ふしぎな転校生
「あれぇ?」 プールの淵に腰を掛けて、足をバシャバシャさせていたさぶちゃんが、急に、変な声を出しました。 「あそこにいるの、井上君だぞ」 「ほんとだ」 プールサイドのベンチに腰掛けているのは、確かに井上君です。水泳パンツをはいている所を見ると、プールで泳ぐつもりなのでしょうか。僕達は、びっくりして、顔を見合わせました。 井上君が転校して来てから、もう、三ヶ月くらい経ちます。 ところが、僕達は、井上君が水を飲むところを、まだ一度も見た事がありません。手を洗わなければならない時も、指の先を、ほんのちょっぴり濡らすだけ。雨が降ってこようものなら、真っ青な顔をして、口を利かなくなってしまうのです。 初めの内、僕達は面白がって、随分と井上君をいじめました。掃除の時、水を汲んでこさせようとしたり、わざと雑巾を押し付けたりしました。 井上君は、いつも悲しいような困ったような顔をして、僕達を見つめているだけでした。 ところが、ある日の休み時間の事、井上君もとうとう僕たちのからかいに我慢出来なくなったのか、黙って学校を抜け出すと、そのまま、家へ帰ってしまったのです。 僕たちは、先生に叱られました。 「井上君は、病気なんだ。からかったりしては、駄目じゃないか」 水を怖がる病気なんて、聞いた事ないな、と僕たちは思いました。でも、それっきり井上君をからかうのはやめる事にしました。 その内、とうとう、夏が来ました。学校のプールにも、水が入りました。体育の時間には、みんなで水泳の練習です。僕達は体育の時間が待ち遠しくてたまりませんでした。 でも、井上君だけは、別です。水泳の練習が始まってからと言うもの、体育の時間には、一人で教室に残っているようになりました。僕達が泳いでいる様子を、いつも、窓からじっと眺めているのです。 その井上君が、水泳パンツをはいて、プールサイドのベンチに座っているのですから、びっくりしました。井上君も、一人で教室に残っているのがつまらなくなったのかも知れません。 そう考えた僕たちは、そばに行って、声をかけてみました。 「泳ぐのかい、井上君?」 「ううん」 井上君は、慌てたように首を振りました。 「見てるだけだよ。僕、泳げないんだ」 「だったら、僕達が教えてやる」 「いいよ。僕、泳ぎたくないもん」 「いいじゃないか。来いよ」 僕とさぶちゃんは、井上君の腕をつかんで、ぐいぐいとプールのそばまで引っ張って行きました。 その時、雲っていた空から、大粒の雨が、ばらばらっと落ちてきました。 井上君は、びくっとしたように立ち止まりました。 女の生徒たちが、大騒ぎをしながら、ロッカー・ルームの方へ走って行きます。 「よし、やっちゃえ」 僕は、さぶちゃんに目配せをすると、力いっぱい、井上君の背中を突き飛ばしました。 井上君は、大声を上げて、プールへ落ちました。水しぶきが、僕達の所まで飛んできました。 口を開けて泣きそうな顔をした井上君は、しばらくの間、体中で水をかき回すようにしながら、プールの中で暴れていました。 そして、急に井上君の身体は緑色をした水の中へ溶け込むようにして、見えなくなってしまいました。 雨は、次第に激しくなりました。水しぶきで煙ったようになったプールの中には、男の生徒が五、六人、残っているだけです。しかし、井上君の姿は、どこにも見えませんでした。 さぶちゃんが、ちらっと、僕の顔を見ました。 「どうしたんだろ」 「うん」 僕も、胸がどきどきしてきました。 いきなりさぶちゃんが、バシヤッと、プールの中へ飛び込みました。 僕も、胸いっぱいに息を吸い込むと、さぶちゃんの後を追って水の中に飛び込みました。 水は、緑色に濁っていましたが、水面から差し込んでくる光が、水の中をぼんやりと明るくしていました。 僕は、目を開けたまま、プールの底をすれすれに泳ぎ回りました。浮かび上がって、息を吸い込んでは、また、水に潜りました。しかし、井上君は――井上君の身体は、どこにも、見つかりません。 諦めて、上がろうと思った時、僕は、そいつに気がつきました。 そいつは、緑色の水の中で、銀色に光りながら揺れていました、逃げようとした拍子に、僕の指の先が、そいつに触りました。 突然、そいつの身体の中に、渦巻きが起こったかと思うと、図鑑の写真で見たアンドロメダ星雲のような塊が、僕の方へ覆いかぶさって来ました。 ☆ どうやって、プールから這い上がったのか、自分でもよく分かりません。 激しい雨に打たれながら、僕はぺたっとプールの淵に座り込んでしまいました。 さぶちゃんが、僕の側へ走って来ました。 「どうだった。いたかい?」 「変なもの見たんだ。プールの中で」 「変なものって?」 「良く分からないけど、クラゲの物凄くでっかいのみたいなんだ」 「クラゲ? プールの中にクラゲが?」 さぶちゃんは、呆れたように僕の顔を見つめました。 「おーい、何をしてるんだ、君達」 ロッカー・ルームの方から、先生が歩いて来ました。 井上君がプールに飛び込んだままだと聞くと、先生は顔色を変えました。 他の組の先生たちや、用務員のおじさん達も駆けつけて来て、次々にプールの中へ飛び込みました。 雨で泡立っているような水面に、先生たちの身体が浮かび上がっては、また、すっと隠れました。僕とさぶちゃんは、ずぶぬれになりながら、じっとその様子を見つめていました。 「見つからんな。沈んでいるとすれば、すぐに分かるはずなんだが」 「水を流し出してみるか」 そんな話し声が聞こえて、先生の一人がプールから上がると、放水口の蓋を開くハンドルを、ぐるぐると回し始めました。 水はなかなか減りませんでしたが、次第に、底の方が透き通って見えるようになりました。 プールの中をジャブジャブと歩き回っていた先生や用務員さんたちが、すみっこの所に集まって、何かをささやき始めました。 プールの底は、もう、端から端まで、すっかり透き通って見えるようになりました。しかし、井上君の身体は、どこにも見えないのです。それに、あの銀色に光っていた、クラゲのような奴の身体も。 プールの横腹に、放水口が口を開いていましたが、井上君の身体が流れ出してしまうほどの大きさではありません。そのうえ、放水口の口には、鉄でできた網が、しっかりとはめ込まれているのです。 「どういう事なんだい、これは」 側へ来た先生が、睨みつけるようにして、僕達に言いました。 さぶちゃんが、もじもじと落ち着かない様子で言いました。 「さっき溺れたかと思ったけど、井上君、逃げ出したのかも知れないな」 「逃げ出した?」 「僕達に見つからないように、こっそり、プールから上がって」 「違う!」 僕は思わず、怒鳴ってしまいました。 「井上君、逃げ出したんじゃないよ。僕、見たんだもん」 「見たって、何を?」 「クラゲみたいな形をしたものが、プールの中を泳いでいたんです」 「何だって?」 「井上君、食われてしまったんじゃないのかな。そのクラゲみたいな奴に」 先生はぽかんと顔を見合わせました。 「いい加減な事を言うんじゃない」 先生が、僕の事を睨みつけるようにしながら言いました。 僕は、水の中で見たものの話を、何度も何度も繰り返しました。しかし、誰も、本当にはしてくれません。 井上君はやっぱり、いつかのように家へ逃げ帰ったのだろうという事になりました。 「さっそく、家の方へ電話してみますよ。全く、お騒がせしてしまって」 「いやあ。しかし、あの子がクラゲと言った時は、ちょっと驚きましたなあ」 そんな事を話し合いながら、先生や用務員さん達は、プールから引きあげて行ってしまいました。 さぶちゃんも、ロッカー・ルームで服を着ると、逃げるようにして、教室へ戻って行ってしまいました。 僕は、ふと思いついて、ロッカーの扉を、一つずつ開けていってみました。 最後の列の一番下のロッカーの中に、服が一揃い残っていました。 井上君の着ていた服です。 井上君は、服も着ないで、家へ逃げ帰ったのでしょうか。この激しい雨の中を、水泳パンツをはいただけで――。 僕の頭の中に、もう一度、あいるの姿が浮かび上がりました。アンドロメダ星雲のように渦を巻きながら、僕の方へ覆いかぶさって来た、あいつの姿が。 そう、井上君はやっぱり、あいつに食われてしまったのに違いないのです。 ☆ その夜、僕はまた、緑色に濁った水の中を泳いでいました。 ぼんやりと光っている水の向こうに、鉄の網のはまった小さな穴が、黒々と口を開けていました。音は聞こえませんが、激しい勢いで、水が流れ込んでいる様子です。 穴の近くに、水泳パンツをはいた井上君が立っているのに気が付いて、僕は、すっかり嬉しくなりました。 「井上君、きみ、クラゲに食べられたんじゃなかったのかい」 井上君は、ちょっと笑って答えました。 「食べられなんかしないさ。あのクラゲみたいなのは、僕だったんだもん」 「なんだって?」 「僕、地球の人間じゃないんだ」 「じゃ、きみ、宇宙人?」 「まあね。クラゲみたいに見えたのが、僕のほんとの姿なのさ」 「でも、何だって、地球へ来たりしたのさ。侵略かい?」 「まさか。人間になって、君達と暮らしてみようと思ってさ。僕達、どんなものにでも、姿を変える事が出来るし、どんな所にでも出入りできるんだ。例えば夢の中にだってね」 そう言って井上君は、またちょっと笑いました。 「でも、僕達は、水にだけは弱くてね。雨に濡れただけでも、すぐ、元の姿に戻ってしまう。僕も、プールの側へなんか行かなけりゃ良かったんだけど」 「違うよ、僕達が悪かったんだ」 僕は、照れ隠しに、わざと元気よく叫びました。 「さ、教室へ戻らないか。みんなも、井上君のこと、心配してるよ」 「僕、もう教室へは戻らない。ほんとの姿を見られてしまったんだもん。ただ、君にだけは、さよならを言いたいと思ってね」 井上君は、唇の端を噛みながら、考え込むようにしました。 「でも、いまに、僕達の仲間が、君達の友達になりに来るかも知れないな。その時は、よろしくね」 そう言ったかと思うと、突然、井上君の身体が溶け出して、ぼんやりとした銀色の塊に変わりました。そしてたちまち、銀色の塊は、真っ暗な穴の中へ、するっと吸い込まれてしまいました。 ゴオーッという水の音が響き渡って、僕は、ふっと目を覚ましました。 部屋の中には、朝の光がいっぱいに差し込んでいました。 プールの中で井上君に会ったのも、井上君の身体が溶けるのを見たのも、みんな、夢だったのです。 僕は、夢の中で聞いた井上君の話を、何度も何度も思い返しながら、学校へ出かけて行きました。 一時間目が始まる頃になっても、井上君の席は空っぽのままでした。僕は、落ち着かない気持ちで、じっと自分の机の前に座っていました。 すると、勉強を始める前に、先生が、こんなことを言いました。 「昨日、井上君の姿が、急に見えなくなったね。やっぱり、井上君は、家に戻っていたんだ。だけど、みんなはもう、井上君には会えないぞ」 そう言って、先生は、ぐるっと僕たちの顔を見回しました。 「と言うのはね、昨日、みんなが帰った後で、井上君のお母さんが訪ねて来られた。お母さんがおっしゃるには、おうちの都合で、急に田舎へ帰ることになったそうで、井上君も、今日からは、もう学校へ来ない。みんなにさよならを言えなくて、井上君、たいへん残念がっていたそうだよ」 ☆ こうして、夏も過ぎ、やがて秋になりました。僕はもう、井上君の事も、いつか見た夢の事も、すっかり忘れてしまって、何一つ思い出さないようになりました。 二学期の中頃、僕達の組に、また一人、転校生が入って来ました。 杉山さんという女の生徒です。 ある日、僕は、勉強の時間が終わった後、図書室へ本を読みに行きました。少し離れた所で、杉山さんが、やはり、熱心に本を読んでいました。 時間が経つ内に、図書室の中は、だんだん空っぽになっていきました。杉山さんも、本を戻して、図書室から出て行きました。 しばらくして、僕は気が付きました。いつの間にか、霧のような雨が降り始めていたのです。 雨がひどくならない内に、僕も、家へ帰ることにしました。 かばんを取りに教室へ戻ると、机の前に、杉山さんが座っていました。僕はびっくりして尋ねました。 「帰らないのかい、杉山さん?」 「傘を忘れて来たらしいの。いつもは、かばんの中に入れてあるんだけど」 「平気だよ、これくらいの雨」 「だって……」 杉山さんは、急に黙り込んでしまいました。 その途端、僕の頭の中に、いつかの夢の中で聞いた井上君の言葉が、さあっと浮かび上がりました。 「いまに、僕達の仲間が、君達の友達になりに来るかも知れないな。その時は、よろしくね」 井上君は、本当に、夢の中へ入り込める力を持っていたのではないでしょうか。 いつかの晩、僕の夢の中で井上君が言ったことは、全部、本当の事だったのではないでしょうか。 もしかしたら、この杉山さんも、井上君の仲間かも知れないのです。 『先生の所へ、知らせに行った方がいいのかも知れない』 そんな考えが、ちらっと通り過ぎました。 でも僕は先生に、また叱られると思いました。 そして、すぐに、自分の机の中へ手を突っ込みました。そこに僕は、傘を一本置き忘れてあったのです。 「杉山さん。この傘、さして行きなよ」 「まあ」 杉山さんは、びっくりしたように、僕の顔を見つめました。 僕はそのまま、教室を飛び出すと、一思いに雨の中へ駆け出しました。 校門のそばで、僕はちょっと、後ろを振り返ってみました。 昇降口の所に杉山さんが立って、僕の傘を広げようとしているのが見えました。 おしまい 戻る |