大洪水と乙女鳥


                    ☆

 昔々、この地上に人間が住むようになって間もなくの事でした。
 南の方のある国に、大洪水が起こりました。突然起こったその恐ろしい出来事は、天上の神のいたずら……と言うより、人間たちの暮らしぶりに怒り出した神が、懲らしめのために起こしたものでした。
 と言うのは、そのころの地上では、木と言う木には美味しい果物が実っていました。草花からは、甘い蜜がしたたり落ちていました。川には、色々な魚がいっぱいいました。ですから、人々は食べ物や着物には、少しも困ることがありませんでした。
 そんな暮らしが長く続いている内に、人間の数はだんだん増えてきました。そして、当然、食べ物や着る物も少なくなってきました。
 けれども、長い間、のんきに暮らしてきた人々です。すっかり怠け癖がついてしまって、暮らしに必要なものが少なくなっても、自分の力で作り出そうと考える人などいませんでした。
 そんな事から、その後に起こって来たのは、食べ物や着る物をめぐって争いあう、人間たちの醜い姿だったのです。
 それを天上から見ていた神々は、すっかり怒り出しました。
「この頃の人間どもには呆れてしまった。自分さえ良ければと、あのように醜い争いを続けている。このままでは、地上は恐ろしい所になってしまう。懲らしめのために、大洪水を起こして、あの人間どもを残らず滅ぼしてしまおう。そして、その後に、真面目な心の美しい人間を住まわせることにしよう」
 と、神々の大王が言うと、
「でも大王様。中には、真面目な心の者も、幾人かいると思いますが……」
 と、一人の神が言いました。
「それは、いるかもしれない。だが、そういう心の人は、たとえ大洪水になっても、自分の力で助かるような工夫をすることだろう」
「なるほど……」
 という事で、そのあくる日から、地上には激しい雨が、幾日も幾日も続きました。川も湖も見る見る氾濫して、一面の海に変わり、高い山でさえずんずん水の中に沈んでいきました。もちろん人間たちは、次々におぼれ死んでいきました。
 そんな中で、ただ一つ、フアカクァンという山の頂だけが水の上に浮かんでいました。そして、その山の頂に逃げ登った二人の若者――兄と弟だけが、やっと生き残りました。


 幾日かすると、あれほどの水もだんだん引いていき、久しぶりに土が現れました。でも、なんという変わりようでしょう。
 どこもかしこも泥でおおわれ、その中に、人間や動物の死骸がごろごろ埋まっていました。
 そんな地上に生き残っているのは、自分たち二人だけだと思うと、兄弟は、すっかり心細くなりました。
 けれども二人は、互いに励ましあい、食べ物を探し、谷間に小さな家も建てました。家が出来ると、木や草を枯れさせないようにと、泥をはねのける仕事を始めました。
 ある日の事、二人が仕事から帰ると、不思議にも、家の中に、食べ物や飲み物の用意がすっかり出来ていました。
「ね、兄さん。これは一体どうした事だろう。すっかり食事の支度が出来ているなんて?」
「私にも、何が何だか分からない。私たちの他に、誰かが生きていて、作ってくれたのだろうが……」
 ともかく、腹の空いている二人は、それを食べる事にしました。
 さて、そのあくる日。二人が仕事から帰ってみると、やっぱり食事の用意が出来ていました。いや、その次の日も、また次の日も同じように……。そうしたことが、十日も続きました。
 兄弟は、つくづく不思議でたまりません。
「ね、兄さん。今日は、兄さんだけが仕事に出かけて下さい。私はここに隠れていて、誰が食事の支度をしてくれるのか、見届ける事にします」
「うーん、では、そうするか」
 そこで、兄が出かけた後、弟は家の後ろに隠れて、じっと様子をうかがっていました。
 と、夕方になって、二羽の大きな鳥が、空から舞い降りてきました。そして、開けてある戸口から、家の中に入り込みました。
(――はてな。あれは、アクァという鳥と、クァカマヨという鳥だが……。それにしても、あの鳥たちがどうして……)
 弟は、窓の隙間から、中の様子を伺いました。すると、家に入った二羽の鳥は、羽を一杯広げてばたっとやると、途端にその姿が人間に変わったのです。
 しかも、自分たちと同じ膚色の、美しい乙女の姿です。――それから二羽の……いや、二人の乙女は、せっせと食事の支度を始めました。


(そうか。この二人だったのか! よし、それじゃ……)
 弟は足音を忍ばせて戸口に近づくと、いきなり戸を閉めてしまいました。
 しかし、その途端に、戸口の側にいた一人の乙女は、ぱっと鳥の姿に変わって、外へ飛び出していしまいました。
 残ったのは、小さい方のクァカマヨ鳥の乙女だけです。
 弟は、まごまごしている乙女の側に行きました。
「あんた達でしたか。いつも食事の支度をしてくれて、有難う!」
 しかし、乙女の方は、その言葉も耳には入らないように、
「お願いです。早くここから帰して下さい。お願いです!」
 と、悲しそうに頼むだけでした。
「いえ、そんな事を言わずに、どうか、いつまでもここにいて下さい。お願いです……」
 弟の方でもそう頼みながら、逃げ出せないように紐を持ち出して、乙女の足を縛ろうとしました。
 と、ちょうどその時、兄が返ってきました。
「えっ、これは一体……」
 兄は目を丸くして、弟と乙女を見比べました。
「実は、兄さん……」
 弟は、今までの事をかいつまんで兄に話しました。
「そうだったのか……。それで、お前は、その紐でこの人を縛ろうというのか」
「そうです。でないと、この人は逃げてしまうから……」
 途端に、兄は顔色を変えました。
「お前はなんという事をするのだ。親切にしてくれた恩のある人を縛ろうとするなんて……。どうか、弟の無礼をお許しください。――長い間、有難う御座いました。さ、どうぞお帰り下さい」
 兄は丁寧にお礼を言いながら、戸を開けました。
「そうでした。やっぱり、私の方が間違っていました。お許しください」
 弟も、自分の間違っていたことに気が付いて、素直に謝りました。
 乙女はほっとしたような顔で、外に出ていきました。
 それから十日ほどたった夕方でした。兄弟が仕事から帰ってくると、家の中には、あの時と同じように食事の支度が出来ていました。しかも、その食事の側に、あの時の二人の乙女が静かに座っていました。帰ってきた二人を見ても、逃げようとはしません。
「あの時は、無礼な事をしました。それにも懲りずに、またおいで下さって、有難う御座います」
 兄が、丁寧にお礼を言いました。
「あの時は、本当にすみませんでした。もうあのような事はしませんから、お許しください」
 弟も謝りました。
 と、大きいアクァ鳥の乙女の方が、にこりと笑って、
「いえ、私たちは、天上の大王様のお言いつけで、この地上に参ったのです。これからは、いつまでもここに置いて頂いて、ご一緒に暮らすようにと言いつかってまいりました。どうぞ、これからは、宜しくお願い致します」
 小さい方のクァカマヨ鳥の乙女の方も、丁寧に頭を下げました。
 それから幾日か経って、二人の乙女は、それぞれ兄と弟のお嫁さんになりました。二組の夫婦は、力を合わせて土を耕したり、天から持ってきた種をまいたりして、せっせと働きました。
 やがて兄夫婦には六人の男の子が、弟夫婦には六人の女の子が生まれました。
 それが、今のペルーの国のカナリ族の先祖です。
 ですからカナリ族は、いまでもお祭りの時は、必ずアクァ鳥とクァカマヨ鳥の羽を、神様に供えるのです。



おしまい


戻る