 「よし、あそこへ飛びこめ!」 一行はそそり立ち岩山の切れ目へ馬を乗りいれた。両面から迫る岩山の絶壁を見上げながら道を右に左に回り込んだ。もうどちらの方角へ向けて走っているのか、見当がつかなかった。 やがて前面に広々とした大地が開け始めた。辺りは次第に夕やみに閉ざされようとしていた。ジムは用心のために、なおも馬車を走らせた。やがて、辺りは深い夜の闇に閉ざされた。 「助かった! インディアン共に捕まったが最後、火あぶりか、八つ裂き。挙句の果てに頭の皮を剥がされるんだからな」 ジムは馬車から飛び降りると、地面に台の字になって横たわった。子分たちもジムに見習った。 夜が明けた時、ジムの顔は青ざめていた。 「まさかと思うが……もしかすると、オレ達は死の谷に迷い込んだらしいぞ」 友吉は辺りを見回した。一本の木も無かった。見渡す限りの砂山であった。その砂山が大きな波のようにうねっていた。 「おい、ジム=マッケンジーの旦那。どうしてくれるんだ。お前さんだって、死の谷に入った者は、生きて谷を出られねえって事を知ってたんだろう。どうしてくれる?」 手下の一人が血相を変えて、食ってかかった。ジムもきっと動転していたのだろう、やにわにピストルを抜くと、その男を撃ち倒してしまった。 「馬鹿野郎、狼狽えやがって。入って来たんだから同じところを出るだけよ」 ジムは強がりを言った。だが、入ってきた時の車の後はもうどこにもなかった。第一、どこから入ったのか、方角も分からなかった。 行けども行けども、乾いた砂山であった。あの岩山の姿はどこにもなかった。激しい焦りといら立ちに苛まれながらの、辛い旅が始まった。二日、三日、四日と続くうち、渇きのために馬が激しい音をさせて横倒しに倒れ、はらわたを丸ごと吐き出すような、嫌なしゃっくりを続けると、それっきり動かなくなった。六頭の馬は次々と倒れて行った。 こんなことになると思わなかったから、水筒にはわずかな水しかつめてなかった。そのわずかな水を奪い合って、男たちは撃ち合い、最後にジムと友吉が残った。 「小僧、貴様の生きている内は、オレだってくたばるものか。六箱の金があるんだからな」 ジムはかすれ声で友吉を脅した。友吉は落ち着いていた。この地獄のような光景から、もしかしたら、これは冥土へ行く途中の賽の河原に続くところではないかと思っていたのである。もしそうなら、じきに父に会えると思った。もう死ぬことは恐ろしくなかった。 「ジムさん、撃ちたきゃ、撃ってくれよ」 「馬鹿やろ! 一人ぼっちに残されてたまるか……」 ジムはそう言うと、それまで絶えず友吉に向けていたピストルをガン・ベルトへ戻した。 二人はべったりと地面に腰を下ろして、肩で息をしていた。やがて日が落ち、夜が来た。急激に冷えて、二人はかたかたと震えた。やけに大きな月が東の空に上がり、二人を照らした。辺りは何の物音もしなかった。 「おい、小僧、誰か来るぞ!」 「気のせいだよ」 「いた、どこか、その辺でぶつぶつ言ってる。ほら、聞こえるだろ。あ、チャーリーの声だ!」 「おれには何にも聞こえないよ」 「あ、見ろ、あいつらだ。金鉱の奴らだ! 見ろ! 血だらけで、こっちを見てる」 ジムの指さすところには、何も見えなかった。それなのに、ジムは急いでガン・ベルトを外すと、ふらふらと立ち上がり、両手を上げた。 「う、撃たねえでくれよ、な、お願いだ!」 「ジムさん! 誰もいないよ!」 友吉が言うとジムは泣きべそをかいたように友吉を見た。そして、崩れるように地面に座り込んだ。友吉の全身を、けだるいもやのような物が包んでいた。水が無いので、炊事は出来なかった。水気の無い食べ物など、喉を通らなかった。 「小僧! また来た!」 ジムはよろめきながら立ち上がった。と、ジムは友吉の顔を見ると悲鳴を上げた。その目はもう完全に狂人の目だった。そして、ジムはくるりと向きを変えると、泣き声を上げながら走った。多分ジムの目には友吉が、自分の殺したキャラバンの子供の顔に見えたのだろう。そのジムがつまづいたように、もんどりうって頭から砂の中へ突っ込むのが見えた。それっきり、ジムは起き上がろうとしなかった。 友吉の目も次第にかすんできた。体を起こしていることが出来なくなった。友吉はポケットからあの数珠を取り出すと、手に巻き、その手を胸の上に組んだ。友吉は静かに目を閉じた。段々身体が痺れていくような気がした。 どこか遠くで死んだ母が呼ぶ声がした。その声は次第に近づいてきた。友吉は微かに微笑んだ。 と、その声は次第に近づき、友吉の耳元ではっきりと呼んだ。 「トモキチ! トモキチ!」 そして友吉は身体をゆすられた。うっすらと目を開けると誰かが覗き込んでいた。そして、その誰かが友吉の口へ水を含ませてくれた。その水が、たちまち乾ききった友吉の身体の、隅々まで湿らせていった。友吉は何度も何度も、水を含ませてもらった。かすみのかかっていたような友吉の目がはっきりしてきた。月の光を浴びながら、友吉を覗き込んでいたのは……そして水を含ませてくれたのは、あのモルシーターであった。 「モルシーター!」 「トモキチ!」 モルシーターは友吉の顔を両腕で抱え込むと、激しくほおずりした。 ――モルシーターが助けてくれた……―― 「トモキチ、トモキチ……」 歌うように言うモルシーターの声は、友吉には、母のように優しく、悲しいまでに懐かしく思われた。モルシーターは、ほおずりをやめて、じっと友吉を見た。その目は涙に潤んでいた。 「モルシーター」 モルシーターは返事をする代わりに、ふふっと笑った。その時、友吉の後ろで別の声がした。 「トモキチ!」 振り向いて見ると、そこには羽飾りをなびかせたインディアンの戦士たちがずらりと並び、微笑みさえ浮かべて、友吉を見下ろしていた。その中の一人がはっきりした英語で言った。 「トモキチ、青い星を届けてくれてありがとう。モルシーターが酋長に渡してくれたので、まじない師は力を取り戻し、私も助けられた」 なんと、それはフリスコで友吉に数珠を渡した男であった。彼は、たまたま部落を通りかかった白人がまじない師に酒を飲ませ、面白半分に青い星の首飾りを持って行ったのを取り戻すために、フリスコへ行っていたのである。英語を話せる彼は、青い星は取り戻したものの、半死半生の目に遭わされた。その時、彼は、抱え起こしてくれた友吉をインディアンと思い、青い星を届けてくれるように頼んだのである。もちろん友吉にはそんな事分からなかった。 青い星はまじない師の大事な道具だった。青い星で力を取り戻したまじない師は、男が酷い目に遭っている、と酋長に告げ、すぐに部落の戦士たちを向かわせた。そして虫の息で山中に捨てられている男を見つけ出した。こうして青い星の不思議な力が、友吉やモルシーターや男を、一つに結ぶ運命を作り出したのかも知れなかった。 「酋長がトモキチをわしらの部落全体のお客として迎えることにした。だが、白人の仲間がお前を連れて行った。すぐにでも行きたかったが騎兵隊と戦っている内に、トモキチは死の谷へ入った。ここは死の谷でも、我々インディアンは白人と違い、昔からこの土地の主人だから、この出口も知っている。わしらの土地を勝手に踏み荒らす者だけが、死の谷の怒りを受ける。さあ、トモキチ、モルシーターと並んで馬に乗ってくれ。わしらの村へ案内する」 モルシーターが優しく友吉を抱え起こした。 ☆ 一九一四年(大正三年)、第一次大戦が始まって間もなく、サンフランシスコから、日本へ向かう客船に一組の老夫婦が乗り込んだ。波止場にはサンフランシスコでも指折りの大きな商店の主人たちが見送りに来ていた。みんな中国人であった。みんな、昔は金を掘る奴隷として連れて来られた人たちだという噂であったが、本当の事は誰も知らなかった。 見送られる老紳士夫妻は、土地を追われて保護地へ追いやられたインディアンの権利を主張して戦い続けた弁護士であった。 その年の暮れ、その老夫婦は雪の降りしきる新潟に現れた。むかし北斗丸という千石船を持っていた回船問屋兼木越後屋の跡を訪ねていた。老夫婦は全然日本語が喋れず、第一高等学校生徒平野健太郎を通訳に雇っていた。老紳士の名は、トム=キッチ=グワナビー、老婦人の名をモルシーター=グワナビーといった おしまい 戻る |