最後のワシ


                    ☆

 掌を立てたような、険しい崖であった。その中腹の岩の突き出た辺りに、三本の大きな松の木が立っていた。
 夜明けが近づいて、南アルプスの峰と空の境目が、微かに赤みを差し始めると、松の陰から二羽のワシが飛び立った。
 二羽のワシは、空に円を描きながら、広く広がる谷を見下ろすのであった。
 夜明け方の、このひと時は、子供を連れたキツネやウサギが、餌場から大急ぎで林の中に帰る頃であった。
 雉や山鳥が、えさを求めて、草原の方に小走りに走っていく頃だった。
 そういう小さな動物達を求めて、ワシは空で輪を描いているのであった。
 ワシの目は、どんな高みからも地上で動くものを見逃さなかった。
 物の影を伝って、こっそりと歩くキツネも、用心深く草むらで餌をついばんでいる雉も、ワシは素早く見つけることが出来た。
 二羽のワシは、森の上を、林の上を、谷川の上を、草原の辺りを、何回も、何回も、輪を描いて飛んでみた。
 けれど、ワシたちの目当てにしている獲物の姿は、どこにも見えなかった。それでも根気よく、長い間、広い谷の、あちらこちらの上空を飛び続けるのであった。
 いつの間にか太陽が昇って、森も林も、丘も山も、朝日にきらきらと輝いていた。
 やっぱり獲物は何一つ、手に入れることが出来なかった。
 二羽のワシは、もう三日もウサギの腿の肉一切れも食べていなかった。
 胃の中は、ほんとに空っぽであった。きりきり、胃の辺りが痛むほど腹が空いていた。
 二日に一度、三日に一度、ことによると、五日に一度、ようやく獲物にありつけるというようなことが、もうずいぶん長く、続いていたからである。
 以前には、この谷間には、かなりのワシが住んでいた。が、この二、三年の間に、そのワシたちは、谷間から姿を消してしまった。
 獲物を求めて、もっと奥に入ったのか。それとも飢えて死んでいったのかも知れない。
 この谷間に残っているワシは、空の高みで輪を描いている、二羽のワシだけになってしまった。
 しかし、このワシも、もっともっと、獲物の無い日が続けば、奥地に入り込んでいくか、あるいは飢えて死んでしまうより他に道は無かった。

                    ☆

 谷間から、急に獲物の姿を隠したのは、よそから滅多に人のやって来ることの無かった、この奥まった谷が、にわかに開けたからである。
 トラックの通う大きな林道が出来、林や森の木が、どんどん伐り出されて、けだもの達の住む場所が、人間の手によって、奪われてしまったからである。
 それにもう一つ。
 猟の好きな人間が増えて、遠くの町から自動車でやって来て、手当たり次第に獲物目がけては撃ちまくるのであった。谷の人々は、
「けだものの数より、鉄砲撃ちの数の方が多い」
 と嘆くほど、猟好きの人間たちが谷にやって来るのであった。
 こういう訳で、谷のけだもの達も、目に見えて数が減っていった。
 残ったけだもの達は、狩人に追われている内に、すっかり利口になった。キツネやウサギは辺りがとっぷりと暮れてから餌場に出かけ、夜の明けぬうちに林の奥深くに潜んでしまうし、山鳥は足場の悪い茂みの中で、こっそりと餌を食べるのであった。
 こんなわけで、二羽のワシは、なかなか獲物を見つけることが出来なかったのである。二羽のワシには、奥地に移り住まなければいけない時が迫っていた。お腹を空かしたワシ達は、すっかり疲れてしまった。大きな林に舞い降りて、もみの木の枝で一休みする事にした。
 と、遠くで犬の鳴き声を聞いた。
 二羽のワシは、その声を聞くと、羽に力を入れて、いつでもトビ立てる準備をして、辺りを伺った。
 ワシは、犬の泣き声も、人間も、たいへん嫌いであった。犬と一緒に来る人間は、パッを火を吐いて、大きな音を立てる棒を持っていた。
 あの火を吐く棒のために、山の者たちが、もがきながら命を落とすのを何回見た事か。
 犬の声が近づいてきたら飛び立とうと、身構えたのだった。と、犬の声に追われるように、彼方から野兎が、一目散にかけて来た。
 腹を空かしている目の前に、突然ご馳走が飛び出してきたのである。
 一瞬、ワシは人間の恐ろしさも忘れてしまった。
 一羽がモミの木からさっと襲い掛かったとみるかに、ウサギは鋭い爪で一掴み、空高く奪い去られてしまった。
 ウサギを三本の松の木の住処に運ぶと、二羽のワシは、ガツガツと食べた。ほんとに、久しぶりのご馳走であった。
 この時から、二羽は古い時代からの、空の高みで輪を描きながら獲物を捜す、というやり方を捨てて、森の中に潜んでいて、犬の追い出す獲物をさらうというやり方を選んだのであった。
 崖の松の木のてっぺんに止まって、じっと谷を睨みつけるのである。
 犬を連れた狩人が、彼方の森に姿を消すと、さあっと森をめがけて一直線に飛び、茂みの中に、身体を隠す。そして、犬の鳴き声を待つ。
 獲物を見つけた犬の鳴き声がするや、さっと先回りをして獲物をさらうのである。
 狩人たちは、何回も何回も二羽のワシに獲物をさらわれた。
 折角追い出した獲物を横取りされるほど、残念な事は無い。
 狩人たちは地団太を踏んで、悔しがった。
 けれど、ウサギは犬に追われると、犬や狩人のはるか先を一目散に走って逃げる。翼に物を言わせ、まんまとウサギを横取りするのである。
 雉や山鳥は、犬に追われると舞い上がる。そこを銃で撃つのだが、そのまま、ばったり落ちず、ずうっと彼方まで飛んで行って、がたっと落ちる。それをワシはさらっていく。
 狩人たちは悔しがるだけで、どうにもならなかった。
 ワシを亡き者にするよりほかに、方法が無い。
 狩人たちは、この二羽のワシを討ち取る事を考えたのである。

                    ☆

 その夜は、一晩中雪が降って、明け方やんだ。
 二羽のワシの羽にも、雪がうっすらと付いていた。
 二羽のワシは、バシッと羽ばたいた。
 松の枝からも、羽からも、雪の粉が飛び散った。
 雪の降りやんだ空は、からりと晴れて、朝焼けが空を赤く赤く染めていた。
 森を、林を、原っぱを覆っている雪にも、朝焼けが映えて、燃えるように輝いていた。
 その雪の上で、バタバタ、バタバタと、動いているものがあった。
 それは、二羽のワシが松の枝から見下ろしている、遥か彼方の原っぱでの出来事であったが、遠くの物もよく見えるワシの目には、はっきりとわかった。
 雪の上でバタついているのは、ニワトリであった。
 同じ所で、そのニワトリは、バタバタと動いているだけであった。
「こいつ! おかしなニワトリだぞ。用心した方がいいぞ!」
 と言うように、二羽のワシは首を傾げて、じっと見つめていた。
 狩人の獲物を横取りすると言っても、毎日やった訳ではなかった。狩人が犬をけしかけても、獲物が飛び出さぬことがあった。狩人の来ぬ日もあった。
 だから、やっぱりワシは、いつもペコペコに腹を空かしていた。
 二羽のワシは、今までに、ニワトリを何度か襲ったことがあった。
 ニワトリは、肉が良くついていて、しかも柔らかだった。あの味の事を考えると、もう、我慢が出来なかった。
 ギチ、ギチ、ギチ。
 力強い羽音で、空に舞い上がった。
 それから、一直線にニワトリ目がけて襲い掛かって行った。
 一羽がニワトリを、ぐいと雪の上に押さえつけて、あの鋭い爪を背中から胸にかけて、ぐいと打ち込んだ。
 こうしてニワトリをつかんで、舞い上がろうとした時、
 ダダ、ダダーン!
 突然、大きな音が響き渡った。
 このニワトリは、狩人たちの囮のニワトリだった。
 狩人たちは、夜の間に大地に打ち込んだ杭に、ニワトリを紐でくくっておいたのだ。
 そして、そこから三十メートルほど離れた林のふちに、カヤで小さな小屋を作って、二人の狩人が潜んでいたのである。小屋は雪に覆われていた。
 ニワトリに襲い掛かったワシを討ち取ろうと、潜んでいたのである。
 あの大きな音は、ニワトリに襲い掛かったワシをめがけて、小屋の中から撃った鉄砲の音であった。  一羽のワシは、鉄砲の音と共にいきなり舞い上がったが、十メートルも飛ばぬうちに、がくんと力が抜けて、真っ逆さまに落ちて来た。そして、頭を雪の中に突っ込むと、そのまま動かなくなってしまった。
 もう一羽のワシは、飛び上がろうと羽をばたつかせたが、雪の上をくるくる回るだけであった。
 片一方の羽に弾を受けて、付け根から折れてしまったのだ。
 大きなワシであった。
 二枚の羽を広げたら、三メートル以上もあると思われるワシであった。
 二人の狩人は、銃を構えてワシに近づいて行った。
 ワシは、バタつくことをやめてしゃんと立つと、傷つかぬ方の羽をさっと広げ、頭と嘴を前に、ぐいと突き出した。
 狩人に向かって襲い掛かろうとするのである。
 二人は思わずたじろいだ。金色の目を、爛々とさせて、狩人を睨みつけるのである。
 傷つきながらも、悪びれもせず、狩人に立ち向かおうとしているのである。
 雪の中で、狩人と傷ついたワシとは、しばらくの間睨み合っていた。
 と、一人の狩人が、ため息交じりに言った。
「こいつ、やっぱり大したワシじゃのう」
「ワシの王様みたいな奴じゃ」
「撃ち殺してしまうのは惜しいのう」
 そして、二人は顔を見合わせて頷くと、バタバタと林の中に駆け込んで、腕の太さほどもあるクヌギを切って来た。
 その枝付きのクヌギの木で、口を開けてシャー、シャーと怒り声を出すワシを押さえつけた。
 そして、藤づるを裂いて、ワシの嘴を縛り、両足を結わえ、羽を結わえて、生け捕りにしてしまった。

                    ☆

 生き残ったワシは、骨を砕かれた方の羽に添え木を付けられ、檻の中に入れられていた。
 このワシは、あの谷の崖にもう三十年以上、巣をかけていたワシであった。随分長い間、この谷では、一番大きなワシだと思われていた。
 まだこの谷が、けだものの宝庫と言われた頃には、朝に夕に、谷の上で輪をかいた。羽一つ動かさず、空一杯に輪を書いて飛び、獲物を見つけると、矢よりも速く地上の者に襲い掛かるのを、よく見かけた者であった。
 狩人の獲物を横取りせぬ間は、この大ワシの飛ぶ姿や、獲物に襲い掛かる、あの電光のような素早さは、谷の名物でもあり、誇りでもあったのだ。
 谷の人は、町の人々が尋ねてきたりすると、このワシの事を自慢して話すのであった。このワシは、谷の人々には馴染み深いワシであった。
 飢えて、傷ついたワシが、ひるむことも無く立ち向かおうとする、盛んな意地を見て、二人の狩人は、かつてのこのワシの姿を思い浮かべたのであろうか。そして、また、このワシの身の上に哀れを感じたのであろうか。
 生き残ったワシの命を助けて、檻の中で飼うことにしたのであった。
 けれど、空の王者は人間に懐かなかった。人間が近づくと、片羽を広げて襲い掛かり、身体ごと檻の鉄格子にぶつかるのであった。
 ニワトリの肉やウサギの肉を檻の中に入れてやっても、見向こうともしなかった。
 そんな日が、何日か続いた。
 ある日、ウサギの肉を、檻の中に入れてやると、強情を張っていたワシは、その新しい肉を嘴に咥えた。
「さすがのワシも、飢えには敵わないな」
 と、居合わせた人は顔を見合わせてにっこりとした。
 が、ワシはその咥えた肉を、鉄格子目がけて投げつけるのである。
 その内に、腹が空いて我慢できなくなれば食べるようになろうと、根気よく檻の中に、毎日新しい肉を入れてやるのだが、やっぱり食べようとしない。
 こうして二十日も過ぎてしまった。
 ワシはいつも、檻の真ん中にしゃんと立って、空を見上げているのであった。自由に駆け回った空を見つめているのであった。
 けれど、長い間何も食べないので、すっかり弱り切っているようであった。人間が近づくと、襲い掛かろうとして、傷付かない方の羽をさっと広げるのだが、その度によろけて、尻餅をついてしまうのであった。
 二十五日目の朝であった。
 いかに強情でも、もう、ぼつぼつ餌付くかもしれないと、狩人が新しい肉を持って行くと、ワシは檻の鉄格子にガッと噛みついていた。
 朝日がらんらんと開いたワシの目に映えて、金色に光っていた。その目は、ぎらぎらして、激しい怒りを含んでいるように見えた。
 恐る恐る近づいて行っても、ワシは動こうともしない。
 近づいてよく見ると、ワシはにらみつけるように大きく目を見開いて、鉄格子にガッと噛みついたまま、冷たくなっているのであった。



おしまい


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