北条早雲


                    ☆

 世に戦国時代と言われるのは、北条早雲から始まったのである。
 その早雲が北条氏五代の基礎を築いたのは、小田原城を己の手に入れてからである。
 伊豆にあった早雲は、箱ね山の向こうの小田原城主・大森氏頼(おおもり・うじより)にしきりに使者を送った。贈り物を持たせて。
 氏頼は首を傾げた。
「なぜ早雲はわしに近づこうとするのだろうか。程よくあしらうに限る」
 それでも早雲は使者を送って機嫌を伺った。
 早雲は伊豆で人望を得たが、時折関東の堀越公方の名を耳にする。三浦半島に逃れている茶々丸の事だ。
 そこで早雲は、後の煩いを絶っておく必要を感じた。
 茶々丸をかくまっている三浦時高(みうら・ときたか)は、一時扇谷上杉の一門、上杉義同(よしあつ)を養子にしたことがあった。しかし、その後で実子が生まれたので、義同を邪魔にし始めた。義同は三浦家を出た。
 早雲はこの義同に、三浦時高を攻めたいのだが兵をあげぬかと誘った。義同はむろん承知だ。
「義同は小田原の大森に行くさ」
 早雲は家老の多目権平(ため・ごんぺい)にそう言った。
「どうしてです?」
「義同の母は大森の出だからさ」
 事実、義同は三浦時高を撃つから兵を貸して欲しいと大森氏頼をたずねた。氏頼は兵を貸し与えた。
 早雲勢と義同勢とが三浦半島の新井城を攻めた。義同は新井城内に住んでいた事があるので、地理には詳しい。たちまち城は落ちた。時高も茶々丸も自ら果てた。新井城は今の油壷だ。
 この時早雲は六十三歳になっていた。
「新九郎さん、運と言うのは不思議なものですね」
 従来からの友人は、まだ新九郎さんと早雲を呼んでいる。新九郎もそれを望んでいた。
「どうしたのです。兵衛さん」
「小田原の、大森氏頼殿が亡くなられたのです」
「ほう」
 早雲は、在竹兵衛(ありたけ・ひょうえ)と顔を見合わせて笑った。
 早雲はさっそく弔問の使者を送った。氏頼の子藤頼は、早雲を信頼するようになっていった。三浦義同の事もあってのことだ。
 さらに早雲に運が巡ってきた。
 扇谷上杉定正(さだまさ)が、馬から落ちて亡くなったのだ。
 上杉氏は、当分兵を出さぬと見て取った。
 早雲は大森藤頼をたずねて言った。
「山狩りをしたので鹿の肉を手土産に持ってまいりました」
「わざわざ、ご隠居が」
 藤頼は喜び迎えた。
「わしはもう年なので、箱根を越えるごとにもう息が切れます」
「いや、この度のお働きをうかがっていますよ」
 新井城攻めを言っているのだ。
「わしは、ただ後ろからついて行っただけですよ。一番のお手柄は、御縁者の三浦義同殿です」
 三浦義同は、三浦時高の所領の全てをそのまま引き継いだのだ。長子義意(よしおき)が新井城主となり、自分は岡崎城に入った。この岡崎城は今の湘南の平塚にあったと言われる。
 早雲は己の功を申し立てはしなかった。
 これがまた大森藤頼の信を深くしたのだ。
 その日、早雲はそのまま帰って行った。
 こうして藤頼と早雲は話が進み、北条氏が外敵に脅かされた時には、大森氏が援兵を出し、大森氏の危機の場合は、北条氏が援護するという約束まで結んだ。
 ある日の事。早雲がまた藤頼を訪ねて来てこう言った。手ぶらであった。
「藤頼殿、わしのような隠居の楽しみは山狩りですが、このごろ伊豆からは猪、鹿もめっきり減りました。どうしてかと調べさせますと、箱根の山の方に住処を移したようです。そこで勢子(せこ:狩りの時、獲物を誘い出し、また逃がさないようにする人夫のこと)を箱根の山に入れまして、伊豆の方に追い立てたいと思っております。そのお許しを得たいと願いに参りました」
「猪、鹿も命が惜しいので御座いましょう。それで伊豆を嫌いましたかね」
 藤頼は笑いながら承知した。
 二、三日後、箱根の山に早雲の勢子が入り、獣を追い立てたという事を藤頼は聞いた。
 そこへ早雲からの使者が来た。
「箱根の山を使わせて頂き、獲物を得ました」
 と言って、鹿の肉を届けて言った。
 藤頼は、
「いつでも使われるといい」
 と言葉を添えた。
 早雲は、使者からそれを聞くと、
「小田原はわしの物になる」
 と、六人の老臣に言った。
 早雲は、小田原城攻めを計っていたのだ。
 数百人の兵を勢子の身なりにして、夜討ちをかけるために石橋、湯元など小田原近くに潜ませた。
 千頭の牛も集めた。
 日の落ちるのを待った。
 牛の角に松明が結び付けられ、火がともされた。
 牛は小田原城に追い込まれた。
 城下の侍屋敷にもいっせいに火が放たれた。風に乗って火は広がって行った。
 数百人の兵たちが、弓矢を射かけた。
 突然、六十をとうに過ぎた早雲の姿が現れた。
「城を乗っ取れ!」
 大声だ。
 大森藤頼は、兵たちと戦わずして城を捨てて逃げた。
 早雲は小田原城を手に入れた。
 六人の老臣に言った。
「わしはこの城が欲しかったのだ。伊勢にいた頃から。興国寺城も韮山城も、この一城のための布石なのさ」
 と、高い声で笑いながら言った。
 小田原城を所領した早雲は、領民たちの治安を第一とした。これは手慣れている事だ。
 小田原城付近の豪族たちも、北条氏に自ら進んで挨拶に来た。
 早雲は、この者たちの土地を保証した。
「箱根の山もわしの庭さ」
 早雲は、初めて満足したようだ。
 この早雲とは、いかなる武将か、話を前に戻すことにする。

                    ☆

 駿河の山西に、小川法栄(ほうえい)の長者屋敷がある。宇都宮峠の西方にあたる。ここらはのどかで仙郷といった感じだ。
 半時前、一人の男衆が現れて、屋敷に駆け込んでいったが、後は静かだ。ほのかな鶏の声が聞こえる。
「こちらで御座います」
 別の男衆が武家を案内してきた。武家は七人もいるが、旅浪人の態だ。しかもみな四十を超えている。
「これは、これは」
 出迎えの女が、驚きに近いほどの喜びのこもった調子で言った。女と言っても武将の女房風だ。
「お連れの方も上がって下さい」
 女は言葉を添えた。
 七人の武家の中でも、年かさの男は出迎えの女と一別以来の挨拶、他の六人は初対面の挨拶が奥座敷であった。
 年かさの男の名は、伊勢新九郎と言った。のちの北条早雲である。
 新九郎は、永享四年(一四三二年)生まれというから、今から五九二年前にあたる。応仁の乱の頃に新九郎は三十六歳で、当時は足利義政の弟義視に仕えていた。義視に従って伊勢(三重県)に移った。
 しばらくして義視は京に戻ったが、新九郎は主家を捨て、そのまま伊勢にとどまった。
 理由は二つある。
 その一つは、足利将軍とその一族に、新九郎の方から見切りをつけた事だ。
 もう一つは、伊勢で親しい六人の友人を得た事だ。その六人とは、今女房風に初対面したばかりの連れの旅浪人たちだ。
 名は在竹兵衛・荒木兵庫・山中才四郎・多目権平・大道寺太郎・荒川又次郎といった。みな伊勢の生まれだ。
 新九郎は、この六人と毎日行ったり来たりして時の流れを語った。
 対した家柄でもなく小身だった新九郎は、時期を待っていたのだ。
 その時期が来たと新九郎は判断した。六人の友人を誘って伊勢を出る事にしたのだ。
「どこに参られますか」
 在竹兵衛が新九郎にたずねた。
「わしの妹が、駿河の今川義忠殿の世話を受けている。ひとまず駿河の地を踏んでみようと思うのだがね」
 新九郎はそう答えた。
 新九郎の妹は北川殿と言って、駿河の守護大名・今川治部(じぶ)大輔義忠の女房となり、長子竜王丸(たつおうまる)を産んでいる。
 六人とも駿河行きを承知した。
「ところで」
 と、荒木兵庫がこう言い出した。
「我らの待ちに待った日が来たようです。他国に参りますと、仲の良いこの七人がいつ仲たがいをしないとも限りません。そこで出立の前に誓っておきたいのです。この七人の内で一人が大名になったなら、他の六人は、その下で家人となって助ける事にしてはどうでしょうか」
 新九郎たちはこれに同意した。
「それはもっともな話です。応仁の乱でもわかるように、恐ろしいのは外敵ではなく、我らの結束の破れる事です。伊勢の神水を飲み合って誓いましょうか」
 こうして七人は駿河に下って来た。
 荒川又次郎は、駿河に入ると様子を探りに出かけて行った。
 日が落ちるころに戻ってきて言った。
「新九郎さんがこれから尋ねようと申された今川義忠殿は、塩見坂で殺されたそうですよ」
「今川殿が」
 と、驚いて口を挟んだのは多目権平だ。
「塩見坂と言うと、遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境だね。で、手を加えた者は?」
 これは山中才四郎だ。
「それは三河の地侍の謀反でしょう」
 そう答えたのは荒川又次郎ではなく新九郎なので、六人はまた驚いた。
 この時荒木兵庫が膝を打って言った。
「新九郎さんは、義忠殿の殺された事を既に承知しておられたのだよ。それで伊勢を出立されたのだ。そうでしょう」
 新九郎は微笑を返しただけだ。
「新九郎さん、これからその仇討ちに」
「いや、私の聞きたいのは、今川家の家督争いです」
「もうそこまでも見抜いておられるのですか」
 荒川又次郎は、呆れたように言った。又次郎は、義忠の急死で今川家に家督争いの起こったことも聞いている。新九郎の妹、北川殿の産んだ子竜王丸を立てようとする正統派と、竜王丸はまだ八才の子供なので、これに代わって壮年の範満(のりみつ)を立てようとする一門派の争いだ。範満は義忠のいとこにあたる。
 義忠の死によって、今川家に家督争いが起こると見抜いたのは、新九郎の他にまだ居る。管領家の扇谷上杉定正だ。定正は、家臣上杉正憲と太田道灌(おおた・どうかん)を駿河に送ってきている。
 表面は今川家の内部争いを鎮めるためだが、事実は駿河を上杉家の手にする事だ。
 北川殿と竜王丸は、家来の案内でここ小川法栄(おがわ・ほうえい)の屋敷に身を隠していたのだ。
 駿河に入った新九郎の一行は、北川殿の隠れ場所を探し始めた。これは荒川又次郎の役目だ。
 北川殿と竜王丸の隠れ場所を知る者を探し当て、今この長者屋敷に案内してきたという次第だ。
 女房風と言ったのは、新九郎の妹北川殿である。
 新九郎は、今川義忠の遺児竜王丸と初対面をした。伯父と甥の間柄だが、身分上は守護大名の長子と旅浪人という事になる。
 新九郎は在竹兵衛などに、
「範満殿を説得して欲しい。わしは上杉管領方の武将太田道灌殿に会おう」
 と言う。
「お一人でですか」
 在竹は危ぶんで問い返す。
「むろんです。太田殿は、わしと同じ四十五歳だそうですよ」
 そこで、新九郎は太田の陣屋に道灌を訪ねて行った。竜王丸の名代と名乗って、旅浪人風の武家が一人乗り込んできたことに、道灌は興味を持ったようだ。
 新九郎は道灌にこう説いた。
「駿河においで頂いたが、これは主義忠の死によって生じました家督争いです。いずれの家中でも見られる私事です。しかしご安心下さい。私が和解させるために伊勢から参りました。私は今川家のいずれの派にも立ちません」
 新九郎は、真実を顔に表して言った。
 あくる日も、新九郎は道灌を訪ねて行ったが、和歌の話をして帰ろうとした。
 道灌は新九郎の手を取って言った。
「駿河は貴殿にお任せします。関東でお会いしましょう」
 道灌はその夕刻、駿河を立ち去って行った。
 三日後、新九郎は道灌に書状を届けた。
 今川家の和解が成立したという意がしたためられていた。
 和解のために活躍をしたのは在竹兵衛で、竜王丸が今川家の家督となった。一説によると、範満を暗殺したという。
「後で災いが起こるといけませんから」
 山中才四郎が笑いながら言った。
 今川家の家督を継いだ竜王丸は名を氏親(うじちか)と改めた。この氏親の今日あるのは、伯父新九郎の働きであることは誰も認める所だ。
 そこで氏親は新九郎に富士郡下方庄十二郷を与えた。
 こうして旅浪人の新九郎は、初めて所領を得た。
 さらに幾度かの戦いがあり、その度に新九郎ら七人が出陣して戦功を立てた。

                    ☆

 新九郎は初老になってから野望を遂げる為行動を起こした人だ。若い武将のように、失敗をしては、再び立てる年齢ではない。新九郎は十分それを承知しているので、全ての事に慎重であった。
 一城を与えられたのも、自分から言い出したのではない。
 氏親は新九郎に、
「一城を与えたいが」
 と言うと、数日考えさせていただきますと言った。そして、
「頂けますなら、興国寺城をお願い致します」
 と、申し出た。同座していた家来たちは、ほうと言った。興国寺城は小城だからだ。許しはすぐ降りた。
 新九郎は興国寺城に移った。ささやかな祝宴をもった。
 在竹兵衛など六人は、
「約束によって、我ら六人家人になります」
 と、その席で言った。
 新九郎は、六人を家老格とした。
 寄って来ると荒木兵庫が、大道寺太郎に低い声で言った。
「新九郎さんが一城の主になられたのは、今川義忠殿の死からですね。噂では三河の地侍を煽動して義忠殿を暗殺したというが」
「それは口にするな」
 大道寺が窘めた。
 多目権平が大声で言った。
「新九郎さん、いや、ご城主。なぜ小城を望まれたのですか」
 これは六人とも心にかかっていた事だ。
 新九郎は、
「ここは伊豆の国境です。伊豆とは庭続きと言ってもいい」
 と、笑いながら答えた。目には鋭い光があった。六人は眉をあげた。
 北伊豆北条の堀越には、足利将軍義政の弟足利政知(まさとも)がいる。堀越公方と呼ばれている。公方は将軍、幕府をさしていう事なので、関東には公方がいるはず無いのだが、関東管領の権力争いが起こり、それまで執事だった扇谷上杉氏と山内上杉が管領を名乗った。関東の豪族たちは、扇谷上杉についたり山内上杉についたりして保身を計った。小競り合いは毎日のように続いた。京都ではこれを抑えようと、足利持氏の三男成氏(なりうじ)を出向させた。成氏は、上杉氏に色々ないきさつから憎しみを持っていた。成氏は鎌倉から古河に移った。ここで古河公方と名乗った。
 上杉氏は、京都に関東公方の東下を願った。そこで下向してきたのが政知で、これは伊豆の北条に屋形を構えた。
 新九郎は、興国寺城から北条に赴いて堀越御所に出仕して、政知のご機嫌伺に通い出した。いつも土産を下げて行った。
 三人の家老たちには家来を集めさせた。武術を奨励した。
 三人の家老たちは、所領地内を歩き百姓の様子を見て回った。利息を薄くして銭や穀物を貸したりした。
 それが伊豆の百姓にも広げられた。
 百姓たちも、興国寺城内に姿を見せるようになった。百姓の中には伊豆の者もいる。
 よく姿を見せる百姓には、貸したものはくれてやった。百姓たちが興国寺城の近くに来て、自分で家を作って住む者もいた。新九郎はこれらを七隊に編成したという。
 新九郎は、堀越御所で田中内膳(ないぜん)という男と会った。新九郎は、内膳に急速に近づいて行った。内膳は伊豆韮山城主北条氏の一族であった。
 この韮山城主北条某かが病死したが、その者には子が無かった。そこで内膳は、今川家に新九郎を養子に迎えたいと申し入れた。今川家では、新九郎の意のままにと答えた。
 ここで新九郎は北条氏を継ぎ、興国寺城と韮山城の主となった。
 家老の荒木兵庫と大道寺太郎がこんな話をしている。
「五十七歳で養子というのは前代未聞のことですね。田中内膳は、わしを養子に迎えようと計ったのですね」
「驚きました。新九郎さんはご無理をなさらないんですが、こうまで深い計りごととはね」
「それに新九郎さんは、韮山城より北条という姓が欲しかったのですよ。北条氏なら鎌倉幕府の実権者の姓ですからね」
 ここで伊勢姓を捨て、北条新九郎氏茂(うじしげ)と名乗った。
 北条新九郎は、その後堀越御所に通った。政知には三人の子があった。長子は茶々丸といって先妻の子であった。次子は京の天竜寺に入り、三男は閏と言った。この閏の母は円満院といった。茶々丸と継母円満院とは折り合わず、茶々丸は事ごとに反抗した。
 この有様を新九郎はよく見聞きして承知していた。
 政知が五十七歳で死んだ。
「茶々丸と円満院の争いは激しくなるだろう」
 新九郎は家老たちにそう言った。
 事実茶々丸が政知の後を継いだことによって円満院との不和は強まった。茶々丸は円満院に恨み言を並べ、つらく当たった。円満院は、
「茶々丸は気が狂うている」
 と言って、家来に命じて牢に閉じ込めてしまった。
 新九郎は、見て見ぬふりをしていた。
 政知の家来で茶々丸に同情する者もおり、茶々丸を牢から出すように勧めたが、円満院は、
「放しては私が殺されます」
 と言った。
 ある日、茶々丸は牢を破って御所に入って円満院と閏を殺害した。円満院の心配が事実となったのだ。
 堀越御所の家来たちも二派に分かれ争いが起こった。
 その頃新九郎は修善寺の湯に逗留していた。
「もう六十歳になるので身体をいたわらなくてはならない」
 湯の宿には話し相手が欲しいというので、いろいろ地元の人を呼び寄せていた。
 新九郎の風体は、湯の宿の客にふさわしく剃髪していた。北条氏は四歳の氏綱(うじつな)に譲って、早雲と号していた。
「隠居ほど伊豆の地勢に詳しい人もおられまい」
 早雲の供をしている家老の一人多目権平が呟いた。
 湯の店の客となって聞き取っていたのだった。
 かねてから不和の扇谷上杉と山内上杉とが戦を起こした。戦場は上州(群馬県)であった。伊豆は山内上杉の分国でもある。堀越御所を守っていた山内上杉の兵たちも、上州に動員されていった。
 早雲は家老六人を集めた。
「今日の日を待っていたぞ」
 早雲の手勢は二百余人、堀越御所を襲うには少ない。
 そこで、早雲は今川氏親から三百余人を借り受けた。
 早雲は、清水港から十艘の船で西伊豆に上陸、あくる日堀川御所を襲った。政知の一周忌というので、御所では法要を営んでいた。御所の内はたちまち大混乱となった。茶々丸は自害をした風を装ったりして、三浦半島の三浦時高の元に逃げた。
 早雲は茶々丸をそのままにして、伊豆の治安に意を注いだ。
 暮らしに困る者には銭と穀物を与えた。病む者には医者を遣わした。
 降伏した者には、従来通りの土地を保証してやった。
「気●がいの茶々丸様より、早雲殿の方が安心というものだ」
 その噂を聞きつけて、逃げ散ったものも集まってきた。
 こうして早雲は、伊豆全土を自分の手に入れた。
 早雲は家老の在竹兵衛に、
「北条の城を修築して欲しいのだが」
 と言った。
「ほう。あの鎌倉の昔からの、名ばかりの城をですか」
 在竹兵衛は、城として役に立ちそうにないので、不審に思って尋ねたのだ。
「いや、これでわしは鎌倉以来の名家、北条になれるのだよ」
 早雲は微笑して言った。伊豆の住人たちは、一層早雲を慕うようになった。

                    ☆

 早雲最後の戦いは、三浦道寸(どうすん)とである。
 小田原城主大森藤頼敗走は、岡崎城の三浦義同の耳にも入った。義同は早雲同様入道して、道寸と名乗っていた。
「早雲という男は恐ろしい。遠大な計略をたてているのだから、その腹の底は読めぬ」
 道寸は息子義意(よしおき)に語った。
 道寸は、かつて早雲の力を得て新井城を手にしたはずなのだが、いつも不安を持つようになった。
 不安を持つとじっとしてはいられず、小田原に兵を送った。
 しかけても、早雲は手出しをしなかった。道寸の兵のなすがままに任せていた。
「早雲も老いぼれたか」
 兵たちは口々に早雲を罵った。
 そして暑い日なので小田原城を取り巻きながら、川で水浴びをする者も出てきた。
「早雲に見せたいものさ」
「口をぽかんと開けて見ているだろうさ」」
 こういう日が続いた。早雲は兵を出す様子もなかった。
 水浴びする道寸の兵の数が増えていった。
 そこへ早雲勢が攻め込んだ。
 馬入川は、たちまち道寸の兵たちの血に染まった。夕焼けが川に落ちたように。
「早雲の戦法と知りながら」
 と、道寸は嘆息した。
 早雲と三浦道寸との攻防戦が始まった。道寸は地勢に明るい三浦半島の新井城にこもった。
「早雲に勝つためには焦ってはならぬ」
 道寸も早雲を手本にしようとした。
 これでは長引くのは当然だ。こうして四年を経たのだ。
 新井城もよく持ちこたえたが、食料が絶えたのだ。新井の城は落ちた。
「道寸殿の首級で御座います」
 早雲の陣屋に道寸の首が届けられた。
 早雲は合掌して言った。
「よく持ちこたえられた」
 老臣の一人が言った。六人の内、病死した者が四人いるのだ。
「道寸殿ですか」
「いや、わしだよ。わしはもう八十五歳ですよ。道寸が敗れるよりわしの死神のお迎えが早かったかもしれないからね」
「それからこれは、道寸殿の辞世で御座います」
「ほう」

“討つ者も討たれる者も土器(かわらけ)よ
  くだけてあとは元の土くれ”

 この歌を早雲は、幾度も繰り返して読んだ。
「この辞世はわしを諭そうとしているようだね。道寸の心は清々しい。わしも砕けて土くれとなる日もそう遠くはあるまい」
 その早雲は、永正十六年(一五一九年)八月に、八十八歳の生涯を閉じた。
 場所は伊豆韮山城内であった。早雲は小田原城に居城する事を嫌がったからだ。



おしまい


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