雪中輸送



                    ☆

 ラク・スールと言えば、カナダの田舎もいい所である。その辺り一帯には、まるっきり人家というものが無い。
 しかし、そこに交易所を作って、ハドソン・ベイ商会の仲買人、ピーター=アンダスンという男が働いていた。交易所と言うのは、土地の人々がとった獣の毛皮を、食料品と取り換える所である。
 ある冬の事、アンダスンの所では、冬の間の食料が乏しくなった。そこでアンダスンは、イグナスにある交易所に、不足分の食料を送ってくれるようにと、手紙を書いて出した。
 それは、豚肉とか小麦粉とか言ったような生活するのに欠く事の出来ない必要な食料ばかりだった。合計で三百ポンド(約百三十五キログラム)ばかり届けてくれと頼んだ。
 イグナスの交易所では、それを届ければ、一ポンド(約四百五十グラム)について七十五セントの手数料がもらえる。三百ポンドなら、一袋約三十ドル(当時の相場で約一万円)の手数料が儲かるはずだった。
 イグナスの交易所では、さっそくそれらの品物を整えると、所長のマックス=ファーンが輸送係のトム=ムアーを呼んで言った。
「トム、ご苦労だが、この荷物をラク・スールのアンダスンの所に届けてくれ」
 たいていの者なら、ラク・スールと聞いただけで顔をしかめるに違いなかった。
 何しろ、イグナスからラク・スールまでは二百マイル(約三百二十キロメートル)もある。その途中は、果てしない原野とわずかな森があるだけだった。ただでさえ運ぶのに難儀するというのに、今は雪が降り続いている。
 だが、トムは顔色一つ変えず、
「ああ、そうですか」
 そう返事をしただけだった。
 そして、黙ってソリの上に三百ポンドの食料の荷物を積み込むと、五頭のエスキモー犬をソリにつないだ。そして、がっしりとした大きな体をすこしうつむきにすると、ラク・スール目指して出発した。


 トムは長い間、交易所の輸送係として働いてきた。これまでも、ラク・スールには何度も行ったことがある。
 夏はカヌーに荷物を載せて、川を漕いでいった。冬は雪靴を履いて、真っ白い雪に覆われた荒野をどこまでも歩いて行った。行くときは、いつも一人だった。
 輸送係の仲間の中には、途中、吹雪のために道に迷って命をなくした者も、何人かいた。だが、トムはそんな事で気持ちがひるんだりはしなかった。
「オレは絶対、吹雪などで死にはしない」
 いつの間にか、そういう自信が胸の中にしっかりと植え付けられていた。だから、所長からラク・スールに行ってこいと言われても、びくともしなかったのである。

                    ☆

 トムは五匹の犬にソリを引かせて、雪の降りしきる道を進んでいった。
 雪は、膝が沈むぐらいの深さに積もっていた。その中を、トムの足はピストンのように規則正しく動いていた。
 ソリを引く五匹のエスキモー犬は、揃いも揃って黄色い毛のふさふさした、鼻づらの黒い犬ばかりだった。重い荷物を引いているために、どの犬の首輪も肩に食い込み、横腹は苦しそうに波打っていた。
 風が益々激しくなった。
 この風は、ハドソン湾の岸から吹き寄せてくるもので、ラク・スールの氷に閉ざされた湖の上を渡り、凄まじい唸り声を上げながら、トムと犬たちに向かって吹きつけて来た。
 全く目も開けられないくらいの、激しい風だった。トムは息をつくために、足を止め、身体を風にもたせかけるようにした。
 風は容赦なく、トムに襲い掛かった。まるで彼を引き裂き、食いつくしてしまおうとするようだった。そして、彼の顔にもつかれて喘いでいる犬たちの口にも、細かな雪を叩きつけた。顔も、口も、ヒリヒリと痛んだ。だが、そんな風にひるんではいられない。トム達は前進を続けた。
 トム達が踏み散らした雪の上の足跡は、すぐさま風が吹き散らし、平らにならしてしまう。歩いた次の瞬間に足跡が消え、雪のうねりだけが残っているだけだった。
 朝から、もうどのくらい歩いたろう。
 次第に辺りは夕暮れに包まれてきた。真っ白な雪の中を、トム達は黒い小さな点となって黙々として進んで行った。
「これは酷い旅になりそうだぞ」
 雪の道を歩きながら、トムは思った。
 ラク・スールまでは二百マイルの道のりだが、こんな雪の中を歩くとすれば、少なくとももう十五マイル(約二十四キロメートル)ほど余計に歩く、と考えなくてはならない。
「何とかして、無事にラク・スールに到着できるといいんだが」
 その内、遥か彼方に、ぼうっと紫色をしたものが見えてきた。それは、確か森に違いなかった。
「今夜はあそこで野宿する事にしよう。もう少しの辛抱だ。頑張ってくれ」
 トムは五匹の犬たちを励ました。そして、その紫色の影に向かって、自分も横綱を手にして、休むことなく前進を続けた。
 それから、どのくらい経ったろう。
 とにかく、やっと目指す森に到着することが出来た。
 風の勢いが、急に弱まった。
 トムの顔は、口も目も、びっしり氷が張り付いていた。だが、トムはそんな事にはお構いなしに、今夜野宿する場所を探すために、どんどん森の奥に入って行った。
 突然、土の匂いがした。その匂いを嗅ぎつけると、五匹の犬たちは、急に元気が出たらしく、ソリの引き皮がピーンと張った。犬たちは勢いよく森の奥に向かって走って行った。

                    ☆

 トムは野宿するのに、適当な場所を見つけた。


 そこでまず、火を焚いて、凍え切った体を暖めた。
 それから腹を空かせた犬たちのために、凍ったマスを一匹ずつ投げてやった。
 そして自分も袋の中から自分用の粗末な食料を取り出して食べると、ウサギの皮の毛布にくるまって仰向けになった。
 雪はやんだようだった。空には星が瞬いていた。
 だが、それもほんの一時の事だった。
 真夜中頃から、風が南東に変わり、雪交じりの冷たい雨がじとじと降り始めた。
 森中の木と言う木は、濡れて氷が張り付いた。
 地面は一センチ以上もの氷で覆われてしまった。体の芯まで凍るような寒さが襲い掛かった。
 夜明け前、寒さは一段と厳しくなった。
 ピシッ――トムのすぐ近くで、突然枝が鳴った。
 雪の上で寝ていた一匹の犬が、ピクリと耳を立てた。
 だが、トムは疲れてぐっすり眠り込んでいたので、何も気が付かなかった。
 トムは寝る前、一本の木の枝に、犬の食料の凍った魚の束を吊るしておいた。犬たちに食べられないようにするためだった。五匹の犬は、その木の下で、雪に埋もれながら眠っていた。
 夜明け前の薄明りの中で、何かが動いていた。爛々と光る目、白っぽい灰色の顔、その顔には、先の黒い短い耳をつけている。大きな犬くらいもある動物だった。
 その動物は、音もたてずにひらりと木から木へと飛び移った。太くてたくましい足、その足の裏は、柔らかくて幅が広い。それは寒い地方の森林に住む、オオヤマネコだった。
 オオヤマネコは、枝にぶら下がっている魚の匂いに誘われて、ここまでやって来たのだった。
 オオヤマネコは、用心深く、木から木へと移り飛び、そっと地面に足を付けたりしながら、次第に魚の束が吊るして歩きに近づいて行った。
 オオヤマネコの鼻に、魚の匂いがますます強く匂った。オオヤマネコは、魚のぶら下げてある枝に近づいた。
 まるでオオヤマネコをじらすように、魚の束は風に吹かれてくるりくるりと回っている。
 オオヤマネコは、枝に腹ばいになった。枝にしがみついたまま、片方の前足をいっぱいに伸ばして、魚を取ろうとした。
 前足の先が、魚に触った。魚が揺れた。
 オオヤマネコは、もっと前足を延ばして、爪で魚をひっかけようとした。だが、上手くいかなかった。そこで、もう一度、素早く前足を延ばした。
 オオヤマネコは、魚に気をとられて、いつもの用心深さを忘れてしまった。思わず前足に力を込め過ぎた。その拍子に、オオヤマネコは、凍った枝からするっと滑り、つんざくような叫び声を上げながら、眠っている犬たちの真上に落ちて来た。
 眠りこけていた犬たちは、慌てて目を覚ました。オオヤマネコと犬たちとの間で、たちまち物凄い騒ぎが始まった。
 叫び声、唸り声、せき込むようなオオヤマネコの吠え声。
 雪が飛び散り、黄色い犬たちが渦のようにそこら中を駆け回った。
 トムは驚いて跳ね起きたが、どうする事も出来なかった。犬たちとオオヤマネコの必死の争いを、ただ見ているより仕方がなかった。
 すさまじい争いの中で、エスキモー犬たちの中に、荒々しい、狼の性質が甦って来た。
 彼らは犬であることを忘れてしまった。力を合わせてオオヤマネコをやっつける代わりに、見境なく、お互い同士で傷つけあった。
 ひどい傷を受けた二匹の犬が、傷をなめながら這い出してきた。
 争いは、次第に収まった。やがて互いに吠え声を交わし合って戦いを終わり、オオヤマネコは、血を流しながら静かな森の奥に逃げ込んでいった。
 オオヤマネコを追いかけて行った三匹の犬たちも、やがて足を引きずりながら戻って来た。
 トムは酷い傷を受けた二匹の犬の前に行ってみた。この二匹は、五匹の中でも、特に優れた犬だった。
 二匹の犬は、横になって、オオヤマネコに引き裂かれた傷をなめていた。
 トムが近づくと、二匹の犬は、黒い唇をむき出し、真っ白な長い牙を見せた。そして、ピクピクする喉で、ゴロゴロと唸った。
 オオヤマネコに向かって、あくまで戦おうとしているようだった。
「これでは、もう助からん」
 二匹の犬の傷を見て、トムは思った。
 真っ赤な傷は、早くも霜で凍傷にかかっていた。犬たちは、苦し紛れに自分の歯で、自分の身体を噛んだ。
 トムは、苦しみもがく犬の姿を見ていられなかった。
 斧を振り上げると、二度、三度、力を込めて打ち据えた。それより他に、手段は無かった。
 二匹のエスキモー犬は、雪を真っ赤に染めて、ぐったりとなった。身体をひくひくさせていたが、やがて目がどんよりと曇って来た。
「許してくれ。仕方のないことだ」
 トムは、死んでゆく二匹の犬に向かって呟いた。
 それから生き残った三匹の犬の身体を調べた。
「まだ、ソリは引かせられる」
 トムはほっとした。三匹の犬でも、何とかラク・スールまで辿り着ける事だろう。
 朝の光が、辺り一面にさし始めた。
 トムは、ソリの引き皮を短くした。雪靴のつま先の皮を、しっかりと止めた。そして、森を出発した。

                    ☆

 その日も苦しい行進が続いた。
 犬たちの足では、凍り付いた雪の上を歩けなかった。
 トムは雪を踏み砕いた。氷の塊が、ぐらりと揺れ、靴の上に落ちて来た。
 しばらくすると、足を上げるのも億劫なくらい、トムは疲れ切った。
 三匹のエスキモー犬は、もがきながら、トムの後をついてきた。先頭の犬は、トムの雪靴のかかとすれすれに、鼻を寄せて歩いた。
 トムも犬たちも、へとへとに疲れていた。それでも、一時間、また一時間と、トム達は果てしない雪の道を進んで行った。
 時間がたつにつれて、トムの歩幅は次第に短くなった。犬たちは疲れ切っていた。トムの腿の筋肉は、焼いた鉄線のように熱くなった。
 四時になった。その時、突然、先頭の犬の足が止まってしまった。しかし、引き皮をつけた身体だけが揺れ続けていた。
「おい、どうした?」
 トムは犬の身体を両手でさすった。すると、トムの片手が生暖かく濡れた。血だった。血がべっとりと手についていた。
 振り向くと、雪の上を点々と目の届く限り、真っ赤な血の跡が付いていた。
 犬はオオヤマネコとの戦いで、もじゃもじゃした毛の下に、深い傷を受けていたのだ。
 その苦しみをこらえて、力の尽き果てた今の今まで、懸命にソリを引き続けてきたのだ。
 トムはどうしてやることも出来なかった。
 雪の上に腰を下ろすと、この健気な犬の頭を膝の上に乗せた。そして、目の上にうるさく垂れ下がった長い毛を、後ろになでつけてやった。それだけが、今のトムに出来る、精いっぱいの事だった。
 犬の目は、力なく、次第にかすんでいった。それでも自分をさすってくれる主人の手を、甘えるように静かになめた。
 トムののどがうっと鳴った。トムは歯を食いしばって涙をこらえた。
 トムの見ている前で、犬の大きな体は動かなくなった。
「今度の旅は、どうしてこんなに酷い目にばかり遭うのだろう」
 冷たくなった犬を見ながら、ふと、トムの胸に疑問がわいた。
 これまでも、輸送中に度々危険な目に遭ったが、これほどつらい目に遭った事は一度も無かった。何か、悪魔の罠の中に落ち込んでしまったような気がしてならなかった。
「なぜ、こんな目に遭うのだろう……」
 トムは一生懸命、その事を考え続けた。
 すると、ある一つの事に思い当って、トムははっとなった。
 トムは白人の父親と、カナダ・インディアンの母親との間に生まれたあいのこだった。
 トムがまだ子供の頃、インディアンの母親は死んだが、死ぬ間際、母親はトムを呼び寄せてこう言ったのだ。
「やがて白人たちが、広い海の向こうから新しい神を連れてくるだろう。だが、トム、お前は決してその神を信じてはいけないよ。そんな事をしたら、お前は不幸になる。どうか、その神を信じないと母さんに誓っておくれ」
 母親が死ぬと、カナダ・インディアンの習わしに従って、母親の死体はアルバニー川の木の上に葬られた。
 だが、トムは母親の言いつけを守らなかった。彼は、海を渡って白人たちが連れてきた神――キリスト教の信者になった。そればかりではない。教会を建てるために、角材を切る手伝いまでしたのだ。
「オレは、母さんの言いつけを守らなかった。今、その祟りを受けているのではないだろうか?」
 トムはそう思った。だが、それならどうしたらいいのだろう。
「祟りを恐れてびくびくするなんて、男のする事じゃない」
 トムは勇ましくも、そう考え直した。
「そうだ。もしその祟りなら、それに対してどこまでも戦うのだ。ありったけの力を出して戦うのだ!」
 トムは厳しい顔つきで、白い世界を見渡した。それから死んだエスキモー犬の首輪を緩め、ソリの引き皮を外すと、それを自分の首に巻いた。そして激しい勢いで、雪の中に足を踏み出した。
「恐れてはならない、どこまでも戦おう。全力を尽くして!」
 トムの後ろを、生き残った二匹の犬が従った。
 その日、夜が来るまで、トムは二度と立ち止まらずに雪の道を歩き続けた。

                    ☆

 その夜もトム達は、森の中で野宿する事にした。
 トムは、生き残った二匹の犬に、いつものように魚を投げてやった。
 ところが、犬たちはトムの方をじっと伺っているばかりで、魚を食べようとしなかった。だが、トムは疲れ切っていたので、いつもと違う犬たちの様子を、大して気にも留めなかった。
 トムは、大きな体をウサギの皮の毛布に包むと、火の側でぐっすりと眠り込んでしまった。
 それから、一時間後――
 二匹の犬は、そっと寝ているトムに近づくと、じっと主人を見下ろした。
 それからトムの服に鼻を近づけて、寝込んでいる主人の匂いを嗅いだ。
 その途端、二匹の犬の背中の長い毛が、波のように逆立った。
 これまで犬たちが、主人に向かってこんな態度をとったことは、一度も無かった。
 二匹の犬は、突然、これまでとすっかり変わってしまったのだ。
 オオヤマネコと戦ったためか、あるいは夕方、氷の上で仲間が倒れたのを見て、気が変になってしまったのかも知れない。とにかく、二匹の犬は、すっかり野生の犬に戻ってしまったのだ。
 おまけにこの二匹の犬は、首輪も引き皮も、すっかり外してしまっていた。もう、ソリを引くのが自分たちの仕事だなどという事を、すっかり忘れてしまったのだ。
 最初、二匹の犬は、主人の匂いを嗅ぎつけるとたじろいだ。
 だが、それも一瞬の事だった。
 やがて犬たちは、痩せた肩を揺すり、鼻をぴくつかせて、再び主人の匂いを嗅ぎ回った。
 その時、二匹の犬は、主人とは別の匂いを嗅ぎつけた。それは、毛布の下にあるトムの食料袋の匂いだった。
 二匹の犬の目が、ぎらぎら光った。犬たちは、用心深くそろそろと、その袋を引き出した。トムが寝返りを打った。二匹の犬は、慌ててぱっと飛びのいた。だが、トムはそのまま、また眠り込んでしまった。
 すると二匹の犬は、袋を口にくわえて、ずるずると雪の上に引きずり出した。
 それから鋭い牙で袋を引き裂くと、中の食料をがつがつ食べ始めた。食べられないものは、滅茶苦茶にちぎって捨てた。
 思いっきり腹に食べ物を詰め込むと、二匹の犬はすっかり満足して、雪の上に横になって眠った。

                    ☆

 朝の光を顔に受けて、トムは目を覚ました。
 何か様子がおかしかった。トムは片手で、毛布の下にくるんである食料袋を探った。無い。食料袋はどこにも無い。
 トムははっとして、二匹の犬を見た。
 犬たちの他に、食料袋を持ち出す者は考えられなかった。
 二匹の犬は、警戒するような目つきで、遠くからじっとトムを見つめていた。
「お前たちだな、オレの食料袋を盗んだのは!」
 トムはかっとなって、手を振り上げた。
 だが、そんな事をしても何にもならない事に、トムはすぐ気が付いた。
 二匹のエスキモー犬が、すっかり野生の犬に戻ってしまっている事に気づいたからだった。野生にかえったエスキモー犬が、大人しくトムの罰を受けるはずがない。
 トムが前に出て行くと、二匹の犬は後ろに下がった。
 トムが足を止めると、犬たちは腰を下ろし、目をぎらぎら光らせながら、トムの様子を伺った。
 トムは諦めて、後ろに下がった。だが、犬たちは近寄っては来なかった。
 トムは犬たちに、魚を投げてやった。犬たちは、まるで見向きもしなかった。
 二匹の犬たちは、すっかり別の世界の獣に変わってしまっていた。人間に懐き、人間の言う事を聞く犬の性質は、この犬たちからは消し飛んでしまった。
「どうしたら、いいだろう……」
 トムは途方に暮れた。
 何とかして、元のエスキモー犬に戻らせようとして色々と努力してみた。だが、何をしても無駄だった。二匹の犬は、もう二度とトムの言う事を聞かなかったし、懐こうともしなかった。
 トムはため息をついた。これからは、一人で雪の中をソリを引いて、ラク・スールまで運んで行かなくてはならない。果たして、そんな事が出来るだろうか。
 その時、またトムは母親に聞かされた話を思い出した。


 ウェンディゴという恐ろしい悪霊の話である。掟に背いたインディアンには、ウェンディゴという悪霊が憑りついてその人間を苦しめる。
「オレはウェンディゴに憑りつかれたのかも知れない」
 トムはそう思った。
 だがトムは、そんな悪霊に負けてはならない、と思った。
「そうだとも。オレはそんな奴には負けないぞ」
 トムは口に出して呟いた。
 それからゆっくりと毛布を畳み、ソリに括り付けた。
 太陽がゆっくりと、地平線の上に顔を出した。
 トムは引き皮を肩に充てると、三百ポンドの荷物を積んだソリを引いて、氷の原野を歩き出した。
 二、三メートル後ろから、二匹の犬たちが付いてきた。犬たちはぶたれるのを用心して、それ以上は近づかなかった。だが、足音を忍ばせながら、どこまでもトムの後ろからついてきた。
「もし、二匹の犬が、オレに襲い掛かったとしたら……」
 そう考えると、トムは気が気でなかった。不意に背中を襲われたら、防ぎようがない。トムは後ろを用心しながら、ソリを引いた。
 引き皮が、ぐいぐい肩に食い込む。重いソリを一人で引く苦しみと、いつ二匹の犬に襲われるかもしれなという心配で、トムはくたくたに疲れ切った。だが、今更どうする事が出来よう。ただ、この雪の道を進むより仕方がない。トムは歯を食いしばって、ソリを引き続けた。
 やがて昼も過ぎ、三時近くになった。
 トムは朝から何も食べていなかった。空腹のために、トムは気が遠くなった。とにかく、杉の森の中で一休みする事にした。
 だが休んでも、トムの食料は二匹の犬に食べられてしまって、何も無い。
 そこでトムは罠を仕掛けて、野ウサギを取る事を思いついた。
 罠を仕掛けるためにトムがソリから離れた途端、二匹の犬がソリの荷物目がけて襲い掛かって来た。
「こらっ、何をする!」
 びりびりと布の裂ける音を聞いて、トムは慌てて駆け戻った。
 トムが近づくと、犬たちは急いで飛びのいた。そして、少し離れた雪の上に這いつくばり、前足の間に顔をうずめて、じっとトムの様子を伺った。
 トムは荷物をソリから降ろすと、そのそばで火をたいた。
 無闇と眠い。だが、居眠りなどしていられない。そんな事をしていたら、腹を空かせ切った二匹の犬たちは、たちまち荷物に襲い掛かるに違いなかった。
 トムは無理をして目を開けていた。すると、腹の虫がぐうぐう鳴った。なんでもいい、腹に詰め込みたい。トムは思わず口の中のつばを飲み込んだ。
 食料なら、この荷物の中にたっぷり積み込まれている。だが、トムはその食料を食べることなど夢にも考えなかった。
 この食料は、ラク・スールのアンダスンの物だった。アンダスンは、一日も早く食料が届くのを待ち焦がれている事だろう。早く、この荷物をアンダスンに届けてやらなくてはならない、とトムは思った。
 トムは出発するために立ち上がり、重いソリの引き皮を肩にかけた。
 目的のラク・スールまでは、まだ百マイル(約百六十キロメートル)もある。そして、ソリの荷物は三百ポンド(約百三十五キログラム)もあるのだ。

                    ☆

 それからのトムの酷い苦労を、誰が想像出来たろう。
 何度となく嵐が吹き荒れた。よろけながら、それでも一歩一歩、雪の上に足を踏みしめて、トムはその中を歩いて行った。
 引き皮が容赦なく肩に食い込んだ。引き皮の後ろには、三百ポンドの重い荷物を積んだソリがついている。
 そして、その後ろから、狼同様になった二匹の犬が、隙さえあれば襲い掛かろうとしてついて来るのだ。
 二匹の犬も、トムと同じように飢え切っていた。胴は痩せこけ、目だけがぎらぎらと光っていた。
 トムは二匹の犬に気を配りながら、重いソリを引いて歩かなくてはならなかった。
 一体このまま、無事にラク・スールに到着できるだろうか。
 トムの行く先には、恐ろしい死が待ち構えているように思えてならなかった。
 すると、よろめきながら引っ張るソリの荷物が、まるでトムのお棺のように思えてきた。
 夜になると、トムは自分と荷物の周りに火をたいた。火を絶やしてはならなかった。火だけが、この恐ろしい犬たちの攻撃を防ぐ、ただ一つの武器だった。
 二匹の犬は、声もたてずにうろうろとその周りを動き回り、じっとトムの隙を伺った。
 トムは荷物の前で、うとうとしてはハッとして、目を覚ました。
 そして、また朝が来た。
 眠りも取れず、食事もとらず、トムはまた、重いソリを引いて出発しなくてはならなかった。
 氷の原野が、氷床のように光っていた。疲れ切ったトムは、眩しくて目を開ける事も出来なかった。
 しかし、トムはありったけの力を振り絞って進んで行った。
 体力がめっきり衰えた事が、トムには自分でもはっきりわかった。
 トムの目の前に、おかしな形をしたものが見えだしてきた。気持ちの良い不思議な音が聞こえだしてきた。そして、酷く眠くなってきた。
 すると、一面の雪が、交易所で売っている白い、暖かい毛布のように見えてきた。
 あの毛布にくるまって、このまま寝転がったら、どんなに気持ちがいいだろう、とトムは思った。もう、寒くは無かった。
 すると、トムの耳に、ざわざわと人々の話し声が聞こえて来た。人々の姿が見えてきた。トムはその人々に向かって大声で呼びかけた。だが、人々は、誰もトムに向かって返事をしてくれなかった。
 突然、恐ろしい悪霊、ウェンディゴがトムの目の前に姿を現した。ウェンディゴは、目をじっとトムに向け、低い声でトムにささやいた。
「トム、横になって休むがいい。そうすれば、これまでの疲れがすっかりとれて、楽になるぞ」
 トムは思わず、その命令を聞きそうになった。ふらっと身体がよろめいた。
 その時、どこからか鞭のように厳しい声が飛んできた。
「トム、ここで休んではいけない。休むのは先に延ばせ」
 トムはその声にハッとした。目が覚めたように、眩しく光る氷原を見つめた。
「ああ、良かった」
 とトムは思った。
「危ない所だった。ウェンディゴの言う事を聞いていたら、オレはそのまま凍え死にしたろう」
 そして、最後の力を振り絞って、また氷原を歩き出した。

                    ☆

 トムがイグナスの交易所を出てから、八日経った。
「まだ、来ない……」
 ラク・スールのピーター=アンダスンは、事務所の窓を開けて、外を覗きながらつぶやいた。
「だが、こんな天気では来られないのが当たり前だ」
 アンダスンは首を振った。
 だが、アンダスンも気が気ではなかった。もう二、三日すればここの食料も、すっかり底をついてしまう。
 地平線は激しい吹雪で、かき消されてしまっていた。風がアンダスンの顔に雪を叩きつける。それが針の先でつつかれたように痛い。
 見渡す限り、どこもここも白一色だった。そして激しい風が渦巻いている。事務所の前にあった木の茂みは、風のために吹き飛ばされてしまっていた。その空き地に、風は物凄い唸り声を立てて襲い掛かっていた。
 アンダスンは事務所の裏に回ってみた。風が、一瞬やんだ。無駄な事だとは思いながら、アンダスンはぼんやり、地平線のかなたを眺めた。
「おや、あれは……」
 不意に、アンダスンはどきりとした。
 吹雪の荒れ狂う白い道のずっと向こうに、何かの動く気配がした。
 その時、また嵐が起こり、何もかも見えなくなってしまった。
「いったい、あれは何だ」
 アンダスンは目を細めて、じっとそちらの方を見つめた。幻だったのだろうか? いや、そうではない。真っ白な雪の中で、確かに何かが動いている。
 風の勢いが、急に弱まった。
「あっ、あれは……」
 人影だった。
 その大きな人影は、風に揺さぶられながら、ゆっくり、ゆっくりとこちらに近づいて来るのだった。
 男だった。その男は、何か得体のしれない大きな物を引きずりながら、歩いていた。その後ろから、二匹の痩せこけた犬が足を引きずりながら、まるで亡霊のように従っていた。
 トムはまるで酔ったように、よろよろと歩いていた。もう何も見えなかった。ただ、トムの意志の力だけで動いているようなものだった。その意志の力で、磁石の針が北を指すように、ラク・スールに向かって一心に歩き続けてきたのだった。
 トムの雪靴はボロボロに壊れていた。まるで裸足の上に、わずかに靴の残りが絡まりついているようだった。
 顔は凍傷にかかり、灰色の染みで汚れていた。頬はげっそりとこけ、頬骨が突き出ていた。
 帽子には一面に氷が張り付いていた。額とまぶたにも、氷が張り付いていた。だが、まぶたの下の目だけは、何物にも負けない勇気を秘めて、鈍く光っていた。
 少しずつ、少しずつ、トムは事務所に近づいて行った。
 トムの目が、アンダスンを認めたようだった。だが彼は、手も振らなければ、挨拶の身振りも示さなかった。
 そして、岸から交易所に続く道を上り、やっとのことで事務所のドアにたどり着いた。
 トムの大きな体が、戸口一杯に塞がった。
 トムの身体は、そのまま力なく揺れたと思うと、ごつごつした松の床にどっと倒れた。トムはそのまま、気を失ってしまった。
 二、三時間経った。
 トムはふと、我に返って、辺りを見回した。自分の身体が何枚もの毛布に包まれていた。
 そして、部屋の中はむっとするほど暖かい。
「そうだ。オレはやっと、ラク・スールの交易所にたどり着いたのだ」
 トムはそう気が付いた。
 トムは目で、アンダスンを探した。
 アンダスンは椅子に腰かけて、静かにタバコをくゆらせながら、トムの運んできた食料品の山を満足そうに眺めていた。
「旦那、注文の品は、みんな揃っていますか?」
 気がかりそうに、トムはアンダスンに尋ねた。
「ああ、みんなあるよ。トム、済まなかったな」
 アンダスンはそう答えて、
「どうだ、腹が減っているんじゃないかい? 少し、食事をしないか」
 と、トムに聞いた。
「はあ、五日間というもの、まるっきり、何も食べていねえんです。犬がいなくなったもんですから、わしがソリを引いてきました」
 トムはこれまでの事を手短に語った。
 アンダスンはその話を聞くと、呆れかえったように大きく目を見張った。
 そして、思わず大声で怒鳴った。
「な、何だと! 食料を三百ポンドも運びながら、何も食わなかったんだと。お前は図体ばかり大きくて、何て馬鹿な奴なんだ!」
 するとトムは、絞り出すような、微かな声で言った。
「でも、旦那、それはオレの食い物じゃねえ。会社の物でさあ。ここへ運び込むための食料でさあ」
 そう言うだけで、トムはもう、すっかり疲れ切っていた。
 トムはそのまま目をつむった。
 アンダスンはそれを聞くと、思わず驚きのあまり、手を上げた。それからトムのために、料理を作ろうとして、慌てて台所へ駈け込んで行った。


 部屋を出てから、アンダスンはしみじみした声で呟いた。
「全く、大した奴だ、あのトムという男は。あいつが相手なら、わしらはどんな約束でもするぞ!」



おしまい


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