きつね物語


                    ☆

 林の中は、月の光と物の影とが入り混じって揺れていました。
 その影から影を伝って、一匹の動物が滑るように走っていました。
 それは、大きな母ぎつねでした。
 母ぎつねは、ウサギを口にくわえていました。ウサギはまだ生きていました。くわえられたままで、後ろ脚を動かしてもがいていました。
 きつねの子供たちは四匹いましたが、もう、ぼつぼつ、獲物の取り方を教えなければならぬ頃になっていました。
 きつね達は生きたままで、小さい動物を運んで行って、子供たちに獲物の取り方を教えるのでした。
 きつねの子供たちの待っている巣穴は、もう、すぐ近くでした。その穴は樫の木の根元の、岩と岩との間にありました。そこは目の前のくぬぎ林を突っ切ったところです。大急ぎでくぬぎ林に飛びこんだ母ぎつねは、走る足をぴたっと止めるのでした。
 嫌な臭いがしてきたからです。
 きつねは用心深い獣です。どんなに急いでいる時でも、怪しい音や怪しい臭いに気づくとピタッと伏せて、辺りの様子をうかがうのです。
 その匂いは、野犬の匂いでした。くぬぎ林の向こうから匂って来るのでした。
 野犬は、動物たちにとっては一番恐ろしい敵でした。夜だろうと昼だろうと、森や林の中をうろつき回り、獲物を見つけると、群れを作って襲い掛かるのです。相手の獲物がへとへとになって動けなくなるまで、何時間でも何日でも、追い回すのです。
 その野犬の匂いが、子供たちのいる林の向こうから匂ってきたのです。
 これはもう、ぐずぐずしてはいられません。大急ぎで走り出しました。
 くぬぎ林の端までやって来ました。
 と、そこに父ぎつねがいました。首の毛を逆立て牙をむき出して、喉の奥で唸り声を上げながら、前の方をじっと睨みつけていました。
 母ぎつねも、前の方を透かしてみました。母ぎつねの心配していた通りのことが起こっていました。
 岩と岩の隙間に出来た穴の周りを、七匹の犬はぐるりと取り巻いて、ワンワン鳴き立てたり、岩をガリガリと引っ掻いたりしているのです。
 野犬たちの吠えたてる声の合い間合い間に、クィーン、クィーンという悲しげな声が聞こえてきます。怯え切った子ぎつねたちが、助けを求めているのです。子ぎつねたちは穴の奥で、一塊になってブルブル震えながら、親ぎつねの助けを待っているのでしょう。


 野犬たちは、ずるいけだものです。子ぎつねたちが怯え切り、お腹をすっかり減らし、どうにも我慢できなくなって、穴から顔を突き出したところをがぶりとやろうと、考えているようでした。いつまでも待ち構えていて、とっ捕まえてやろうとしているようでした。
 本当に、大変なことになってしまいました。

                    ☆

 母ぎつねは、くわえていたウサギを投げ捨てると、牙をむきだして、低い声で唸りました。それから落ち葉の上にぴたっと、身体を伏せると、影から影を伝って、野犬の方に近づきました。
 父ぎつねもやはり、同じような動作で、じりっ、じりっと進んでいきます。
 落ち葉の上を進んでいくのですが、音一つ立てません。
 野犬たちから十メートルの辺りまで近寄った時、親ぎつねたちは不思議な事を始めました。
 突然、唸り声をあげると、ぴょーんと高く飛び上がったのです。はっきりと、野犬たちにその姿が見えるように、高く飛び上がったのです。
 七頭の野犬たちは、親ぎつね達をじっと睨みつけました。
 二匹の親ぎつねは、跳ね飛んだり、転げまわったりして唸り声を立てているのです。酷い傷でもして、苦しんでもがいているように見えました。
「しめしめ。いい獲物が居たぞ。まず、こいつから先に食べてしまえ」
 と考えて、親ぎつね目がけてどっと襲い掛かりました。
 すると親ぎつね達は、ぱっと跳ね起きると、二手に分かれて逃げ出しました。
 野犬たちは、逃げる者へ無茶苦茶に襲い掛かる性質を持っています。犬たちも二手に分かれて、その後を追いました。ワンワンワンと鳴き立てながら、まっしぐらに、親ぎつねの後を追いました。


 親ぎつね達は、林をぬけ、森を越え、谷を横切って、どんどん逃げ出しました。
 逃がしてなるものかと、野犬たちは大声でわめき立てながら、どこまでもどこまでも、追っかけてきました。
 親ぎつね達は、二時間も駆け回って、野犬たちを穴から遠く引き離しました。もう、この辺りで良いと思ったのか、にわかに速力を出して犬たちを引き離しながら、小さな谷川に出ました。
 その川っぷちの浅瀬を歩いて、ずっと上流に出て、そこで川を横切りました。向こう岸に渡っても、すぐ砂地を歩かず、さらに浅瀬を歩いてから、林の中に入り込みました。
 きつねは利口な生き物です。
 こうして足跡の匂いを消して、後を追いかけてくる野犬たちをまごつかせようとしたのです。森や林の中を、散々ほっつき歩かせて、時間を稼ごうとしたのです。
 それから真っ直ぐに、子供たちのいる穴に向かって駆けだしました。
 穴の近くの大きな樫の木の所で、父ぎつねと母ぎつねは落ち合いました。
 二匹のきつねは顔を近づけて、鼻と鼻を押し付けて嗅ぎ合いました。それは、うまく野犬たちをまいてしまった事を喜び合う仕草でした。
 親ぎつね達は、喉の奥でゴロゴロと優しい唸り声を立てて、穴の中に入って行きました。
 一塊になって震えていた子ぎつねたちは親ぎつねの姿を見、ゴロゴロという優しい声を聞くと、元気を取り戻しました。親ぎつねに飛びついたり、足にまつわりついたりして、ゴロゴロと喉を鳴らしました。それは、恐ろしかった事を親ぎつね達に報告でもしているように見えました。
 しばらく、子ぎつねたちは甘えついていましたがやがて、お腹のすいている事を思い出しました。四匹の子ぎつねたちは、前足を立ててちょこんと座ると、やかましく鳴き立てました。
「なぜ、食べ物を持って来なかったか」
 と、責めるように鳴き立てるのでした。

                    ☆

「この穴で、ぐずぐずしているわけにはいかない」
 と、親ぎつねは思いました。


 野犬たちは、一度、獲物を見つけたら、決して諦める事を知らない奴どもです。やがてまたここに戻って来るに違いありません。出来るだけ早く、この穴を出て行かなければなりません。
 甘えつく子ぎつね達を、叱りつけ叱りつけ、穴の外に出ました。四匹の子ぎつねは、生まれて初めて外に出たのです。生まれて初めて、林の中を歩くのです。
 始めはぶつぶつ言って、座り込んだり立ち止まったりしていましたが、その内に、周りの様子に興味を持ち出しました。ウサギの足跡があればその匂いを嗅ぎまわり、ネズミが走って行けばその後を追っかけたり、思い思いに勝手な事をやるのです。まるで、遠足にでもやって来たつもりです。
 こういう子ぎつね達を連れて、急ぎの旅をするという事は大変な事です。
 きつねの一家は、林を越え、小川を渡り、山の峰を超えて、歩いていきました。ふぉこかに安心して住む事の出来る、良い場所はないかと、あてどの無い旅を続けて行きました。
 子ぎつね達は、へとへとに疲れてしまいました。子ぎつね達は、落ち葉の上に座り込んで動こうともしないのです。どんなに叱りつけても、悲しそうな声を出して鳴き声を上げるだけで、立ち上がろうともしないのです。困ったことになってしまいました。
 その時、父ぎつねがアナグマの作った穴を見つけました。親ぎつね達は、穴を調べて見る事にしました。
 穴は、敵に襲われても逃げられるように、抜け道が三つも作ってありました。これは、前に住んでいた穴よりも、もっと良い穴でした。一つの抜け道は、崖の中腹に抜けていました。そこから首を出してみると、谷間にある小さな部落が見えました。


 その部落の農家の窓から、消し忘れた灯りでしょうか、二つ三つ、金色に光って見えました。
 親ぎつね達は、この穴を自分たち一家の者の住処にする事にしました。
 子ぎつねだけではありません。親ぎつね達も、たいそう疲れていました。けれど、昨日から子ぎつね達は何も食べていません。それで親ぎつね達は、食べ物を探しに崖を降りて行きました。
 林を横切ると、田と畑が入り混じって続いていました。ネズミやカエルの匂いが、一面にしているのです。ネズミもカエルも、きつねの好きな食べ物です。
 親ぎつね達は大喜びです。何回も行ったり来たりして、子ぎつね達が腹いっぱいになるまで、ネズミを運びました。
 その後、部落の田と畑とは、きつね一家のえさ場となりました。夜になると、毎晩、親ぎつねはここに降りてきて、子ぎつね達に獲物をとる事を教えました。そして、思いのままにネズミとカエルのご馳走を食べるのでした。
 だから、この部落の田のあぜや畑の中には、親子のきつねの足跡が、至る所についているのでした。

                    ☆

 食べ物は充分あるし、四匹の子ぎつね達はすくすくと育っていくし、親ぎつね達は本当に幸せな日々を過ごしていました。
 秋も過ぎ、冬がやって来ました。山里の部落には、雪が降り始めました。けれども、きつね達は餌には困りませんでした。
 南向きの丘や畑の土手には、数えきれないほどのネズミの穴があったからです。
 きつね一家にとっては、谷間の部落は牧場のようなものでした。
 ところが、雪が降るようになってから、厄介な奴が、この部落に目を付けるようになったのです。
 それは、あの七匹の野犬の群れでした。
 山手の森や林に深々と雪が積もって、狩りが思うように出来なくなってきたので、野犬たちはこの部落に目を付けたのです。
 野犬の群れを率いる、しかめっつらと呼ばれる一際大きな犬がいました。
 しかめっつらは、若い頃野犬となって、部落部落をさ迷い歩き、ニワトリなど、捕って食べたことがあります。その頃の事を思い出して、仲間を引き連れて部落を襲うことにしたのでした。
 夜、こっそり部落に忍び込んで、ニワトリや飼いウサギをさらっていくのでした。毎晩のように部落のニワトリや飼いウサギがさらわれるのです。部落の人々は、かんかんに腹を立てました。


「一体、何者の仕業だ」
 と、部落の周りの足跡を調べて見ました。雪の消え残った畑や田のあぜに、きつねの足跡がはっきりついているのを見つけました。さらによく調べて見ると、あそこにもここにも、きつねの足跡は一面にあるのです。
「泥棒野郎は、あのきつねだったのだ。よし、みておれ!」
 と、部落の人々は親子のきつねの通り道に、一面にトラバサミを仕掛けました。トラバサミというのは、けだものがうっかり足を踏み入れると、鉄の歯ががっしっと、その足に噛みつき、そのまま相手を大地に釘付けにしてしまう仕掛けの罠です。
 そんな事を知らぬ親子のきつねは、夜がやって来て部落の人々が寝静まるのを待って、とことこと、崖を下って行きました。
 いつものように、あぜ道を歩いていきました。が、どんな時でもきつねは決して油断をしません。先頭を走っていた父ぎつねが、突然立ち止まりました。
 足元から、嫌な鉄の匂いがしてきたからです。父ぎつねはそっと土をかき分けてみました。と、そこからトラバサミが顔を出しました。


 父ぎつねは唸り声をあげてから、方向を変えました。
 五、六歩歩くと、そこからも鉄の匂いがしてきます。注意して、辺りの匂いを嗅ぎまわると、あちこちで鉄の匂いがしているのです。
 きつねの通り道を囲んで、部落の者のかけた罠の中に、いつの間にか親子のきつねは入り込んでしまったのです。
 うっかり歩くことも出来ません。
 その時、ウウウという唸り声を、きつね達は聞きました。
 はっとして透かして見ると、七頭の野犬が、周りをぐるりと取り囲んでいるのでした。野犬たちも、部落に同じころやって来て、きつね達を見つけたのでした。
 大変なことになってしまいました。
 四匹の子ぎつねは、母ぎつねの周りに集まって、声を立てずに震えています。しかめっつらは、野犬の群れを率いて、じりっ、じりっと囲みを狭めました。
 父ぎつねとしかめっつらの距離は、三メートルほどになりました。父ぎつねは、白い牙をむきだして、戦いを挑みました。しかめっつらは、ぱっと飛びかかり、父ぎつねは素早く体をかわしました。
 と、その時キャンキャンという悲鳴が起こりました。飛びかかったはずみに、しかめっつらはトラバサミに足を挟まれてしまったのでした。父ぎつねはちゃんと、トラバサミを計算に入れていたのでした。


 野犬たちは、ちょっとたじろぎました。その隙をついて、父ぎつねは飛び出しました。野犬たちは、吠えたててその後を追い始めました。
 谷間は夜が明けかけていました。
 母ぎつねは、父ぎつねに野犬たちをまかせると、四匹の子ぎつねを連れて、山の陰に向かって一直線に走っていくのでした。
 その山の陰は、朝焼けを受けて赤々と輝いていました。



おしまい


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