海底マンション808


                    ☆

 貝がら町までは、オレンジ色の車体の電車で行ける。貝がら町駅前からニュータウン行きのバスが出ている。
 今はまだ、ニュータウンが完全に出来上がっていないので、バスは一時間に二本だけである。
 ひろゆきとかよの二人が、貝がら町駅の改札口を出たのは、三時四十二分。これは駅の電気時計で確かめた。バスの時刻表を見たら、次のバスが出るまで、十五分待つという事が分かった。
 ペンキの禿げたベンチが一つ置いてあって、そこに五十歳ぐらいの女の人が、ハンカチを頭に乗せて座っていた。酷く顔色が悪い。病気なのかもしれない。
 ――この人も、ニュータウン行きのバスに乗るのだろうか――。ひろゆきがそう思っていたら、
「ねえ、お兄ちゃん」
 と、かよが辺りを見回しながら言う。
「この貝がら町って、全体が変に白っぽい感じがするわね」
 それは確かだ。道路も、立ち並んだ家々も、白っぽい。空までが、雲も無いのに白っぽく光っているのだ。
「きっと、これは」
 と、ひろゆきは考えながら妹のかよに言った。
「貝がら町って言うくらいだから、土地にも貝がらがいっぱい混じっているんだよ。その貝がらのせいで、町全体が白っぽくなってしまったのさ」
「そんなの変よ」
 かよは、すぐに反対した。
「土地に貝がらが混じってたなんてこと、昔、この辺が海岸だった時代の話でしょ。今は道路だって、ちゃんと舗装されているのよ。土地なんて、裸じゃ見えないのに、貝がらのせいだなんて」
 おかしいと、かよは笑った。ひろゆきは黙って、ズボンのお尻のポケットから、茶色の定型封筒を取り出した。けんおじさんからの手紙である。封筒の中には二枚の便せん。一枚は、
『今度、新しくできたマンションに引っ越しをしたから、遊びにいらっしゃい。もしかすると、不思議な事が起きるかもしれない』
 とう簡単な文章で、もう一枚は、引っ越し先のマンションまでの道順を書いた地図だった。
 ひろゆきは改めて、地図を眺めた。バスの終点には、今にも枯れて倒れてしまいそうな松の木が三本。そこから南へ一直線の広い道。三百八十三メートル歩くと、右側に十二階建てのマンションがぽつんと立っている。その八階にけんおじさんの部屋があるらしい。
 地図の右下に、東西南北の印が書いてある。N(北)の字の所には、おんどりの絵まで書き込んである丁寧さだ。
「けんおじさんのうちは、海の方から南風が吹いて来るのね」
 かよが地図を覗き込みながら、羨ましそうな声を出した。台風の時なんかすごいだろうなと、ひろゆきは思う。秋は台風のシーズン。もうすぐ秋だ。
 ベンチに座っている人が三人になった。大きな買い物かごを持った三十歳ぐらいの女の人と、五十歳ぐらいの男の人、そしてさっきから座っている病人のようなおばさん。男の人はヒマワリの花のように黄色いタオルで、盛んに顔の汗を拭いていた。
 銀色の車体のバスが来て、ひろゆきとかよが乗り込む。運転手は、シャツのボタンを外して、扇子でばさばさ仰いでいる。白っぽく光る空の下を走って来て、バスの車内はむっとするほどの暑さだ。ひろゆきは窓を大きく開けた。
 冷たい空気は、暖かい空気の方へ流れる。冷たい空気に押された温かい空気は、上へ上へと昇っていく。そして水蒸気になる。空で水蒸気が固まって雲が出来る。だから、ひろゆきはバスの窓を開けて、雲を作ってしまったかも知れないのだ。何しろ、窓から流れ込んでくる冷たい空気で、バスの中は、随分涼しくなったのだから。

                    ☆

 バスは、相変わらず白っぽい道を走り続けて、ニュータウンに向かった。もう辺り一面、平らな土地だ。
 海を埋め立てて作った新しい土地。新しい土地に作られつつある町だから、ニュータウンというのだろう。がくんと、車体が揺れて終点についた。
 終点の所に松の木が三本。これがニュータウンに生えている樹木の全部だ。
「ここ、海だったのに、何で松の木があるのかしら、変ね」
 かよがまた、変にこだわり始めた。本当に、変な事が好きな変な妹だと、ひろゆきは思う。適当に答えておけ。ひろゆきはペラペラと喋った。
「ここはね、きっと、小さな島だったんだよ。小さな島に松の木が三本。夜になるとカモメがいっぱい集まって来たかも知れない」
 ところが、かよはこれが気に入ったらしいのだ。目をパッチリさせてひろゆきを褒めた。
「すごいな。お兄ちゃんって、詩人ね。美しいことを考えちゃうのねえ」
 褒められついでに、ひろゆきは、もう少し喋った。
「しかし、もうカモメはいない。カモメはどこへ行ったんだろう。海を捜しに、遠くの空の下へ、翼を並べて飛び去って行ったのだ」
 かよはすっかり喜んで、パチパチ、拍手をしたほどだ。しかし、暑い。風がまるで無い。土地が平ら過ぎると、風が起きないのだろうか。
「ああ、どこかにアイスクリームでも売ってないかな」
「やっぱり、駄目ね。お兄ちゃんは詩人になれないわ。すぐに食べる事を言うんだから」
「そんな事言ったって、暑いよ。まるで日影が無いんだもん」
「けんおじさんの所へ行けば、きっとクーラーが唸ってるわよ」
「そりゃ、そうだろ、マンションだからな」
 二人は足を速めて、南への一本道を進んだ。手紙の中の地図によれば、三百八十三メートルという事だけど、ずいぶん遠いような気がする。
 道の両側には、まだ鉄骨だけのビルや、ほとんど出来上がり、窓ガラスを拭いている人のいる建物などが、ぽつんぽつんとある。その為に、けんおじさんのいるマンションは見えないのだ。もう一度、ひろゆきは地図を取り出した。
 ――そうだ、ここに小さな字で注意書きがしてある。うっかり忘れるところだった。
『三百五十メートルの所で、道路は色が変わる。アスファルトを海青色に染めてあるのだ。その辺りから、海底渓谷と呼ばれる深い海になっていたからである』
<海底渓谷>って、一体どんなになっていたんだろう。どれくらいの深さだったのだろうか。そして、そこにはどういう魚がいたのか。後で必ず、おじさんに聞こう――
 けんおじさんは、暇さえあれば、外国製の分厚い百科事典を読んでる人だ。海底の説明をしてくれるに違いない。ひろゆきはそう考えながら、道の少し前の方を注意してみた。
 海青色、マリンブルー。あった! 確かに道の色が変わっている。三百五十メートル。あと、三十三メートルで、おじさんの住むマンションがある。
「あれよ、きっと。あの黄土色の建物」
 かよが指さした建物は、まるで本をそのまま大きくして縦にしたような感じのマンションだった。ひろゆきとかよは、一緒に声をそろえて、下から上へ、窓の数を数えた。
「8・9・10・11・12、十二階だ。あれだ、あれだ」
 二人は駆けだして、入り口に突進した。自動ドアがゆっくり、ゆっくりと開く。
「もたもたドア」
 かよが怒鳴りながら、マンションの中に入ると、ドアはすぱっと閉まった。
「変なドアね。閉まる時だけ速くて」
 ひろゆきも一瞬、嫌な気持ちに襲われた。早く八階に行こう。初めての建物って、何となく不安になるものだ。静かなのも、今は気になる。
 エレベーターで八階へ。801・802・803、そして804という部屋は無くて、805・806・807・808と続いていた。一つ一つドアの色が違う。808号のドアは、鮮やかな赤に塗られている。ドアの横のインタホンのスイッチを入れようとして、ひろゆきは慌てて手を引っ込めた。ドアにカニがとまっていたのだ。
 そのカニは、金属製の玩具で、磁石がはめ込んである。ひろゆきの家にはテントウムシの物がある。いつも冷蔵庫の横にとまっていて、電気やガスに関係のある紙切れが挟まれている。
 カニとドアの間にも、折りたたまれた紙が挟んであった。
『やあ、いらっしゃい。仕事の関係で、ご馳走の材料を買っておくことが出来なかった。それを買いに行ってきます。すぐ戻りますから、待っていて下さい。屋上に登ると、海が見えるかも知れません』
 おじさんが書いたメモだ。紙切れは、ひろゆきがポケットにしまった。カニはかよが右の掌に乗せている。
「かわいいなあ。後でおじさんに言って、もらっちゃお」
「そんな事より、かよ、屋上に行ってみよう。海が見えるんだってさ」
 二人はエレベーターで屋上に出た。洗濯物がたくさん干してある。洗濯物をかき分けるようにして、金網に近づいた。屋上は金網で囲まれている。
「海は、こっちのはずだよな」
「そうね、あたしの背中の方が、貝がら町だもん」
 ひろゆきもかよも、目はかなりいい方だ。その目を凝らしてみたけれど、海はどこにも見えない。遠くの空も、白っぽく光っているだけだった。
「駄目だ。海なんか見えない」
「空気が濁っちゃってるのね、きっと」
 ひろゆきは金網を離れ、洗濯物を大きく回ってエレベーターの所に戻ろうとした。かよはまた、洗濯物をかき分ける。
 エレベーターの昇降口に近づこうとして、ひろゆきは、屋上の片隅に奇妙なものを見つけた。
 家の模型かなと、初めは思った。しかし、そんなものを屋上に置いておくはずがないと考えた。
「お兄ちゃん、何してるの。エレベーター、昇って来るわよ」
 反対に、ひろゆきがかよを呼んだ。
「おうい、かよ、来てごらん。変なものがあるんだ」
 ひと目見るなり、かよは、なあんだよ言うような口ぶりで言った。
「お稲荷さんじゃない。こういうの、よく、ビルの屋上にあるのよ」
 お稲荷さんなら見たことがある。ものすごくモダンなビルなのに、屋上にお稲荷さんのような古い物を祀ってあるなんて事が、意外に多い物なのだ。けれど、これがお稲荷さんだろうか。
「おかしいよ。お稲荷さんなら、赤い鳥居があったり、狐が飾ってあったりするはずだろ」
「そう言えば、少し変ね。でも神社かお寺の小さい物には違いないと思うんだけど」
 かよも段々自身が無くなって来たらしい。しゃがみこんで、その小さな家の模型のようなものを調べ始めた。
「ねえ、開けてみようか」
 かよはひろゆきの顔を見上げて、低い声を出した。開けてみろ、と言いたい気持ちを押さえて、ひろゆきは言う。
「よせよ。もし、何かだったら大変だ」
「何かって、何よ」
「例えば“妖怪”がそこに閉じ込められているとか」
「マンガの見過ぎよ、お兄ちゃん。今どき妖怪だなんて」
「そんなら開けてみろよ」
 今度はかよがためらった。小さな扉に手を伸ばしたものの、引っ張るだけの決心がつかない。
「お兄ちゃんも手伝ってよ」
 もしも何か起きたら、一人だけでは嫌なのだ。
 兄妹でしょ。と言うようなかよの顔つき。ひろゆきもしゃがんで、手を伸ばした。
「いいか、開けるぞ」
「うん、開けちゃおう」
 兄妹そろって、小さな扉を開けようとした、その時だ。
「やあ、ここにいたのか」
 と、けんおじさんが現れた。いきなり声を掛けられたので、二人は思わず尻餅をついた。そして、もう扉は開いていた。
「そこに入っているのは、アワビの貝殻が一枚だけだよ。それはおじさんが作った男狭磯(おさし)の墓なんだ」
「“男狭磯”の墓?」
 ひろゆきは聞き返した。かよもすぐ尋ねる。
「ねえ、男狭磯って何? 貝がらの神様?」
「違う。話してやるから、部屋に行こう。今日は空が汚れているから、海は見えない」
 そう言いながら、おじさんは、男狭磯の墓の扉を閉めた。静かに閉めた。

                    ☆

 ――この辺りがまだ、青々とした海だった頃、それも今から千五百年以上も昔の事なんだ。記録によると、允恭(いんぎょう)天皇十四年九月十二日のことである。
 海辺に住む潜水の名人男狭磯は、好きな女への贈り物にするため、大きな真珠を捜しに海へ潜った。昔から、誰も潜った事のない海底の谷間だ。いくら男狭磯でも、あんな所に潜れるはずがないと、人々は言い合ったけれど、男狭磯はそれに挑戦したのだ。
 やがて、男狭磯は巨大なアワビを抱えて舟にたどり着いた。しかし、息は微かで顔は紫色に変わっていた。舟に助け上げられた男狭磯は、手まねでアワビを切り開いてくれと頼んだ。人々がアワビを開くと、中から桃の実ほどもある大きな真珠が出てきた。真珠は日の光にきらきらと輝いた。男狭磯はにっこり笑って目を閉じ、二度とその目を開けなかった。――
「死んでしまったのね」
 かよが、ふうっと溜息を漏らしながらつぶやいた。けんおじさんが頷く。
「ああ、男狭磯は死んだ。男狭磯が命を懸けて挑戦した海底の谷間、海洋学者たちはそれを“海底峡谷”とか“洋谷”とか呼んでいるんだけど、そんなものまで現代の人間は潰して、自分たちの住む土地にしてしまう。何だか嫌な気持ちだよ」
「だから、男狭磯の墓を作ったんだね。おじさんは」
「ああ、せめてもの罪滅ぼしさ。それにもしかしたら」
「もしかしたら、何?」
 この声は、ひろゆきとかよの口から同時に出た。おじさんの言い方が、酷く不気味な感じだったからだ。
「大きな地震でもあれば、また地殻変動と言って、地底の形が変わって、ここが再び海底峡谷になってしまうかも知れない。その時、男狭磯の亡霊が出てきて助けてくれるかもしれない」
「そんなの図々しいわ」
 と、かよが言う。おじさんは笑って、
「嘘だよ。おじさんが男狭磯の墓を作ったのは、現代の人間も、昔のことを少しは考えた方がいいという反省のためさ」
 ひろゆきは尋ねた。
「男狭磯が潜った海の谷間はどれくらいの深さだったの?」
「六十尋(ひろ)というから、約百メートルだね。でも、それが一番深い所という訳じゃなかったと思うよ。海洋学者の調査では、陸地のすぐ近くでも、五十メートルから二千メートルぐらいまでの海底峡谷がたくさん発見されているんだ」
「海ってそんなに深い物なの? すごいなあ」
 かよが男みたいな声で感心した。おじさんは、まるで自分が海洋学者になったみたいな顔で、得意そうに喋る。
「とんでもない。海の深い所と言ったら、一万メートルを超えているんだ。今の所、世界で一番深いと言われているのがマリアナ海溝で、一万一千三十四メートル。日本海溝は世界第14位で八千四百十二メートル」
 食事の支度をしながらも、おじさんは海の事を色々話してくれた。広告ポスターを作るのが仕事のおじさんなのに、いつの間にか海について研究してしまったらしい。
 最後におじさんはひろゆきとかよに言った。
「それじゃ、明日は海を見に行くぞ。自転車屋で自転車を借りて、海までのサイクリングだ」
 おやすみなさいを言って、ひろゆきは窓のカーテンを閉めようとした。その時、遠くの空に赤い物が見えた。火の玉のような赤い輝き。ひろゆきは叫んだ。
「あれは何? おじさん、向こうの空に火の玉が飛んでいる」
「あれは石油コンビナートの煙突から吐き出されているガスが燃えているんだよ。昔はあの辺に漁火(いさりび)と言って、夜、漁をするための明かりが見えたという事だよ。漁火が消えて、ガスが燃える、海が無くなって陸になる。変な世の中だ」

 電気が消え、部屋の中は暗くなった。ひろゆきは目をつぶった。そして再び目を開けた時、ひろゆきは何となく窓の方が気にかかり、身体の向きを変えた。
 ――おかしいな。カーテンは左右からちゃんと閉めたはずなのに、十センチほど間が空いている。やだな、また、あの火の玉が見えてしまう。閉めよう。――そう思って手を伸ばしかけて、ひろゆきは息が詰まるほどに驚いた。目玉だ。青白く光る目玉が二つ、窓ガラスにぴったりと近づいて、ひろゆきの方を見つめている。――誰かが覗いている!――そう思ったけれど、そんなことあるはずがないと気が付いた。ここは八階のマンションなのだ。覗くなんてことは出来るわけがない。サーカスじゃあるまいし。
 ――僕は夢を見ているんだ。きっとそうだ。これは夢に違いない――ひろゆきは、人差し指をがぶりと噛んでみた。夢だから、きっと痛くない。痛くても、夢から覚めることが出来る。
 痛い! 手を振るわせて、痛みを静めた。――駄目だ。これは夢ではないらしい。――目玉が動いた。下から上へ、上から下へ、ゆっくりと動く。ひろゆきは、もう我慢が出来なくなった。隣で寝ている妹のかよの肩をつかんで、揺さぶり起こした。
 かよは小さい頃から目覚めのいい子供だ。起きてすぐに、はっきりした口をきくことが出来る。
「どうしたの、お兄ちゃん、一人でトイレに行けないの?」
「違うよ、あれだよ。窓の外に目玉がいる」
「目玉!?」
 かよは目の辺りにまで垂れ下がっていた髪の毛をかき上げて、ひろゆきの指さす窓を見た。すぐに、かよはベッドから飛び降りて、ドアの方に駆けだす。ひろゆきも、慌ててベッドから飛び降りかけた。
「かよ、逃げるのか。一人で逃げるなんてずるいぞ」
「おじさんを呼んでくるのよ。すぐに呼んでくる」
 相変わらず、目玉はゆっくりと上下に動いている。青白く、どんよりと光りながら。
 かよが戻って来た。おじさんに抱きかかえられるようにしている。スリッパを右の足にだけ履いていた。
「目玉だって?」
 おじさんはひろゆきに尋ねた。ひろゆきは頷き、黙って窓を指さした。おじさんは、じっと眼玉を見つめていたが、低い声でぼそりと言った。
「さっきの地震が原因かな」
「地震?」
 ひろゆきは呟いて、かよと顔を見合わせた。地震なんてあったこと、かよも知らないらしい。
「二時間ほど前に地震があったんだ。君たちは寝ていたから気が付かなかっただろうけどね。それほど大きな地震じゃなかったんだが、その後、何だかこの建物全体がエレベーターにでもなったような、そして下へ下へと降りて行くような、嫌な感じに襲われたんだ。ひょっとすると、これは」
「怖いわよ。おじさん。あたしたち、どうなってしまったの?」
「海の中に居るのかも知れない。それも、相当深い海だ」
 寝る前に聞いた海底峡谷という言葉を思い出した。深さ五十メートルから二千メートルの海底の谷間。そこへ落−ち−た−の−か? ひろゆきは懸命に、心の中でそれを否定しようとした。そんな事、あるはずがない。おじさんは静かに言う。
「この部屋のガラスはどんな水圧にも耐えられる特殊ガラスだ。深海探検に使われる潜水艇バチスカーフの窓ガラスと同じだよ。そして、空気の汚れを自動的にキャッチし、酸素がいっぱいのきれいな空気と入れ替える装置もある。そして電気も自動的に、蓄電池に切り替わる」
 部屋の中が水浸しになり、おぼれ死んでしまう心配がないと分かって、ひろゆきとかよは少し安心した。けれど、このままでは家へも帰れない。学校へも行けない。明後日からは二学期だ。
「でもさあ、どうして深い海の中だっていう事が分かるの?」
 かよは外の目玉とおじさんの顔を見比べながら質問した。いい質問だとひろゆきも思った。おじさんは、詳しく説明してくれた。
「――それじゃあ、二人に聞くけれど、海が何故青いか知っているかい。昔の人は空の青さを映しているから海は青いと考えたりしたんだ。でも、それは違う。普通の水は、太陽光線の七色(虹の七色を思い出せばいい)の内の青以外の六色までは通しやすいけれども、青だけは通さずあちこちに反射してしまう性質がある。だから海全体は青く見える。青を通さない水は、深さ二百メートルを超えると真っ暗闇の世界になってしまう。しかし、その暗闇の中にも、生き物が居るんだ。イソギンチャクやナマコ、ヒトデや二枚貝、それに異脚類(いきゃくるい)と呼ばれる生物などがほとんどだが、魚もいる。魚の中には自分の身体から光を発するものが居る。それもまた、海の中では青く見えるわけだね」
「そうすると、この青い目玉は深海魚という事?」
 ひろゆきは改めて、窓の外の青白い物を見た。
「そうだと思う。ほら、見てごらん。今度は窓の上の方に、ヒトデがやって来た。昔は流れ星が海に落ちるとヒトデになるなんて思われていたらしい。もちろん違うけれど、面白い考え方だ」
「ほんとに、星みたいな形ね」
 かよは感心したように言う。ひろゆきはそんな事に感心してはいられなかった。一体、僕たちはこのままどうなってしまうのだろうと考え、不安で頭の中がいっぱいになって来た。それを素早く見抜いたのだろう、けんおじさんが慰めてくれた。
「心配するなよ、ひろゆき。このマンションは深海探検用のバチスカーフみたいなものさ。深海マンション808号という所かな。明日の朝になったら、海上に浮かび上がるようにしておこう。だから安心して寝なさい」
 そう言って、おじさんは窓のカーテンを閉め、ベッドの近くの椅子に腰かけた。寝てはいけないんだ。寝てはいけない。ひろゆきもかよも、そう思い、眠さとしばらく戦ったけれど、いつの間にか上のまぶたと下のまぶたが仲良くくっついてしまった。

                    ☆

 気が付いた時、ひろゆきとかよの二人は、貝がら町駅の電気時計のすぐ下にいた。時計は改札口の横の切符自動販売機の上の壁にかかっている。そして時刻は三時四十二分。
 ひろゆきとかよは、首をひねりながら顔を見合わせた。電車から降りて改札口を出た時と同じ時刻なのだ。かよは握りしめていた右の掌を、ゆっくり開いた。カニだ。金属製のカニがいる。
「やっぱり、あたしたち、けんおじさんのマンションに行ったんだわ」
「僕たち、けんおじさんの超能力で、瞬間的に動かされたり、見せられたりしたのかもしれない。きっと、そうだ」
 と、ひろゆきはつぶやいた。
「超能力」
 かよもぼそりと呟いて、外を見た。貝がら町。全体が変に白っぽい町。空までが白っぽく光っているのだ。ひろゆきとかよの二人はその空の下に、ニュータウンがある事をはっきりと信じた。そして海底マンション808号の事も……。



おしまい


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