織田信長


                    ☆

 かがり火が空を赤く染めている。薪の燃える音がパチパチと凄まじい。永禄三年(一五六〇年)五月十八日。夏が近い。それに、城兵は全て合戦に備えて武具に身を固めている。よけい暑い。全身、汗にまみれている。
 しかし城兵たちは、かがり火の薪が半分も燃えない内に、次々と新しい薪を投げ込んだ。不安で落ち着いていられないのである。
(この非常の時に、信長公は一体何を考えておられるのか?)
 城兵の誰もがそう思っている。城壁の陰や、一の丸、二の丸櫓の陰に、思い思いにたたずみながらも、城兵の心は全て本丸の天守閣に向かっていた。天守の中に、ここ清州城のあるじ織田信長がいるからである。
 八日前の五月十日、駿河国(静岡県)から忍びの者がこんな報告をしてきた。
「今川義元の先兵、府中(今の静岡市)を出発」
 次いで、さらに別な忍びの者の報告が来た。
「今川本軍、府中を出発。東海道を西へ向かう。その数およそ四万」
 これを聞いた清州城内は動揺した。東海道を西へ向かうということは、その行く先は聞くまでもなかった。
「今川義元は京都へ向かうのだ。いよいよ天下を取る気だ。織田軍は、せいぜい四、五千、一挙に押しつぶされるだろう」
 清州城内は誰もがそう思った。
「籠城か、攻撃か」
 と、天守の大広間では、たちまち重臣たちによる軍議が開かれた。軍議は毎日、朝から晩まで、そして晩から朝まで夜を徹して行われている。しかし、軍議が決まったという情報は一向に流れて来ない。わずかに流れてくる情報によると、大将の信長が会議の間中、鼻くそをほじったり、寝そべったりして、何も決めないのだという。
 たまりかねた武将・林通勝(はやし・みちかつ)や柴田勝家が、
「御大将、少しは真面目に会議にお加わりください」
 と大声で言うと、信長は、
「はいよ」
 と起き上がるが、またすぐにごろりと横になってしまうのだそうである。元々信長が嫌いで、信長の弟信行に織田家を相続させたかった柴田は、
「また、信長公の大“うつけ”が始まったな」
 と思っている。“うつけ”というのは馬鹿とか阿呆とかいう意味である。だから柴田は、こういう馬鹿大将に生命を預ける家臣は不幸だ、きっと今川軍に皆殺しにされてしまう、と腹を立てていた。
 ほとんど毎日のように馬で走り込んでくる密使は、今川本軍の進撃ぶりを伝えた。五月十二日藤枝に到着、十三日掛川着、十四日浜松着、十五日吉田着、十六日岡崎着、そして今日十八日には、
「ついに沓掛(くつかけ)着。明日は織田方の出城・丸根砦と鷲津砦を攻撃する気配濃厚なり」
 という飛報(注:急ぎの報せ)が入っていた。じりじりと日を追って織田領に迫ってくる今川軍は、いよいよ戦いの火ぶたを切ろうとしているのだ。丸根、鷲津の両砦を守る兵は共にせいぜい四百。百倍の今川軍に攻められたのではひとたまりもあったものではない。それに、丸根砦を攻撃するのは、今川軍でも名将の噂の高い松平元康(後の徳川家康)だという。元康は今川義元の人質だったが、手違いで織田方に奪われ、信長の父信秀の人質になっていた事があった。織田方は、
「元康が復讐に来る」
 と囁きあった。
 こういう状況の中にあって、織田軍の総大将信長は全く慌てない。慌てないどころでなく、何もしない。次々と入ってくる報告にも、
「へえ、そうかね」
 というような返事をするだけである。柴田勝家が、
(このバカ大将め、また昔の阿呆にお戻りなさったか)
 と心配するのも無理はない。この状態が続けば、丸根・鷲津の砦は明日にも落ち、勝ちに乗じた今川本軍は怒涛のようにこの清州を押しつぶし、そのまま京都に進んでしまうことは明らかだった。今、今川軍の京都進撃を妨げるのは、織田信長以外にはいなかった。今川軍は全力を挙げて信長を攻撃するつもりでいる。わずか四、五千の織田軍に四万という十倍もの軍勢を動員したのも、
「今度こそは、信長の息の根を止める」
 という今川義元の決意をはっきり表すものであった。
 しかし、今、相次ぐ緊迫した報告を次々に聞きながら、織田信長は本当に柴田や城兵たちの思うように、ただ、なすすべもなく寝転んだり、鼻くそをほじったりしていたのであろうか。
 重臣たちの軍議を聞きながら、実は信長は心の中で迷いに迷っていたのである。
「城兵およそ五千、どう頑張っても今川軍には勝てそうもない。この上は、幾日籠城できるか、籠城の日を一日でも伸ばして尾張武士の名を辱めない事だ」
 重臣たちの意見は、大体このように決まっていた。信長には不満だった。
「はじめから負ける気でいる」
 そう思えるのである。どう頑張ったところで十倍の敵にはかなわない。だから攻撃を受けた清州城が陥落する日を一日でも伸ばせば、それが織田軍のせめてもの面目だと思っている。
(馬鹿馬鹿しい)
 信長は反対だ。何故攻める事を考えずに守る事ばかり考えているのか。十倍の敵がなんだ、と信長は思う。しかし、だからと言って信長にも、この方法なら勝てるといういい作戦があるわけではない。ある位ならとっくに実行している。ただ、籠城一本槍の重臣たちの作戦には反対だ。だから、ごろ寝をしたり鼻くそをほじったりしている。寝ながら考えているのだ。それも必死の思いで。柴田や林に言われなくても、織田家と清州城は、まさに今生きるか死ぬかの瀬戸際にいるのだ。
 廊下に高い足音を立てて、また一人の密使が飛びこんできた。
「申し上げます! ただいま丸根砦陥落!」
 悲痛な声でそう告げた。途端、寝そべっていた信長ががばっと起き上がった。
「御大将」
 と、柴田や林をはじめ、重臣全員が目を光らせて信長を見めた。しかし、信長は静かに言った。
「鼓を持ってこい。オレは気晴らしに舞を舞う」
 重臣たちは呆れかえって顔を見合わせた。その席へ、またも急使が走り寄って告げた。
「鷲津砦、陥落! 無念です……」
 と、最後は泣き声だった。

                    ☆

?人間五十年 下天のうちをくらぶれば
?ゆめ幻のごとくなり
?ひとたび 生を受け 滅ぼせぬもののあるべきか

 小姓に鼓を打たせながら、信長は朗々と声を上げ、舞っていた。「敦盛」という幸若舞で、信長が特に好きなものだった。しかし、柴田や林たち重臣にしてみれば、こんな時にのんきに舞っている信長には、もう絶望以外の何物も感じなかった。織田方の出城である丸根・鷲津の両砦を難なく踏みつぶし、明日は今川全軍がこの清州城に襲い掛かってくるというのに、この馬鹿大将は、一体何を考えているのだろうか、と情けなくなるのである。
「大うつけだ……」
 柴田勝家は肩を落としてそうつぶやいた。柴田だけでなく大広間に集まっている武将たちの頭の中には、それぞれ信長の少年時代の姿が浮かんでいた。それは全て信長の“大うつけ”ぶりを示すものであり、重臣たちが忘れようとしても忘れられるものではなかった。
 子供の頃、信長はよく一人で名古屋の町に遊びに出た。ところがその服装が酷く変わっていた。女の着物を着て、片方の袖から腕を出し、袖をだらりと下げているのである。しかも、腰の周りには何のつもりか、ひょうたんを五つも六つもぶら下げていた。異様としか言いようのない格好なのである。その格好で、しかも歩きながら餅や柿を食う。通行人はみんな信長を見る。信長はにやにや笑い返し、時にぱっと男の背中に飛びついておんぶする。通行人は悪戯をされるので、信長の姿を見るとキャアキャア声を上げて逃げるようになってしまった。だから、人々は信長の事を、
「大うつけ」
 とか、
「あれで大名の息子か」
 などと悪口を言ったものである。
 その“大うつけ者”信長が、もっとも人々を呆れかえらせた事件があった。父織田信秀が死んで、その葬式の時の事である。
 葬式は信秀が建てた万松時で行われた。葬式には僧だけでも三百人集まってお経をあげたというから、大変に盛大な式だったのだろう。信長の弟信行は、きちんとした服装をして、決められた時間に席についていたが、喪主である信長が一向に現れない。僧の読経がすんで焼香が始まった。信長をとばしてどんどん列席者が焼香を済ます。このままだと葬式は終わってしまう。信行には柴田勝家や林通勝などの重臣が付いているが、大“うつけ”の信長にはほとんど家臣がいない。わずかに平手政秀(ひらて・まさひで)という老臣が、いつも信長を庇っていた。
「信長殿はまだか」
「大うつけめ、父の葬式の時も遊び歩いているのだろう」
 そんなささやきが平手の耳に入る。針を刺されるように痛い。
(若殿、早くおいでください)
 平手は心の中で必死に祈り続けた。焼香も終わり、僧たちが一斉に最後の経をあげようとした時、庭の方でざわめきが起こった。信長が来たのである。しかし、相変わらず女の着物を着て片袖を垂らし、腰の周りにはひょうたんをいくつもぶら下げている。幾日も洗わない髪はわらで結び、まるで乞食だ。その格好で、信長はずかずかと土足のまま、本堂に上がってくると、祭壇の前の香をつかみ、いきなり信秀の位牌に投げつけた。お辞儀も何もしない。立ったままである。余りの事に、列席者は茫然として声も出ない。僧たちは、
「悪魔だ」
「鬼だ」
 と囁きあった。そんな中を信長は平然と歩き、再び庭からどこかに行ってしまった。
「父の位牌に香を投げつけた男」
 として、信長の“大うつけ”ぶりは完全に尾張国の評判になってしまった。
 尾張だけではない。隣の美濃国(岐阜県)を収める斎藤道三にも聞こえたし、駿河国(静岡県)の今川義元にも知れた。
「織田の跡継ぎは大馬鹿者だ」
 という噂はいっせいに広まった。
 その頃の信長の姿を、今、柴田勝家や林通勝は思い浮かべている。明日は今川義元に滅ぼされるという前夜、人間五十年などとのんきに舞っているこの阿呆男は、やはりあの頃の大うつけと何の変りもない、と思うのである。
 その大うつけ織田信長は、「敦盛」の最後、
?滅ぼせぬもののあるべきや
 という所をもう一度繰り返すと、突然、持っていた扇子を放り出し、
「武具を持て!」
 と鋭い声で命じた。続いて、
「馬を引けっ!」
 と怒鳴る。驚く重臣たちをしり目に、手早く武具をつけ終わった信長は、
「出陣する!」
 と、いきなり大広間を走り出した。外に繋がれていた馬に飛び乗ると、はやる馬を巧みに乗りこなしながら、
「大軍を前に城に籠って勝ったためし無し。オレは城を討って出る。無理にとは言わぬ。オレと共に戦う者はついて来いっ!」
 と大声で告げた。そして、
「門を開けろ! 門を開けい!」
 と、馬上から怒鳴りながら、まっしぐらに城門目指して走りだした。どこへ行くとも言わない。柴田はじめ武将たちは呆気に取られている。信長の旗本が数騎、馬をとばして後を追う。戦いの支度の出来ていた雑兵たちがばらばらと走り出した。信長の勢いに引きずり出されたのだ。
「四万の大軍に討って出るとは! ええい、明日は討ち死にだわい!」
 柴田勝家はやけくそな声をあげた。しかし、そうは言っても戦国に生きる武将である。清州城内にはわずかの守備兵を残して、間もなく全軍城門から走り出した。永禄三年(一五六〇年)五月十九日午前二時頃の事である。

                    ☆

 闇の中を、信長は疾走していた。彼方にカッカッと馬の蹄の音が続いている。何騎従っているのか分からない。突然の出陣である。恐らく重臣たちはまごまごしている事であろう。信長にしても、今ははっきりした事を決めているわけではなかった。討って出るという決断をしたまでである。籠城が嫌だっただけだ。討って出たからには、敵のいる方へ行く。今川本軍のいる方角へ闇雲に走るだけだ。四万の大軍に激突して果たして勝てるのか、そんな事は分からない。信長は自分を信じていた。
(この世には、神も仏も存在しない)
 というのが、信長の考えだ。神だの仏だの、そういう偶像を崇拝することが、信長は大嫌いだった。
「領内の農民が地蔵をしきりに拝んでいる」
 と聞いた事があった。信長はすぐ尾張国じゅうの地蔵の首をみんな叩き落してしまった。「人間五十年……」という幸若舞が好きなのも、そういう考えからである。
「人間は生きている間だけだ。死後には何も無い」
 だから、死後を支配する神だの仏だのがある訳が無い、また、あってたまるものか、とうのが信長の思想だ。
 いま、まっしぐらに馬を飛ばしながら、信長は、神も仏も頼まない。この状況を切り開き、織田信長の運命を決めるのは、この信長自身だと思っている。しかし、どこにそのきっかけを求めたらいいのか。
 熱田に着いた。従う将兵は二百騎になっていた。しかし敵は二百倍。
「続けっ!」
 大声で叫ぶと信長は再び走り出す。この頃から追いつく将兵はどんどん増える。前方に黒い煙が二本上がっている。丸根と鷲津の方角だ。陥落した二つの砦が今川軍によって焼き払われたのだろう。
「くそっ」
 いつの間にか信長の周りに、馬を進めた旗本たちが悔しそうな声をあげる。信長は構わずに疾走し続ける。道の要所要所でいくつかの織田方の砦の前を通り過ぎた。信長はそのたびに馬を停めて、怒鳴った。
「もはや守る必要はない。今川義元の首を取る。砦を捨ててオレに続け!」
 砦内の兵はたちまち合流する。大河が細い川を合流するように兵力は増した。善照寺砦まで来た時、従う将兵は三千に達していた、信長は、これを、
「わが軍はすでに五千なるぞ!」
 と、発表した。この時、忍者を使う事にかけては織田家の中でも最もうまい梁田政綱(やなだ・まさつな)という武将が、信長の馬の横に来て告げた。
「今川義元は、どういうわけか、いま桶狭間で休んでおります」
「なに?」
 東海道を進撃しているとばかり思っていた今川義元が、いつの間にかわき道に入っているという。桶狭間は並行して走る東海道と鎌倉街道との間にある小さな窪地である。裏手に太子ヶ岳という丘がある。しかし何のために義元はそんな窪地へ兵を進めたのだ。
(昼飯を食うためだ!)
 突然、信長の頭にそんな考えが閃いた。もしそうだとすれば全軍が油断している。丸根・鷲津の砦を落としたので、祝い酒を飲んでいるかもしれない。信長の胸は躍った。
(勝てるかも知れないぞ)
 と思ったのである。
「よし」
 信長はうなずいた。
「桶狭間を急襲する!」
 脇にいた重臣たちに言った。ようやく追いついて、まだ苦しい呼吸をしている柴田勝家、林通勝たちは、
「そんな無茶な! 皆殺しになります!」
 と、またまた反対した。この二人は、信長をバカ大将だと思っているからなんにでも反対する。しかし信長は聞かなかった。
「全軍に告ぐ! お前たちの命を俺に預けよ。続け!」
 と、ピシッと馬の尻に激しい鞭を当てた。凄まじい地響きを立てながら、織田軍はまっしぐらに桶狭間目指して殺到した。五月十九日午前十時ごろの事である。
 桶狭間に着くと、信長は全軍に、馬も旗指物も、音のする武具を一切捨てさせ、刀と槍だけを持たせて太子ヶ岳に登った。忍びの者に麓の様子を探らせると、下はいま飲めや食えやの大騒ぎだという。思った通り、戦勝に酔っての昼飯時だったのである。
「思うつぼだ」
 にやりと笑う信長の顔に、ぽつんと冷たい雫が当たった。雨である。空を見上げると真っ黒な雲が渦を巻いて流れ回っている。冷たい雫はたちまち激しい雨になり、これに強い風が加わった。嵐になったのだ。桶狭間にいた今川軍は、雨を避けて陣を乱し、思い思いに木の下に逃げ込み始めた。
(今だ!)
 信長はにっこり笑った。腰の刀を引き抜いて号令した。
「全軍聞け! この一戦に信長は命を懸ける。汝らも力を尽くして戦え。恩賞は思いの通り与える。ただし、目指すは今川義元の首なるぞ!」
 言い終わると、真っ先に丘の斜面を走り出した。信長軍は海なりのような声をあげて麓の桶狭間に殺到した。雨上がりのぬかるみを走るのである。隊伍整然というわけにはいかない。足を滑らし転がる者もいる。後から走る者はそれに引っかかる。泥まみれの将兵は転がりながら今川軍に切り込んだ。不意を突かれた今川軍は、陣を立て直す余裕はなく、滅茶苦茶に斬られた。そして、大将の今川義元も信長の家臣毛利新助(もうり・しんすけ)と服部小平太(はっとり・こへいた)の二人に殺された。
 桶狭間の奇襲の成功は、信長の決断にあった。しかし、その決断を助けたのは多くの忍者による正確な情報である。戦いが終わった後、信長が最も高い恩賞を与えたのは、忍者をうまく使った梁田政綱であった。この事にも柴田たちは不満を漏らしたが、信長は聞かなかった。そして柴田たちもそれに従わない訳にはいかなかった。何故なら、東海の雄将今川義元を倒した織田信長は、もう“大うつけ”ではなかったからである。信長は義元に替わって、京都に進撃し、日本全国に号令する資格を持ったのである。
 そして、信長は天下への道を進み始めた。信長が義元の次に倒す相手は、美濃国(岐阜県)の斎藤義竜(さいとう・よしたつ)・竜興父子であった。

                    ☆

 斎藤義竜の父は斎藤秀竜(さいとう・ひでたつ)である。秀竜というより、「道三」という名の方が通っている。“美濃のまむし”と呼ばれた男である。寺の小僧から油商人になり、巧みな策略で美濃国の大名にのし上がったのが、この道三であった。
 その“美濃のまむし”斎藤道三の娘を信長は妻にしていた。父の信秀がその頃今川義元と戦うために、後ろから道三に攻められては挟み撃ちになるので、息子の嫁に道三の娘を貰って同盟していたのだ。政略結婚である。
 その斎藤道三を、長男の義竜が殺した。今川義元を倒した後、信長は、その義竜を攻める事を決めた。
「妻の父の敵を討つ」
 という名目である。もちろん、敵討ちなどどうでもいいので、本心は美濃を征服し、京都へ進む道を切り開きたいのだ。とにかく京都へ入るのには、美濃国を突破しなければどうにもならない。
 義元を殺した翌年の永禄四年(一五六一年)から、信長はしばしば美濃国に攻め込んだ。しかし美濃国には「飛山濃水」という言い伝えがあるように、飛騨に高い山が連なり、濃尾平野には木曽川・長良川・揖斐川の三本の大きな川が流れている。そしてこの三つの川が、少しでも雨が降るとすぐ氾濫した。平野一帯が水浸しになって、非常に攻めにくい。天然の堀になってしまうのである。斎藤軍よりも、この“暴れ川”に妨げられて信長は攻め込むたびに苦戦した。一度など、全軍を退却させながら、信長は退却軍の一番後ろに着き、川に船を浮かべて鉄砲を撃ち続け、追跡してくる斎藤軍を防いだこともある。その時、信長は、
(この川を何とかしない限り、美濃は取れぬ)
 と、つくづく思った。川に勝つとは、これらの川の合流点に堅固な城を築くことだ、信長はそう思った。
 そして、こんな条件の悪い場所に城を作れるのは、
(猿<羽柴秀吉のこと>以外あるまい……)
 と思った。
 信長が川と苦戦している内に斎藤義竜が死んだ。子供の竜興が跡を継いだが、斎藤家の家臣団はよく結束し、義竜の時よりも、もっと頑強に信長に抵抗した。それだけでなく、信長が美濃国の攻撃に手を焼いているのを見た近江(滋賀県)の浅井長政や、越後(新潟県)の上杉謙信、あるいは甲斐(山梨県)の武田信玄、駿河の今川氏真(義元の子)、同じく松平元康(徳川家康)、越前(福井県)の朝倉義景などの有力大名が、そろって京都へ進撃する様子を見せ始めた。それもばらばらに来るのではなく、どうも信長を倒すために、これらの大名が連合する公算が大きかった。まとめて攻めて来られてはいかな信長と言えどもひとたまりもなかった。信長は孤立し、苦境に陥った。かつて今川軍に襲われた時よりも、もっと厳しい状況に立たされたのである。
(美濃攻めを急がねばならぬ)
 信長はそう心を決めた。しかし、無用の戦いは避けた方がいいので、妹のお市を浅井長政の所に嫁にやって同盟し、さらに親類の娘を武田信玄の息子勝頼の嫁に送った。また上杉謙信には息子を養子に送って同盟を結んだ。朝倉とも手を結ぶ。自分を攻めそうな大名と全部同盟してしまったのである。これで他の心配を一切せずに美濃に攻め込める。そうしておいて信長は羽柴秀吉を呼んだ。
「猿、暴れ川の合流点に城を造れ」
「かしこまった。墨俣に造りましょう」
「あっさり言うな。造れるのか?」
「お任せあれ」
 秀吉は、簡単に引き受けてどこかへ行こうとする。信長はそんな秀吉を呼び止めた。
「猿よ、美濃を取ったら、お前にその城をやろう」
「有難し」
 ぴょこんとお辞儀をして、秀吉はぱっといなくなってしまった。
(あの野郎、調子はいいが本当に造れるのかな……)
 信長はちょっと心配になる。しかし、数日後、秀吉がふらりとやって来た。
「御大将、城が出来ました」
「なに……」
 驚く信長を、秀吉は墨俣に案内する。見事な城が出来上がっていた。信長は目を見張った。
「猿、どうやってこの城を造った?」
「秘密ですな。ただ、この国の野盗と忍びの者を、全部動員しました」
 秀吉はそれだけ言った。城を見て信長は自信が湧いた。
(今度こそ美濃国を落とせる)
 その自信を抱いて、信長はすぐさま全軍を率い、美濃国に攻め込んだ。町も村もすべて焼き払い、歯向かう者は女、子供も殺した。神も仏も信じない信長は、こういう面は実に残酷だった。美濃国は陥落した。信長は美濃国の国府井の口の城を没収し、地名を「岐阜」と改めた。そして自分も清州から岐阜城に移った。移ると同時に、信長は岐阜の民に、次のような布告を出した。
・岐阜では商人の取引を自由にする。どこの国の商人でも自由に商売するがよい。
・岐阜では一切の税金を課さない。
・岐阜で喧嘩・口論・押し売りなどをしたら、厳しく罰する。
 商人の取引を自由にしたのは「楽座」とか「楽市」とか呼ばれる。信長は一部の商人が特権的にもうけを独り占めするのを禁止しようとしたのである。岐阜での試みは、だから日本での「都市経営」の一つの実験と言える。そして、この実験は後に安土でもっと大掛かりに試みられる。

                    ☆

 占領した都市を新しく変える試みに、しかし信長はいつまでも没頭している訳にはいかなかった。あれほど硬い同盟を結んでいた近江・越前・越後・甲斐などの大名たちが一斉に蜂起したからである。信長は再び武具をまとい、戦野に馬を飛ばさなければならなくなった。
 それも、天正十年(一五八二年)六月二日の朝早く、家臣の明智光秀に殺されるまで、信長はついに戦陣から身を引くことが出来ないのである。斎藤竜興を破って、美濃国を征服したのが永禄十年(一五六七年)八月十五日の事であったから、その後の十五年間を戦争の中で明け暮れするわけである。
 しかし、この頃から信長は、ただ単に自分に敵対するものと戦う、というのではなく、前将軍の弟足利義昭を担ぎ出している。すなわち義昭を将軍の座につけ、併せて天皇や京都の貴族たちにも接近している。
 信長は、もう単純に国を取ったり取られたりする戦いから、二本を統一するための戦いに自分の戦争の意義を変え始めていたのである。その為には、天皇や将軍の名によって、その命令を受けて有力大名と戦う事の方が有利であった。そういう方法を取れば、信長は明らかに『官軍』であり、これには向かう大名は『賊軍』になってしまうからである。諸国の戦国大名が京都を目指すのは、京都にいる天皇や将軍を奉じて、天下に号令するためなのである。
 それに応仁の乱以来、いつまで経っても収まらない日本国内の戦乱に、多くの人々はすっかり疲れ果てていた。市民や農民はもちろんだが、武士そのものもつかれていた。強力な大名が日本をまとめてくれればいい、と言うのは、もうこの頃に生きている人々すべての願いで合った。そういう『英雄』が出現する事を、暗黙の内に時代そのものが望んでいたのである。
 しかし、そうは言っても、民衆は決して自分達からその英雄が誰であるかを決めようとはしなかった。英雄は自分自身で英雄にならなければならなかった。そしてこの時代、英雄になるという事は、やはり武力以外に無かった。他に抜きんでて『強く』なければならなかったのである。民衆にとって、『弱い英雄』などというものは存在しなかったのである。天下を統一し、日本に号令するためには、まず、何と言っても日本中の大名を屈服させる強い武力を示すことが必要であった。織田信長もその例外ではなかったのである。
 永禄十一年(一五六八年)、足利義昭を担ぎ出した信長は、近江を討ち、ついに京都に入った。音に聞く『大うつけ・無法者』の信長の入京に、京都に市民は、
「何をされるか分からない」
 と、昼間から戸を閉めて恐れおののいた。しかし、信長の軍規は厳しかった。民家の物を盗んだり、女に悪い事をしたりする兵は、即座に人の集まる辻で切った。
「織田信長の軍は市民をいじめない」
 と言う事をはっきり示すためである。京都市民は、少しずつ信長に対する警戒心を解いた。しかし、強引に京都に入ったため、近畿地方の大名、豪族をはじめ、比叡山の僧兵、さらに伊勢長島(三重県)の一向宗徒までいっせいに信長に反発した。また、「商人の自由」を主張する堺市の市民も、自分達で堀を掘ったり、浪人隊を雇ったりして信長に敵対した。
 しかし信長は負けておらず、永禄十一年中に、三好・松永などの豪族を討ち、三好たちが将軍にしていた足利義栄を摂津(大阪府)に追い払った。
 年が明けるとすぐ、信長は堺市を屈服させた。しかし、二月には義昭が三好・松永の残党と組んで反乱したのでこれを討った。この時、信長は平然と京都の町を焼いた。六月には有名な姉川の戦いで、朝倉・浅井の連合軍と戦い、これを破った。九月には石山本願寺、十一月には伊勢長島の一揆が蜂起した。そして、翌々元亀二年(一五七一年)には、意外にも信長は長島の宗徒に敗れた。浄土真宗を奉ずる宗徒たちは無類に強かった。九月、信長は比叡山を焼き、僧はもちろん女も子供も皆殺しにした。人々はこれを見て、信長を、
「天魔か赤鬼だ」
 と呼んだ。
 元亀三年(一五七二年)には三方ヶ原で、同盟軍の徳川勢が武田信玄と戦って大敗し、信玄は勢いをかって京都に迫ろうとした。信長は危機に陥ったが、運が強く信玄が陣中で急死してしまった。長島宗徒は天正二年(一五七四年)にようやく全滅させた。
 天正三年(一五七五年)五月、長篠の戦で武田軍を全滅させた。この時、ヨーロッパから来た鉄砲を使い、三組に分けて連続射撃した事はよく知られている事だ。信長はもう、
「やあやあ、遠からん者は音に聞け!」
 などと馬の上から名乗り合って、一対一で殺し合う古い日本の戦法など使わなかったのである。火薬と銃弾で、一度にたくさんの兵を殺傷する戦法を取り始めていたのだ。
 この年の十月、ついに石山本願寺(今の大阪府、当時の浄土真宗徒の大拠点)を陥落させた。この時、信長は日本で初めての鉄製の軍艦を作っている。装甲艦と呼ばれ、海上封鎖と砲撃に参加した。しかし、この装甲艦の出現で、それまで瀬戸内海を思うように支配していた中国地方の毛利水軍は、手も足も出なくなったと言われている。
 こうしてヨーロッパの新式兵器と、そして時に女、子供まで焼き殺すという残酷な方法を交えながら、信長は着実に日本を統一していった。しかし、その手は血と硝煙に汚れ、まさしく、
「天魔か赤鬼」
 そのものだった。

                    ☆

 信長が日本を統一するためには、最後の仕上げとしてどうしても成し遂げなければならない事があった。中国地方の平定である。名将毛利元就の流れをくむ毛利一族との決戦であった。中国地方さえ鎮めれば、天かは完全に信長の物になるはずであった。天下統一は目前なのである。
 しかも、中国地方は、信長がその才能を非常に高く買っている羽柴秀吉が、“兵糧攻め”という意地の悪い包囲戦法によって、着々と毛利方の城を落としていた。
「サルめ、なかなかやるぞ」
 と信長は上機嫌で合った。
 近畿地方から中部地方にかけてはだいたい平定した。信長は、
「一つ、オレが中国攻めの総大将に出陣するか」
 と思い立った。そこで武将の明智光秀を呼び、
「サルの応援に行け。サルの指揮下に入るのだぞ」
 と命令した。光秀は黙って下がった。光秀が出陣した後、信長もいよいよ出陣の支度を始め、京都に入った。本能寺に宿をとる。宿所が寺なので供は森蘭丸以下わずかしか連れていない。信長はここでのどかに茶の湯の会を催してから、悠々と出陣するつもりである。天正十年(一五八二年)六月一日の事である。信長は酒を全然飲まないが、その夜は森蘭丸たちを相手に話しに興じた後寝所に入った。
 そして翌二日の未明、信長は、いきなり森の大声でたたき起こされた。
「殿! 敵襲です!」
「敵襲? 敵とは誰か」
「明智光秀に御座います!」
「光秀? 馬鹿を言うな。光秀はサルの応援に中国に向かわせた。今頃は丹波(京都府)の亀山あたりにいるはずだ。寝ぼけるな!」
「寝ぼけておりませぬ。まさしく明智光秀の謀反に御座います」
「光秀がオレに謀反? この信長を殺しに来たというのか? 何故だ」
 何故だ、と訊いても森にも分かる訳が無い。はっきりしているのは、表の方から激しく聞こえる刀と槍のふれあいの音であり、重い武具の音であった。そして、その間をぬって聞こえる敵・味方の激しい罵り合いであった。明智光秀がこの本能寺に攻め込んだ事だけは確かであった。何故だ、などと考え込んでいる暇は無かった。信長はすぐに支度をして本堂の縁に立った。弓の用意をさせ、次々と矢を射た。自分の戦いでは鉄砲や軍艦を使う信長が何とも皮肉な話である。
 もちろん信長自身、
(こんなものは全く役に立たぬ)
 と感じ取っていた。しかし、この場合矢を射るよりほかに方法が無かったのである。明智軍は本気で攻めていた。城を攻めるように、完全武装の将兵で攻撃してくる。すでに庭に踊り込み、じりじりと信長のいる本堂に迫ってきた。信長は弓を捨てて槍を構えた。しかし、そうして戦っている間中、
(何故、光秀はオレを殺すのか)
 と、その事ばかり考えた。本当に信長には、光秀の謀反が理解できなかったのである。
 しかし、信長が理解しようとしまいと、明智光秀は着実に肉薄した。本堂前の庭に明智軍が溢れたのを見ると、信長は、
「本堂に火をかけよ」
 と森蘭丸に命じた。そしてそのまま本堂の奥に入り、
「腹を切る」
 と支度を命じた。これまでと覚悟したのである。
 みすみす天下取りを目前にして、こんな死に方は馬鹿馬鹿しい、と思ったが、仕方がない。
(オレの運もこれまでだったのだ。オレの後、天下を取るのは徳川家康か、ひょっとすると“サル”か……)
 燃え始めた本堂で、信長はふっとそんな事を考えた。そして、
(あのサルが天下を……)
 と、自分の考えたことが自分でおかしくなり、一人で笑い出した。そして炎の中で潔く切腹した。この時、信長は四十九歳であった。だが、目の前にした天下統一が、自分の手から逃げて行くことだけは心残りであったろう。
 しかし、明智光秀は、何故、突然信長を殺したのか。普段から光秀は信長に馬鹿にされていたから、それを恨んでいたとか、母を敵の人質に取られて見殺しにされたとか、個人的に怨みが原因だという説が伝えられているが、本当のことは分からない。
 また、光秀のおばが斎藤道三の妻であったことから、
「光秀は道三の敵を討ったのだ」
 とも言われるが、道三を殺したのは、道三の息子の義竜であり、信長ではない。むしろその義竜と子の竜興を滅ぼしたのが信長なのだ。信長はむしろ道三の仇を取ったのであって、光秀に恨まれるいわれはない。
 光秀は何故信長を殺したか――。
 それは、信長を殺せば自分が天下を取ることが出来るという、甘い考えを光秀が持ったからだと、現在では普通に考えられている。
 その明智光秀も、まもなく中国から引き返してきた羽柴秀吉によって殺されてしまう。そして、その日を起点に秀吉は大奮闘をし、死の直前、信長が、
(オレが目前にした天下を取るのは、徳川家康か、それとも、ひょっとすると、サルか……)
 と考えた通り、やがて天下を自分の手の中に収める。信長の言う「ひょっとしたら」と言う事が現実に起こってしまうのである。
 いずれにせよ、織田信長は死んだ。死後、彼が地獄へ行ったのか、極楽へ行ったのか、誰も知る者はいない。

                    ☆

 生まれた日から戦いの中に暮らし、血とほこりと汗に生き続けた織田信長は、ほとんどその生涯を戦野に送った。誰でも、
「おそらく、尾張の国のことなど考えている暇は無かったのではないか」
 という考えが湧くだろう。
 ところが、案外とそうでもないのである。
 戦国時代の常として、どこの国でも盗賊がはびこる。尾張でも同じことだ。ことに領主がいつも戦争をしに出歩いているような尾張では、留守番は女、子供になることが多い。だから尾張の民家にもしばしば盗賊が入った。
 しかし、どの家を覗いても、女・子供は武器を磨き、また、飯粒一粒でも粗末にしない厳しい生活をしていた。盗みに入ったが最後、手ひどい目に遭うことは間違いなかった。盗賊は全て逃げ帰ったという。
 そして、もっとも信長らしいエピソードは次の話である。
 美濃攻めに出陣する時、畑の中で農夫が一人、グウグウいびきをかいて寝ていた。これを見た家臣が、いきなり刀を抜いて走り寄ろうとした。信長は、
「待て、何をする気だ!」
 と、止めた。家臣は、
「領主が戦争に行くのはこいつら民・百姓のためではありませんか。それを、いびきをかいて寝ているとは無礼の限りです。斬ります!」
 と息巻いた。信長は首を振った。
「それは違うぞ。オレが戦争に行くのは、民・百姓をこういう風に無事に暮らさせるためだ」
 そう言った後で、
「それにしても、百姓というのは呑気でいいなあ。オレも代わりたいよ」
 と、カラカラ笑ったという。織田信長の大きな一面を伝える話である。
 戦国の乱雲の中から生まれた風雲児信長も、こうして実りの多い一生を終えた。



おしまい


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