呪いのトミカ
☆ 谷田大介(たにだ・だいすけ)の日記―― 八月×日(晴れ) 北海道のおじさんのうちへ来て、今日で一週間。あと二日で、またうちへ帰るのかと思うと、嫌になってしまいます。うちが嫌いと言うのではありません。もう少し、ここにいたいのです。何故かと言うと、おじさんの行っている林野庁(りんやちょう)という役所の中井さんと言うお兄さんから、今日、面白い話を聞いたからです。 その話と言うのは、もしかすると、この辺りにアイヌの宝物が隠してあるかもしれないと言うのです。 北海道は元々アイヌの島だったのですが、松前と言う殿様が来て、治めるようになりました。その頃北海道では、お米が取れないので、北海道で取れる魚や獣の皮などを本州で売って、そのお金でお米を買って、家来たちを養っていたそうです。はじめは魚や獣の皮は、アイヌの人たちが持ってきて、それを米や酒や着物などと取り換えていたのですが、それでは足りないので、段々、松前の侍が奥の方まで入って行って、アイヌの人たちを騙したり、脅かしたりして、わずかなお米や酒で、たくさんの品物を取り上げるようになりました。 そのやり方が酷いので、アイヌの人たちが文句を言うと、反対にぶったり蹴ったりしたので、アイヌの人たちは怒って侍に仕返しをしました。それを知って松前の殿様は、たくさんの侍を差し向けて、アイヌ達を殺したりしました。その時、酋長が、松前の侍に取られないように、たくさんの金や宝物を隠したというのです。 アイヌの人たちは、字を書くことを知らなかったので、その宝はどこへ隠したかを、ずうっと口で話して伝えてきたのですが、分からなくなってしまいました。 それが今から七十年ぐらい前、明治になって、ある人が見つけ、それをほんの少し持ち出しただけで、病気になって死んでしまいました。その人は、宝のある場所を他の人には言いませんでした。 だから、宝物は間違いなくあるのに、場所は分からないという事です。でも、中井さんの話では、そんな山奥ではないという事でした。もしかすると、この官舎の側にあるかも知れません。僕は宝物を見つけたいのです。 ☆ 「さ、涼しい内に勉強してしまいなさいね」 そう言って、おばさんは家を出ていった。土曜日なので、午前中に郵便局と銀行へ行かなければならないので急いでいた。大介とタカ子は座敷のテーブルで、向かい合って座って教科書を広げた。タカ子は大介のいとこで、大介と同じ四年生である。 教科書を広げたものの、大介はぼんやりとタカ子の顔を見ていた。 「何よ、気持ち悪いわね。あたしの顔になんかついてる?」 「えっ? いや」 大介は慌てて教科書へ目を落としたが、もちろん教科書の字など見ていなかった。大介は中井さんから聞いたアイヌの宝の事を考えていたのである。 「ダイコウ! 宝物の事を考えているんだろう」 「えっ」 大介は驚いて、タカ子を見た。 「へへ……。どう? 当たったでしょう」 「う……」 「それからダイコウ、うちへ帰りたくないなんて言わないでよ。今度はあたしがダイコウのうちに行く番なんだから。へへへ、タカ子は何でも知ってるんだ」 「あ! おれの日記見たな!」 「ふふふ。それから、書いてないことがあったから、書いておいてあげたわよ」 「な、なんだと!」 大介は慌てて、鞄から日記帳を引っ張り出してパラパラとめくった。あるある! いつの間にか、あちこちに書き込みがあった。 <外から帰った僕は、間違えて隣の内の便所へ飛びこみ、ついでにテーブルの上にあったトウキビ(トウモロコシ)まで食べてしまった> 確かにそういう事件はあった。いくつも似たような官舎の建物が並んでいたので、そそっかしい大介は間違えたのだ。 <デパートで迷子になって泣きました> 悔しいけれど、これも本当だ。やっぱり、知らない町で迷子になるのは心細い。 まったく、嫌な事ばかり書き足してある。さすがに大介は頭に来た。色が白くて、目が大きくて、確かに可愛いタカ子だったが、この時ばかりは物凄く憎らしかった。 「やりやがったな!」 「キャーッ!」 タカ子は派手な悲鳴を上げて逃げ出した。大介は追いかけた。 「二人とも、いい加減にしてよ!」 タカ子の姉さんで、女子美術大学へ行っている礼子姉さんが怒鳴った。 礼子姉さんは東京の大介の家から大学へ通っていた。だから大介が北海道へ来たのも、礼子姉さんが連れてきてくれたのである。 だが、その隙にタカ子は靴を履くと、外へ逃げだしていた。大介としては、何とも悔しくて、我慢がならなかった。そこで、大介も靴を履いて、外へ出た。外でなら、少々取っ組み合いのけんかをしたって礼子姉さんに怒鳴られる心配はない。 (あいつ、自分のうちだから、でっかい面してるんだ。ぎゅうっていう目に遭わせてやるからな!) ところが、外へ出て見ると、タカ子の姿が無かった。 「おかしいなあ……」 大介はバス道路の角を曲がった。と、そこにほろをかけた小型トラックが停まっていた。大介がその横を通り抜けようとした時、なにやらうめき声のようなものが聞こえた。 「あれ?」 不思議に思った大介はトラックの後ろへ回って、ほろを開けて覗き込んだ。とたんに、頭の後ろに突き刺さるような鋭い痛みを感じて、何が何だか訳が分からなくなってしまった。 ☆ 何とも言えず、暑苦しかった。息をするのも苦しかった。そのうえ、身体の自由が利かなかった。そのために、身体全体が何か硬い物に、どうん、どうんと叩きつけられているのを防げなかった。 気が付いたら、大介は後ろ手にぎっちり縛られ、固くさるぐつわをかまされていた。両足も硬く縛られていた。 ほろをかけた狭いトラックの荷台の上に乗せられていたのである。その大介の前に懐かしい顔があった。汗と涙と埃で、見る影もないタカ子の顔であった。タカ子もまた、大介と同じように両手両足を縛られ、さるぐつわをかまされていた。それと、もう一人見知らぬ男が乗っていた。トラックの荷台は、ほろのせいで薄暗かったが、男は大介の学校の受け持ちの田村先生ぐらいの年に見えた。だから三十二、三かも知れない。男は酷く顔色が悪く、目がくぼんでいた。時々、疲れたように目を閉じるが、すぐに目を開けて、大介とタカ子をかわるがわる見た。男の着ている海老茶のスポーツシャツは、汗で黒くなっていたが、その左肩の辺りはどす黒くなっていた。 大介はそっと体を起こしたが、トラックが跳ね上がったはずみで、また、嫌と言うほど床へ叩きつけられた。男はタオルで額の汗をぬぐうと、タオルを首に巻き、床に置いてあった黒い物を拾い上げた。ピストルであった。 (一体、こりゃどうなってるんだ) 大介は聞いてみたかったが、口の中へ何やら押し込まれて、その上からさるぐつわをかまされているので、声も出せなかった。 (とにかく、おれ達はさらわれたらしい。でも、何でさらわれたんだろう?) もちろん、金が目当てとは思えなかった。大介の父は広告会社に勤めているサラリーマンだし、タカ子の父にしても公務員だ。何百万円(現在で一千万〜一千五百万円前後)の身代金を出せと言われても、出る家じゃない。 目の前にいるタカ子と話をしたくても、出来ない。タカ子は泣き疲れたと見えて、大介の方を見ようともせずに、ぼんやりと床を眺めていて、ときどき肩をひくっと震わせた。 (何とかしなくちゃ。これはテレビのドラマなんかじゃないんだからな) 大介はそう思ったが、今は何一つできなかった。しかも、トラックは舗装していない砂利道をかなりのスピードで走っているらしく、ときどき酷い音をさせて弾んだ。その度に、大介は嫌と言うほど尻を打ったり横にひっくり返ったりした。勿論、大介ばかりではなく、タカ子も同じようにひっくり返った。そうして、もう一人のみ知らぬ男は顔をしかめ、うめき声をあげた。 「おい! 木本! 静かにやれよ」 男はシートの覗き穴から、運転台を覗き込んで怒鳴った。 「分かってる!」 若い男の声が戻ってきた。 (なんだかよく分からないけど、元はと言えば、これはタカッペが良くないんだ。タカッペの奴が、おれの日記に余計な事を書いたりしやがったからだ。……そうだ、おれがトラックのシートの中を覗き込んだ時、きっとタカッペは捕まってたんだな。こいつらはピストルなんか持ってるけど、おれ達をどうするつもりなのかなあ) トラックは山道に差し掛かったらしく、ぶるぶると酷いエンジン音をさせて、大きく傾いた。それからどれぐらい走ったか、ギイーッというブレーキの音と一緒に、トラックは止まった。 「おい、これから先はテクだな」 今度は運転席の方から声がした。 「外へ出て、大丈夫か?」 「ああ」 辺りはひっそりとしていた。どこか遠くで、カッコウの鳴く声がしていた。 運転席のドアが開く音がして、足音がトラックの横を回り、後ろへ行ったかと思うと、急に明るくなった。さっき木本と呼ばれた男が、シートをはぐったのである。大介たちと一緒にいた男が、身体をかがめながら出ていった。 「大丈夫か、ムラさん」 「あんまり大丈夫じゃねえ」 「そんな心細い事言うな」 「ガキ共はどうする?」 二人の話を聞きながら、大介は身体を固くして、タカ子の方を見た。タカ子も不安そうに大きな目で、大介の方を見た。 「何だったら、ここで始末してもいいけどな」 そう言って大介たちの方を見た木本の目つきは、ぞっとするほど嫌なものだった。 大介は、これは狂犬の目じゃないかと思った。大介の心臓は、破裂しそうなほど激しい音を立てていた。 「そいつはやめた方がいい」 ムラさんと呼ばれた年かさの男が止めた。 「だけど、オレたちはまともに顔を見られているんだぜ」 「見たのはこいつらだけじゃねえ。あの相川とかいう食料品屋のババアだって見てたはずだぞ。第一、看守が見てるじゃねえか。無理する事は無かったんだ」 「そんな事言ったって、あと八年もくらいこんでいてみろ。あちこち開けて、肝心のアイヌの宝もんは、どこかの土方が見つけてしまうかもしれねえじゃねえか」 大介ははっとしてタカ子を見た。タカ子も頷いた。 (とんでもない所で、宝物の話を聞くなあ。もう少し、何とかなっている所で聞かせてもらいたかったなあ) 大介はそう思った。 その内に、男たちの間で、何やらひそひそ話が続いていたが、いきなりシートが閉められ、荷台の上はまた、真っ暗になってしまった。男たちは運転台から何かを引きずり出し、「よいしょ!」と掛け声を上げて担ぎ上げた。男たちの足音はそのまま遠ざかっていった。 ☆ 辺りはしばらくひっそりしていた。逃げ出すなら今の内だった。大介はシャクトリムシのように尻をずらせながら、タカ子に近づいていき、タカ子に後ろを向けと合図をした。大介は後ろ手で、タカ子の手を縛ってあるロープをほどきにかかった。なかなかほどけなかった。いくらか緩みかけても、すぐにタカ子が動くので、すぐにまた締まってしまう。しかもタカ子はじれったがって、足をばたつかせた。大介の指の爪がはがれそうなほど痛んだ。手首も擦り?けそうだった。けれども、そんな事でもたもたしれいる暇はなかった。 やっとほどいた。大介の身体は、汗でぐっしょりだった。汗が額から流れて目に入り、ぴりぴりしみた。タカ子は大急ぎでさるぐつわを取り、自分で足のロープをほどいた。ほどきながら、何度もゲッ、ゲッと、喉の奥で変な音をさせた。 (何やってんだ! 早くしろ。先に、口の所をほどけ!) 大介は怒鳴ったが、それは「ウーウー」という唸り声にしかならなかった。 それでもタカ子は気が付いて、先に大介のさるぐつわをほどき、それから手のロープをほどきにかかった。 大介はまた「早く!」と怒鳴ろうとしたが、声にならず、先ほどのタカ子と同じようにゲッ、ゲッと、何度も喉の奥で吐きそうな音を立てた。 こうしてロープをほどき終わった時、二人はぐったりしてしまった。 「とにかく、ここがどこか確かめなくちゃ」 大介がかすれ声で言って、ほろのシートをめくりあげた途端、大介の身体はこわばってしまった。目の前に、あの木本という若い男がいて、タバコを吸いながらライフル銃をひねくり回していたのである。 「ご苦労。手間が省けて良かった。さ、こっちへ来な。いいか、二人とも、変な真似をすると、一発おみまいするからな。いいか、こいつは玩具じゃねえんだからな。オレがやると言ったら必ずやる。今も一人、あの世へ送って来たんだ。おっと、そこにあるボール箱を一つずつ持ちな」 言われて、大介とタカ子はトラックの荷台の隅にあった段ボールの箱を抱えた。 「さ、先に立って、まっすぐ歩くんだ。よそ見なんかするなよ。ここがどこかなんて事は知らなくていいんだ」 大介が先になり、タカ子がその後に続いて歩いた。横目でちらっと見る限り、辺りは家などなかった。大介の前には、かろうじて道と言えるぐらいの細い溝があり、左右からは身の丈ほどもあるクマザサが生い茂り、所々にクヌギやナラの木がのけぞるだけで、あとは空しか見えなかった。 (このクマザサへ飛びこんで逃げるという手もあるな) 大介がそう思いついた途端、木本が言った。 「おい、藪へ逃げ込みたかったら、逃げてもいいんだぞ。だがな、ここは熊が出るんだ。それにだ、一人逃げたら残ってる方は必ずやるぞ。その事を忘れるな。お前たちが先になって歩いてるのも、熊の用心のためだ」 大介はあきらめた。大介が逃げても、タカ子は助からない。あんなに憎らしいタカ子だったが、今はそのタカ子の命も大介次第なのだ。 考えてみると、どのぐらい遠くへ連れて来られたのか、見当がつかなかった。気を失った大介が気づいてからでも、四時間ぐらいはトラックが走り続けていたのだ。 クマザサは次第に覆いかぶさるようになり、溝みたいな細い道も途切れがちだった。時々つる草がはみ出すようになり、大介は何度もつまづいてのめりそうになった。クマザサに変わってカヤが生え始め、所々にクヌギ、ブナ、ナラ、白樺などが混じり始めた。 と、大介の前で何か黒い物が動いて、草がざわっと揺れた。大介ははっと息をのんで立ち止まった。 「連れて来たぞ」 大介の背中で、木本が言った。ムラさんが大きなリュックにもたれかかるようにして、横になっていた。 「ムラさん、ガキを連れて来たぜ。残しておいて、今、人目についちゃ厄介だからな。さ、行こう!」 「う……う……」 ムラさんは返事の代わりにうめいた。 「どうした。大丈夫かい?」 「あ! ……木本か? さっきの年寄りはどうした」 「心配するな。鉄砲を頂いた」 「酷い事をしたんじゃなかろうな」 「ああ、今頃はやっこさん、悲鳴を上げながら山を下っているだろうよ」 「それじゃあ、ぐずぐずしていられないな」 大介とタカ子は思わず顔を見合わせた。と言うのは、さっき木本は「今も一人、あの世へ送って来た」と言ったからである。 ――じゃ、さっきのは脅かしだったんだな――と大介は思った。 木本が大きなリュックを背負い、ピストルをムラさんに渡した。 「さあ、ガキ共、先に立って行けえ!」 「あの、水を飲ませて欲しいんだけど……」 大介が恐る恐る頼んだ。その途端、大介は木本にライフルの筒先で、嫌と言うほどおでこを突き上げられ、目がくらんでひっくり返った。 「声を立てるな!」 悲鳴を上げかけたタカ子が「ヒッ」と言った錐、息をのんだ。こんなことになるとは知らなかったので、タカ子もショートパンツのままだったから、あちこち、草の葉の切り傷で血がにじんでいた。 「水は後で飲ませてやる!」 ようやく、見晴らしの利くところへ出た。山がいくつも重なり合い、その山を分厚い絨毯のように葉が覆っていた。 (ここはどこだろう。分かるかい?) 大介はそういうつもりで、そっとタカ子の方を見た。タカ子が悲しそうに目を伏せた。 (無理ないな。あんなに長い事、トラックで運ばれてみたんだものな) 一行の中で一番身軽なムラさんが、いくらも行かない内にゼイゼイ息切れをさせて、悲鳴を上げた。 「木本、ちょっと待てよ」 「どうした」 木本は油断なく、大介たちに目を向けたままで聞いた。 「畜生、目がくらんできやがる」 「そうか、それじゃ、少し休もう。ムラさんに倒れられちゃ、せっかくの宝物の在処が分からなくなっちまうからな。おい、ガキ共、こっちへ来い!」 二人は言われるままに、木本の側へ行った。 「そこへ座れ!」 木本はリュックの上に縛り付けてある、丸い水筒を取り、蓋をコップ代わりにして水をつぐと、大介に飲ませた。水は生ぬるく臭かった。けれども、そのわずかな水で生き返ったような気がした。 「あたしにも……」 タカ子がそっと頼んだ。木本は黙ってタカ子にも飲ませた。 「先へ行けば、水はいくらでもある。そうすりゃ、溺れるほど飲ませてやらあ。地獄に三途の川っていうのが流れてるからな」 「おい木本、悪い冗談を言うもんじゃねえよ」 「そんな事言ったって、どっちみち、最後にゃこいつらも片付けなくちゃなるめえ。ま、宝の洞穴へ行きつくまでの事だけどな」 「いや、この子供だって、馬鹿じゃあるめえ。余計な事は言わねえよ」 「そうです! 何にも言いませんから」 大介が泣き声を出した。木本が鼻の先でくすんと笑った。 「さ、もうじき日暮だぜ。今夜は歩けるだけ歩いちまおう」 「そうしよう」 一行はまた、のろのろと山を下った。 途中で人に会ったら……。人のいる家を見かけたら……。大介は何度も、そういう光景に行き当たる事を考えてみたが、とうとう人にも家にも行きあたらぬうちに、日が暮れ始めた。 谷間から吹き上げてくる風は冷たかった。思わず背筋がぞくぞくするほど寒かった。 大介は考えた。 (夜中に逃げ出せば、逃げ出せない事も無い。だけど、きっとどこがどこだか分からなくなり、それこそ熊にやられてしまうかも知れない。それぐらいなら、今、こいつらの言う事を聞いて、油断させて逃げ出す機会を待った方がいいな) が、それでも大介の考えは甘かった。二人の男たちは、相変わらず大介たちを追い立てるようにして歩き続けた。タカ子は必死に泣くのをこらえているらしく、時々しゃくりあげるように喉を鳴らした。 「変な声出すな。ヘビに噛みつかれるぞ」 木本のドスの利いた声で、タカ子はしゃくりあげる事も出来なくなった。 ☆ 朝方、目が覚めたら、家の布団で寝ていたという事になってほしい、今までのは夢だったことになってほしい……。そう思いながら、大介は目を開けた。しかし、夢ではなかった。大介とタカ子は後ろ手に縛られて、その綱の先は木本の腰に結ばれていた。日はすでに高く昇っていた。 ほんの何時間か前、一行は乾いた場所を探して横になったのである。木本はすでに目を覚ましていて、タバコを吸いながらトランジスタラジオを聞いていた。 <昨日、午前九時半ごろ、二人の小学生が家を出たまま行方不明になっています。二人の小学生は道北市瑞穂町西四号の林野庁職員、牧原健治さんの次女、道北市立第三小学校四年生牧原タカ子さんと、東京から夏休みを利用して遊びに来ていた親類の、同じく小学校四年生谷田大介君で、二人は昨日午前九時半ごろ、家を出たまま行方が知れなくなったもので、夜八時過ぎても戻らないため……> 木本は大介がラジオを聞いているのに気が付いて、ふんと鼻先で笑うと、ラジオの音を小さくして耳へ持って行った。しばらくすると、木本はラジオのスイッチを切った。 「気の毒によ、てんで見当違いの所を探してるぜ」 そう言うと、木本はタバコを投げ捨て、足で踏んだ。 「どうして、おじさん達はおれ達をこんな目に遭わせるんだい?」 「何言ってんだ。こっちは始めから、おめえ達を巻き込むつもりはなかったんだ。勝手に首を突っ込んできて、でけえ面するんじゃねえよ。何せオレたちは……」 「木本!」 ムラさんの声だった。 ムラさんはみんなから、いくらか離れていた所に寝ていた。 「何だ、目を覚ましていたのか」 木本が慌てて言った。 「あんまりでかい声でわめき立てるからだよ。聞かれもしないのに、こっちから余計な事を言う事は無いぞ」 「ああ。どうだ、気分は?」 「良くねえ、熱が出てきやがって、やけに寒気がしやがる」 「そうか、そいつは困ったな。でも、今日の夕方には死魔谷へ出るぜ。さっきのニュースじゃ、オレ達がこっちへ向かった事はまだ分かってないが、そうそうのんびりしているわけにゃいかないぜ」 「そうか」 ムラさんは立ち上がったが、よろめいて膝をつき、苦しそうに唸った。 「どうした!」 木本が慌ててムラさんの方へ駆け寄ろうとした。そのはずみで、大介とタカ子は激しく引きずられ、悲鳴を上げた。木本が二人を縛ったロープを、腰に巻き付けたままにしていたからである。 「ええい、くそっ!」 木本はロープをほどくと地面に叩きつけて、ムラさんの所へ飛んで行った。 大介はタカ子と目を合わせた。 (逃げるなら今だ) 木本はムラさんに気をとられている。急に様子のおかしくなったムラさんを放り出して、追いかけてくる事は無いだろう。それに、十メートルほど先に、かなり深い藪がある。飛びこんで息を殺していたら、何とかなるかも知れない。と言うのは、どうやら木本たちは先を急いでいるらしいから、それほど熱心に探すことも無いと思ったのだ。 (そこの藪へ飛びこむんだ) (いいわ) 目で合図をした二人は、同時に地面を蹴って飛び出したが、同時に悲鳴を上げて引き戻されるようにしてひっくり返った。なんと、二人を縛ったロープは、結ばれて一本になっており、それが古い根かぶに引っかかったのである。 「おい、立て!」 木本が大介の頭を蹴った。 「ち、違うんです。け、けつまずいて、こ、転げ落ちたんです!」 大介は必死で言い訳をした。 「ばかやろ、そんな事でオレの目がくらませると思ったら、大間違いだぞ!」 木本が大介の頬を殴った。いったん起き上がっていた大介は、また地面に叩きつけられた。 大介の目から、悔し涙が溢れた。大介は生まれてから、まだこんな酷い目に遭わされたことは無かった。友達と殴り合いの喧嘩をした事はあった。だが、手出しが出来ないようにして殴るなんて、酷すぎると思った。 「木本!」 またムラさんの声である。木本はロープをそばの立ち木に結ぶと、ムラさんの方へ近づいて行った。 タカ子が恨めしそうに大介の方を見た。大介はそっと小声で言った。 「ごめんよ。……さっき、ニュースでおれ達のことを言ってたぞ」 「聞いたわ」 「知ってたのか?」 「そうよ、あんたが目を覚ます前から聞いてたわ、寝たふりをして。その前のニュースでね、あの人たちのことを言ってたわ。あの人たち、刑務所から逃げ出したのよ。護送の途中の交通事故の時、警官に重傷を負わせて……木本に……もう一人は村上っていうのよ」 二人がひそひそやっている間、ムラさんと呼ばれていた村上が、激しく痙攣するみたいに震えて、吐いていた。木本が村上の背中をなでていた。村上は血の気が無くなって、真っ白な顔をしていた。 「さて、急がなくちゃ」 木本は誰にともなく言った。 ☆ 今度はかなりの強行軍だった。今までボール箱一つだったのに、タカ子はボール箱二つ抱えることになった。そして、大介が村上を支えて歩くことになった。 大人を支えて歩くのは、楽ではなかった。大介は何度もよろめいた。けれども、その度に力を入れて踏ん張った。村上は、酷く荒い息をして、その息は生臭く、嫌な臭いだった。大介の肩に置かれている手は冷たく、それが大介の目や頬に当たるたびに、冷たい汗でぬるりとしていた。 「おじさん、怪我したの?」 「…………」 「ほんとは、病院へ行った方がいいんじゃないの?」 「…………」 「おじさん達が宝って言ってたの、アイヌの宝物の事?」 「…………」 「その話なら、ぼくも聞いたんだよ。七十年ぐらい前に、土方の人が見つけたんだってね」 それまでとろんとして、どこを見ているか分からなかった村上の目が、きっとなって大介の方を見た。 「オイナカムイの宝とか、ツキノエの宝って言うんだってね。でも、林野庁の中井さんと言うお兄さんの話では、ハフカセの宝じゃないかって言ってたよ」 「うん、その内のどれかだな」 村上が初めて口をきいた。 途端によろけて、村上は大介の上へかぶさるようにして倒れた。 「ばかやろ! 何やってんだ!」 かなり先を歩いていた木本が大声で怒鳴ると、戻ってきて、村上を抱き起した。村上は唇の色を白くさせていて、気を失っていた。 「やい、ムラさんにもしものことがあったら、てめえ、生かしておかないからな」 木本は大介をにらみつけて怒鳴った。大介は慌てて起き上がりながら、ちらりとタカ子の方を見た。 (逃げるんなら、今の内だぞ!) それなのに、タカ子は逃げるどころか、反対に、箱を置いてこちらの方へ戻って来るのだった。 (おい、何で逃げないんだよ) と目で言うと、タカ子は何も言わず、まるで小ばかにしたような嫌な目つきで大介を見た。 (一体、どうなってるんだ) いよいよ村上の様子が酷いらしく、木本は村上を背負うことにした。木本は大介に自分の担いでいたリュックを背負わせた。大介は前にのめりそうになりながら、坂道を下った。 それでも木本や村上たちよりも、いくらか先に歩け、タカ子と並んだ。 「どうして、さっき逃げなかったんだ」 「あれを見てよ!」 タカ子はそばの木を指さした。太い幹に、鋭い刃物で引っ掻いたような傷が幾筋もついていた。 「あれはね、熊が自分たちの縄張りを示す印なのよ。それにさっき、熊のうんちゃんを見たわ。すごいうんちゃん!」 本当なら、こんな臭い話なんて馬鹿馬鹿しくて真面目に出来やしない。けれども、今は馬鹿馬鹿しいどころか、とてつもなく恐ろしかった。 「あの村上っていう人、逃げる時、肩を撃たれたんですって。ラジオで言ってたわ」 「ふうん」 「おい、おめえら!」 木本が声をかけた。 「でけえ声で歌を歌え。歌を!」 大介とタカ子は顔を見合わせた。木本の言い方がふざけているのか、どうか分からなかったからだ。 「やたら熊のクソが目立つ。一生懸命熊に聞こえるように大きい声で歌え。さもないと、熊が寄って来るぞ!」 木本がちょっと厳しい顔で言った。大介は歌を歌うために、大きく息を吸い込んだ。けれども、いざ歌うとなると、何を歌ってよいものやら見当がつかなかった。 「早く歌え!」 「はいっ!」 ドレミッチャン ミミダレ 目ハヤンメ アタマノマン中ニ ハゲガアルーッ! 気が付いたら大介は、大真面目にとんでもない歌を歌い出していた。いや、もっとおかしなことは、タカ子まで、大真面目に合唱していた事だった。 ☆ 夜もかなり遅くなってから、一行は水の音の聞こえる谷あいへ入った。一行の頭の上をかなりの高度で飛行機が飛んで行った。ついたり消えたりするランプが、爆音と共に遠くなっていった。 やがて、月の光が辺りをまるで真昼のように照らし出した。 「よし、この辺りでいいだろ」 川原が十メートルほどもあり、ごつごつと尖ったような大きな石ころが並んでおり、その先を川が流れていた。川の向こう岸は切り立った白っぽい岩のがけで、見上げる遥か上の方に、生い茂る気が見えた。月に照らし出された景色は、まるで地獄のように不気味だった。 木本は村上を降ろした。村上は大きな石にもたれかかるようにして、腰を下ろした。 「み……水をくれ」 「よし。おい、そこの娘、オレと一緒に来い」 木本に言われて、タカ子は大介の陰に隠れた。 「お、おれが行くよ」 大介がタカ子を庇って前に出た。木本は何も言わず、大介に近づき、リュックの中からズックのバケツを出して、黙って大介に渡した。それからタカ子の方を見て言った。 「お前、ムラさんの側に居ろ。何か変なものが出てきたら、大声で呼ぶんだぞ。いいなあ」 大介は木本について、水を汲みに行った。素晴らしくきれいな水が流れていた。木本は川原にライフル銃を置くと、ごしごし、顔を洗った。 大介は夢中でライフル銃を手にした。大介はライフル銃を抱えて、木本をにらんだ。木本はまだ、気が付いていなかった。ライフル銃は重く、黒光りしていた。 (これで引き金を引いたら……) 木本がもんどりうって、頭から水しぶきを上げて倒れる光景が目に浮かんだ。だが、それから先、タカ子とどうやってここから逃げ出したらいいのだろうか……。大介の膝ががくがく震えた。 「おお、おお! そんなガキのちょす(いじくり回す)もんじゃねえ」 振り向いた木本は、大介が「あっ」と息をのむ間に筒をつかんで、簡単に大介からライフル銃を取り上げてしまった。突然、大介は泣き出した。自分があんまり情けなかったからだ。 (どうして余計な事を考えないで、引き金を引いてしまわなかったんだろう) 「なんだ、急に泣き出したりして。早く水を汲め!」 木本はそう言うと水筒を大介に渡し、自分はズックのバケツに水をくむと、さっさと歩きだしていた。 大介も顔を洗うと、水筒に水を入れ、急いで木本の後について行った。タカ子は村上の側で、不安そうにあちこち見回していた。 「好きなだけ飲めよ。また汲んでくるぜ」 タカ子はこっくりして、水筒を受け取った。木本は村上が首に巻いているタオルを取り、水に浸して村上の顔を拭いてやった。 「すまねえなあ……」 「そんな事より、ここが死魔谷の上の方だぜ。穴はどの辺にあるんだ」 「この川を上るんだ。滝になる……」 「それから?」 「水をくれ」 タカ子が黙って水筒を差し出した。村上は美味そうに、喉を鳴らして水を飲んだ。 「木本、この子たちに何か食わせてやれ」 「ああ。……おい、ボール箱に、食料品屋のババアの所から盗んだビスケットとかせんべいが入ってるから、食え!」 大介とタカ子は並んでせんべいを食べた。ハトムギせんべいの香ばしい匂いが懐かしかった。 (ほんとなら、こうやってタカッペとハイキングで、せんべいを食べたかったな) いくらか腹がくちくなってくると、タカ子がうつむいた。タカ子の目から、一筋、二筋、涙が流れた。 「心配するなよ」 大介は肩で、そっとタカ子を押した。タカ子が「分かった」と言うように押し返した。と思ったら、くっくっと声を殺して泣き出した。大介がタカ子の肩を抱いた。タカ子の髪の毛が、大介の顔にかかった。日向くさいにおいがした。 (ようし、おれはタカッペのために、頑張るぞ!) 木本と村上は相変わらずひそひそやっていたが、突然木本の大きな声が聞こえた。 「なんだ、そんな気の弱い事で……。いや、分かったよ。でも、折角ここまで来たんだから、一度確かめておこう……」 あたりはひっそりと静かになった。川のせせらぎと、どこか近くで鳴くみみずくの声がした。 ☆ 東の空が薄明るくなるころ、大介ははっとして、目を覚ました。大介は周りを見回した。 「ママ……」 タカ子が寝言を言ったのである。大介はもう一度寝込もうとして、木本たちの方を見た。二人とも寝込んでいた。大介はタカ子をつついた。タカ子が薄目を開けた。 「しっ! 黙って――」 大介はそっと足音を忍ばせて、木本たちの方を窺った。木本のすぐ足元に、ラジオが置いてあった。 大介は手を伸ばしてラジオを持った。だが、ぎょっとなった。村上が目を開けて、じっと大介の顔を見ていたのである。大介の身体はこわばった。 と、思いもかけず、村上が手を上げて、「行け」と言うように振って見せた。大介はほっとして、タカ子の所へ戻った。タカ子は既に立ち上がっていた。 「さ、おいで!」 タカ子は大介の後に続いた。 ☆ 二人はいったん、木本たちの所から離れて、川下へ向かい、そこからクマザサの藪をかき分けて、山へ向かった。しかし、いくらも行かない内に、タカ子は藪の中へ座り込んでしまった。 「あたし、もう駄目よ、足が丸たんぼうみたいに重くなってるの。酷く腫れて、火照ってるわ」 「何言ってんだ。おれの足だってそうだよ。ぶよにやられたんだ。こんなとこでグズグズしてると、木本に捕まって殺されちゃうぞ!」 そういう大介の声もおろおろして、泣き声に近かった。大介は懸命にタカ子を抱き起すと、藪を分けて歩いた。道らしいものはどこにも見当たらなかった。見渡す限り、藪とつる草と、重なり合った木であった。つる草が二人の腰の辺りまであって、絡み合い、二人の行く手を遮った。二人は何度も転んだり、のめったりしながら、川でも渡るように一歩一歩、足場を確かめて進んだ。 「ね、大ちゃん、逃げてどこへ行くの?」 「どこへ行くって、木本に見つからないようにするだけさ」 「木本に見つからなくたって、このままじゃ、私達死んでしまうんじゃないの!」 「変な事言うな。このまま死んじゃ、損しちゃうよ。夏休みだってまだ三週間も残ってるんだぞ。タカッペだってそうだろ? おれんちへ来たいだろ? それに、お前、綺麗なお姉さんになって、素敵な恋愛をして、お嫁さんになりてえって言ってたじゃねえか。その時には、おれなんか問題にしてやらねえって。おれだってな、レーサーになりてえんだ。グランプリレーサーになって、綺麗なお嫁さんもらって……。バカみたい、おれ、何言ってるんだ。さ、今は少しでも、木本から離れるんだよ」 二人はのろのろと、歩き続けた。太陽が昇り始めた。暗かった辺りが、だいぶ明るくなった。 「随分来たよ。ラジオを聞いてみよう」 ラジオがニュースをやっていた。 <……牧原さんの近所の相川トメさんが殺害された犯行時刻とほぼ一致するので、二人の小学生が、たまたま犯行を目撃したために、犯人たちに連れ去られたものと考えられます。なお、ただいま入りましたニュースで、犯人らが使用したと思われる小型トラックが発見された地点で、もう一件、殺人が行われていたことが分かりました。被害者は道北狩猟クラブのメンバーで……> 「ね、おれたちがこっちへ来たことが分かり始めららしいよ」 大介は陽気に言ったが、タカ子は震えていた。 「どうしたんだよ」 「あの木本って人、ほんとに恐ろしいわ。今のニュースの相川トメさんて、バス停の所の食料品店のお婆さんよ。木本はムラさんに気付かれないようにやったのよ。昨日だって、ムラさんに嘘を言ってたじゃないの。『今頃悲鳴を上げて、山を降りてる』なんて言ってたけど、あの鉄砲を取り上げた時、やったのよ……」 「そうかあ。そう言えば、あいつの目って恐ろしいものなあ」 大介は今更のように震えた。 ☆ 二人は薄暗い原始林の中を歩き続けた。 「あ!」 タカ子が立ち止まった。 「うん、ヘリコプターだ。僕たちを捜しに来たんだ」 遥か彼方で、ブルブルというヘリコプターの音がした。 「駄目だ。こんな所に居たんじゃ、ヘリコプターに見つけてもらえないよ」 「どこか広い所へ出ましょう」 「うん」 二人は全身に絡まるようなつる草をわずかずつくぐり抜けて、クマザサのあるいくらか広い所へ出た。目の前が眩しいように開けた。 しかし、ヘリコプターの音は、いつの間にか消えていた。二人はがっくりした。 「あれ?」 大介は目をむいた。目の前に見えたのは、なんと、先ほど二人が逃げ出してきたはずの川原だったのである。二人は息を殺して川原を見た。リュックを担いだ木本が、ライフル銃を持って、一人で川上に向かっていくのが見えた。二人は木本の姿が見えなくなるまで息を殺していた。 「あたし、また喉が渇いちゃった」 「うん、腹も減ったなあ、あそこにまだ段ボールの箱が置いてある。あの村上だけだから、行って取って来るか……」 言いかけた大介はぎょっとして、タカ子の手を握った。熊であった。川の下の方で曲がりくねっている辺りを、親子連れの熊がゆっくりと歩いていくのが見えた。 「行こう!」 大介はタカ子の手を引くと、村上の寝ている所へ走った。 「ピ、ピストル持ってるかい? く、熊だよ!」 村上は首を持ち上げ、腹の上に乗っているピストルを持ち、安全ベンを外すと大介に渡した。 「何故……何故……逃げなかったんだ……」 「迷っちゃったんだ。木本は?」 「ああ、宝を見に行った。あいつ……自首しようというのに……」 「おれ、あの人は自首しないと思うよ。タカッペの家の側の食料品屋のお婆さんを殺してるし、ライフル銃をとった時、一人殺しているもの」 「やっぱり!」 そう言うと、村上は苦しそうに体をよじり、喘いだ。 「……だから……宝の在処は……まだ、教えていないんだ……そんな事だと……思ったからな……」 「おじさん、今、何にも言わない方がいいよ。また、苦しくなっちゃうから……」 「み、水……」 タカ子はズックのバケツの水をすくって村上の口へ流し込んだ。村上が激しくむせて、それから息が早くなった。 「そうだ、タカッペ、早く見つけてもらうために、火を燃やそうよ。そうすれば、熊もこっちへ来ないだろうし」 「マッチは?」 「段ボールの中に広告マッチが入ってたよ」 「だけど、もしかすると、先に木本に見つかるんじゃないの?」 「分からない。やってみなくちゃ!」 大介とタカ子が川原で焚火を始めてから一時間ほどした時、村上の様子がおかしくなった。 「おじさん、しっかりしてよ! おじさん!」 タカ子が村上をゆすった。村上は眉の間にしわを寄せるだけで、目を開けようとしなかった。 その時、大介は飛び上がって、タカ子の手をつかんだ。 「木本が戻って来た! 隠れるんだ!」 大介とタカ子は、またもやクマザサの中へ飛び込んだ。 「大丈夫かしら」 「ああ、大丈夫さ。今度はこっちだって、ピストルを持ってるんだからな」 「でも、ここから離れたら、せっかく合図の焚火をしたのに見つけてもらえなくなりゃしない?」 「うんそうか」 「でも、ここに居たら熊が来るし」 「よし、木に登ろうよ。タカッペはウーマンリブだから、木ぐらい登れるだろ」 「いいわ」 二人はつる草にぶら下がるようにして、木に登った。二人の吐く息が、まるでぜいぜいと機関車の音みたいに大きく思われた。 「木本はもう、着いたかしら」 「しっ! 黙って!」 何か、下の方で音がした。と、思ったら、二人の登っている木が激しく揺れた。二人は思わず悲鳴を上げて、木にしがみついた。下に熊がいた。さっき、川下で、子熊に水浴びをさせていた親子連れの熊だった。 熊はいったん木から離れると、もう一度、木の幹に体当たりをくれた。 ドサーン! 木全体が激しく揺れた。 熊はまた、いやいやでもするように首を振って、木から離れたが、その早いこと。まるで下が藪やつる草ではなく、ぱんぱんに乾いた運動場を走るように身軽だった。熊はそのまま、藪の中へ駈け込んだ。子熊がちょろちょろしていたからである。 辺りはまた、静かになった。 「だいちゃん……」 タカ子が泣き声で呼んだ。見るとタカ子の足を伝わって、ポタポタとしずくが藪へ落ちていた。しかし、気が付くと、大介のズボンの中もぐっしょりだった。 あまりの恐ろしさに、おしっこが漏れてしまったのである。 「心配するなよ。おれもだよ」 「なにさ。ピストル持ってるくせに」 「ほんとだ。でもよ、おっかなくて、ピストルどころじゃなかったよ」 大介の胸はまだ激しく鳴っていて、ものを言うと息切れした。 「参ったなあ、おれも、二度目の時は駄目かと思っちゃった」 「また来るかしら?」 「さあ、お子連れの熊は怖いって本に書いてあったけど、たまげたなあ。寿命が縮まったよ」 「嫌だわ、あたし、このままでいきなり、お婆さんなんかになりたくないわ」 その時である。 「お! そこの二人、降りてこい」 木本の声であった。木本はライフル銃を構えていた。 「お前ら、ムラさんからなんか聞いてるだろう。ムラさんはたった今、死んだぜ。さ、降りて来い!」 「だ、駄目だよ。く、熊がいるもの……」 「うるせえ! そんなちゃちい嘘をつくんじゃねえ。宝の話を聞いたろう。いいか、オレにゃ、ガキを甘やかすほど時間がねえんだ。降りて来ねえなら、まず、どっちか一人、先に片づけてやるからな」 木本は銃口をタカ子に向けた。それより早く、大介の指がピストルの引き金を引いた。すさまじい銃声が、当たりに響いた。 「この野郎! ふざけやがって!」 木本はタカ子に向けていた銃口を大介の方に向け直した。が、その時、木本が地面にたたきつけられ、物凄い悲鳴を上げた。その木本の上に、赤黒いものがどさんと被さった。熊であった。 と、続いて激しい銃声が起こった。熊がそのまま動かなくなった。 「大丈夫かあ!」 あちこちの藪をかき分けて、手に手に銃を持った男たちが駆け寄ってくるのが見えた。 ☆ 殺人犯木本は、その時の傷がもとで、三日後に死んだ。村上は既に死んでいた。だから、アイヌの宝は再び謎に包まれてしまった。 その後の調べで、村上は何度もこの辺りを歩き回っていた事や、やはりその頃知り合った年寄りから、宝の在処の手がかりを聞いていた事が分かった。 その老人が病死する時、わざわざ村上を呼んで、何事か言い残したのはその事であったろうと言うのである。 木本の方は宝のことはあまり詳しくなかったが、村上からその話を聞いて、村上の助手になる約束をしていたという事だった。 大介に、初めて宝の話をしてくれた中井さんは、 「アイヌの宝というのは、アイヌの人たちが和人(日本人)にいじめられて宝を取り上げられないように隠したんだから、アイヌの人たちの怨みや悲しみと一緒に隠されたようなもんだ。だからそうそう、簡単には見つからないよ。例え見つけたところで、初めの発見者の土工が病気で死んでいるし、村上だって、木本だって酷い死に方をしている。これはきっと、呪いのかかった宝かも知れないよ。木本に殺された人たちだって、きっと恨んでいるだろうからね。なんでも、話では数十兆円だそうだけど、ま、こんなおっかない宝の事は忘れた方がいいな。僕も怖い目に遭いたくないし、どこにあるか分からない宝を探すより、お嫁さんになってくれる人を探すよ」 と言って、聞こえないふりをしている礼子姉さんを横目で見ながら笑った。 捜査隊には、牧原のおじさんも、この中井さんも加わっていたという事も、後で知った。 谷田大介の日記 八月××日(晴れ) 今日も、小山君たち、組の仲間達が遊びに来ました。みんな僕の話を聞きに来るみたいですが、本当は、タカ子ちゃんの顔を見に来るのです。 小山君は、 「おれだったら、村上ってやつをうんまく騙して宝の在処を聞いたのになあ」 などと偉そうに言ったら、タカ子ちゃんにやっつけられました。 「大人って、そんなに甘くないわ。どんなに恐ろしいか知らないから、そんな事が言えるんだわ。悪いけど、ダイコウだったから、私が助かったのよ。これがあんたみたいなお調子者だったら、きっと今頃、私はうちのちっちゃなお仏壇に入れられちゃったわ」 と言われて、頭をかいてしまいました。タカ子ちゃんも、いくらか僕のことを認めているみたいだから、僕はタカ子ちゃんの日記に、タカ子ちゃんがうちのトイレの水洗があんまりたくさん出るので壊してしまったとか、泣きべそをかいて出られなくなったことや、スーパーマーケットで迷子になって、パトカーを呼んでしまった事は書き足さない事にします。 それから二人で、この事件を話す時、どんなに怖かったという所では、ある所だけは絶対に話さない約束をしました。 これは二人だけの秘密です。タカ子ちゃんが北海道で一人で話す時も、僕がこっちで一人で話す時も、約束を守る事にしました。 こういうのを『お互いの名誉のため』というのだそうです。 おしまい 戻る |