えもの



                    ☆

 谷の片側は暗かった。こんもりとした木の茂みのためだった。だが、暗いと言っても、どこか柔らかいゆったりとした気配が、辺りに立ち込めていた。
 山のてっぺんには、森の梢が見えた。この森は、松や栂(ツガ)などの大木がそびえていて、まだ一度も人間の踏み込んだことのない場所だった。
 ちょうど上りかけたオレンジ色の満月を背にして、森の梢はくっきりと浮かび出るように輝いていた。少しも風のない静かな晩だった。
 月の光が、対岸の崖の上を妙に明るく照らしていた。対岸は、谷の西側にあたり、東側と違って木はほとんど無い。
 大きな岩が、我が物顔に突き出ていて、そこにいじけたような杜松(ネズ)の木が、何本か立っているだけだった。そして、細長い水槽のような谷間から流れる水の音が、ゴウゴウと響いていた。月の光を浴びた崖の下の方に、細長い白い岩があった。
 突然、その岩の陰から一匹のヒョウが音もなく姿を現した。昼間だったらヒョウの毛皮は黄褐色の暖かそうな色をしているはずだった。だが山陰に半分隠れた月の光を浴びたヒョウの毛皮は、まるで幻のようなぼんやりとした灰色に見えた。
 ヒョウはすべすべした丸い頭を上げると、段々と輝き始めてきた月を見つめた。それから月に向かって、鋭い声でウォーッと吠えた。
 その声は恐ろしかった。だが、どこか物悲しく聞こえる吠え声だった。ヒョウは、雌のヒョウを呼んだのだ。雌のヒョウに、
「獲物を探しに行く時間だぞ」
 と、知らせたのである。
 その頃、雌ヒョウは岩かげの穴の中で、二匹の子供たちに乳をやっていた。その為、雌ヒョウはすぐに返事が出来なかった。
 ヒョウの吠え声に驚かされたのは、谷の向こうのモミの大木に巣を作っていたつがいのカラス達だった。カラス達は目を覚ますと、しわがれた声でカアカア鳴き出した。
 この三年間、カラス達はずっと、この場所に巣を作っていた。そして毎晩のようにヒョウの吠え声に起こされては、しわがれた声で文句を言っていた。
 雌ヒョウの返事が無いので、雄のヒョウは落ち着かない様子で、岩のへりをあちこちに十歩ぐらいずつ行ったり、来たりした。その間も、ヒョウの緑の目は、かっと開かれていて、登る月を見続けていた。
 しなやかで、強そうなヒョウの尾が、イライラしたようにぴくぴく動いた。でも、どんなことがあっても、ヒョウは物音を立てるようなことはしなかった。
 間もなく、反射光と一緒になって、月の光が広がり、崖の下の方まで明るくなった。


 すると、白い岩の下にある鹿の骨や角が、くっきりと映し出された。これは、二匹のヒョウが鹿を捕らえ、ここまで引きずって来て食べた後だった。子ヒョウたちが乳を飲み終わったので、雌ヒョウは出かける用意をした。雌ヒョウはとても空腹だった。
「さあ、獲物を捕りに行かなくては」
 そう、雌ヒョウは思った。
 雌ヒョウはするりとすばしっこく月の光の中に、姿を現した。そして、雄のヒョウに負けない恐ろしい声で、ウォーンと月に向かって吠えた。
 つがいのカラスが、その声にまた目を覚まし、しわがれた声でカアカア鳴き出した。
 二匹のヒョウは、音もたてずに崖を上ると、高原の森の中にそっと入っていった。
 二匹のヒョウは、酷く腹を空かせていた。二日間というものほとんど獲物にありつけなかった。たまに獲物があっても、それは雌のヒョウがあらかた食べてしまった。
 雌ヒョウは生まれたばかりの、まだ目も開かない子ヒョウに乳をやらなければならなかった。乳が出るためには、雌ヒョウは充分に食事をしなければならなかったのだ。
 ヒョウたちがこんな事になったのには、訳があった。それは最近、開拓にやって来た人間たちが、原始林を散々に荒らし始め、ヒョウたちの獲物を追い払ってしまったからだった。
 二匹のヒョウが、今、ひもじい思いをしているのもそのためだったし、今夜、二匹が揃って出かけるのも、そのためだった。
 二匹のヒョウは、今夜、人間たちが寝静まるのを待って、人間たちが飼っている羊を襲おうと考えていた。
 深い森のところどころに、月の光が差し込んでいた。その中を、二匹のヒョウは音もたてずに素早く進んでいった。
 用心深く踏み出す柔らかい足の下で、時々枯れ枝がピシッと鳴った。
 低い木に身体が触れると、眠っていたヒタキやゴジュウカラが、目を覚ましてギャアギャア騒ぎ立てた。
 二匹のヒョウは、一時間ほどこっそりと音もたてずに歩き続けた。そして、時々もうすっかり空に昇った月を見上げた。
 突然、ヒョウたちの耳に声が聞こえて来た。それは、ずっと遠くの方のごく微かな声だった。
 でも、しいんと静まり返った北の大きな森の中から、その声は、はっきりと聞こえて来た。
 二匹のヒョウは足を止めると、じっと耳を澄ませた。
 それは、人間の子供の泣き声だった。長い大きな泣き声。誰も慰めるものが居ないような、酷く悲しそうな泣き声だった。
 二匹のヒョウは、その声を聞くと、向きを変え、泣き声のする方に向かって、滑るように歩き出した。
 ヒョウたちは、まだ開拓地のはずれにも来ていなかった。だが二匹のヒョウは、この森の奥に一軒家があり、その家と隣の家とは一マイル(約一・六キロ)以上も離れている事を知っていた。
(あそこの家の子供が泣いているのだ。きっと、親がいないのに違いない)
 二匹のヒョウはそう考え、突然目を輝かせた。
(しめた。ようやく、ひもじい思いから抜け出せるぞ)

                    ☆

 前の日の昼頃まで、この一件屋には人が住んでいた。
 住んでいたのは酒飲みのだらしのない男と、シッドという七つになる一人息子だった。シッドの父親は、毎日毎日三マイルも離れた町角の居酒屋で、一日中酒を飲み続けていた。だが開拓地では働かなくては生きていけない。
 シッドの父親は、その事に気が付くと、この土地に居るのが急に嫌になった。
 そこで、怠けても暮らせる土地に行こうと考えて、昨日の午後、シッドを連れて出かけてしまったのである。
 シッドは、父親が酒を飲みに行っている間、いつも一人で留守番をしていなくてはならなかった。だが七つの子供が、大人しく留守番などできるわけがなかった。
 シッドは一マイル以上も離れた、隣の家に出かけて行って、そこの家の五つの男の子、ウィリアムと、いつも遊んでいた。
 ウィリアムの父親は働き者で、開拓の成功者だった。
 よく耕した広い開墾地の真ん中に、がっしりした木造の家を建てて住んでいた。
 たいてい、シッドがウィリアムの家に遊びに行っていたが、ごくたまには、ウィリアムの方でこっそりシッドの家に遊びに行くことがあった。
 シッドの家に行くのには、森のでこぼこした寂しい一本道を通らなくてはならなかった。
 ウィリアムは、父親や母親からシッドの家に行ってはいけないと言われていたが、時々どうしても、行きたくてたまらなくなるのだった。それも無理もないことかも知れなかった。何しろ、この辺で遊び相手と言えば、シッド一人しかいないのだから。
 でも、ウィリアムがシッドの家に遊びに行ったことは、すぐ家の人に分かってしまった。それはシッドから、いろいろ悪い言葉を教わって来るからだった。
 だが、シッドは教えようと思って悪い言葉をウィリアムに教えたわけではない。シッドはろくでなしの父親と二人きりで暮らしているので、悪い言葉しか知らなかったのだ。
 そんな事を知らないウィリアムの父親は、ウィリアムに、
「もう二度と、あの子と遊んではいけない」
 と言い渡した。
 そのため子供たちは遊べなくなってしまった。それがウィリアムにとっても、シッドにとっても、どんなに辛いことなのか、大人たちは知らなかった。
 何日か経つと、ウィリアムはシッドに会いたくてたまらなくなった。
 そこで、その日の夕方、ウィリアムはこっそり家を抜け出すと、森の中のさびしい一本道を歩いて、シッドの家に出かけて行った。


 ところが、シッドの家に来て見ると、家には誰もいなかった。ウィリアムはシッドたちが、昨日引っ越したことを知らなかったのである。
「シッド! シッド!」
 ウィリアムがいくら呼んでも、シッドの姿は現れなかった。
 皮の蝶番で止めたドアは、開けっ放しになっていた。たった一つの部屋に、申し訳みたいに置いてあった家具は、影も形も見えなかった。
 ぐらぐらする鳥小屋を覗くと、鷹のように荒っぽいヒヨコが二羽飛び出してきた。
 ウィリアムはざらざらした石の敷居に腰を下ろすと、何故か急に悲しくなって、しくしく泣きだした。
 やがて気が付くと、小さな畑に映る物の影が、ひどく長くなっていた。
 ウィリアムはそれを見ると、突然家に帰るのが恐ろしくなってきた。辺りには、闇が忍び寄っていた。
 そこで、震えながら家の中に入った。ドアを閉めようとしたが、ドアはすぐに開いてしまった。
 日がとっぷり暮れるころ、ウィリアムは部屋の一番奥にうずくまった。
 怖さと寂しさでウィリアムは、もう我慢が出来なくなった。堰を切ったようにわあわあ泣き出した。ときどき、涙にむせんで息が切れた。すると、ぞっとするような静けさが戻って来た。
 ウィリアムは耳を澄まして、誰か来ないか、と様子を伺った。
 それから、また甲高い声で泣き出した。男の子の鳴き声は、静かな夜を驚かせ、深い森を突き抜けていった。
 その泣き声が、獲物を捜しに来た二匹の大きなヒョウの耳に入ったのだった。

                    ☆

 男の子の泣いている一件屋は、開拓地と書いた口を結ぶ広い道路から、四分の一マイルぐらい奥にあった。
 丁度その頃、この道路を一人の男が、疲れた足を引きずるようにして歩いていた。


 男は一日中歩き通しだった。でも、もう、家は近い。
「家に帰ったら、ゆっくり休もう」
 男はそう考えた。
 すると、また元気が出てきて、男の足は速くなった。男は、肩に猟銃を担いでいた。そして、町で買い込んだ品物を銃につるしていた。
 この男は、ウィリアムの父親だった。
 街へ行くときは、いつも馬に乗って出かけるのだが、ちょうど馬のお腹に子供が出来たので、その日は歩いて町まで出かけて行ったのである。
 男は、シッドの家に入っていく道の前を通り過ぎた。それから二百メートルほど歩いていくと、ふいに、森の中から子供の泣き声が聞こえてきた。
 彼は驚いて立ち止まった。それから荷物を道におろすと、じっと泣き声のする方に耳を澄まし、目を凝らした。
 ちょうどその頃だった。森の中で、二匹のヒョウが立ち止まったのは。ヒョウの耳は、人間よりも鋭い。ヒョウたちは、この男よりもっと遠い所から、人間の泣き声を聞きつけていた。
 男には、どこから泣き声が聞こえてくるのかすぐにわかった。
「そうだ、あの家に違いない」
 彼は森の中の一軒家を思い出した。ウィリアムと同じように、この父親も、一軒家の親子が昨日ここから引っ越していったことを知らなかった。
 男はその家に住んでいる酔っ払いの父親を酷く馬鹿にしていた。また、自分の子供に悪い言葉を教えるシッドの事も、良くは思っていなかった。
 だが、酷く悲しそうな泣き声を聞くと、男はそのまま黙って通り過ぎてしまう気にはなれなかった。
「可哀想に……」
 と、男は少し腹を立てて呟いた。
「あの子の父親は、また町の酒場で酔っぱらっているのだろう。子供が寂しがって泣いているというのに……」
 それから男はまた荷物を担ぐと、大股で歩き出そうとした。
 その時、子供は前よりも一層悲しそうに、ありったけの声を張り上げて泣き出した。
「一体、どうしたものだろう……」
 男はまた呟いた。男は、もうすっかり疲れ切っていた。一刻も早く家に帰りたかった。
 湯気の立つ夕食を作って、彼の帰りを待っている妻の顔が浮かんできた。
 もう一度後戻りして、切り株やぬかるみを通って森の中の一軒家に行くのは考えただけでも辛いことだった。
 だが、怯え切ったような子供の泣き声を聞くと、そのまま立ち去るわけにもいかなくなった。
「あの馬鹿者め! あいつのためにひどい目に遭ってしまった」
 彼は本気で、酔っ払いの父親を罵った。
 その時、突然、別の考えが男の胸に浮かんできた。それは、こういう考えだった。
「もし、自分の子供が同じような目に遭ったらどうだろう?」
 すると、男は急に優しい気持ちになった。
 彼は回れ右した。それから包みを藪の陰に置くと、猟銃を握り締め、急いで森の中の一軒家に向かって行った。


 歩きながら、彼は独り言を言った。
「あの酔っ払いの馬鹿者め――何も食べ物をやらずに、子供を置き去りにしたのに違いない。さもなければ、締め出されてすっかり怯え切っているのかも知れん。可哀想に……」
 そう思うと、男の足は一層早くなった。

                    ☆

 飢えた二匹のヒョウは、小屋に近づいた。子供の泣き声が前よりもはっきり聞こえてきた。
 ヒョウは足を速めた。
 二匹のヒョウの目は、普段よりも大きく丸くなり、緑の瞳は一層濃くなって、燃えるように光った。
 二匹のヒョウは、泣き声が子供だという事を知っていた。また、泣き声の調子から、子供が一人ぼっちでいる事にも感づいていた。
 ヒョウたちは、空腹のために必死だった。何としてでも、獲物を捕まえなくてはならないと思い詰めていた。ヒョウが人間を殺すことは、人間の目から見ればむごたらしいことに違いない。だがヒョウにしてみれば、それも仕方のないことだったのである。
 何故かと言うとヒョウたちには、月の光の指す洞穴の中に、目の開かない小さな赤ん坊が待っていたからだ。餌にありつけなければ、あの子供たちは死んでしまうのだ。
 二匹のヒョウは、濡れたハンノキの藪を、身をかがめて通り抜け、野生の雑木の垣根を軽々と飛び越えた。それから月が明るく照らしている畑の端に立ち止まって、一軒家をじっと眺めまわした。
 その時、畑の向こう側の森の暗い道から、ウィリアムの父親が姿を現した。父親は、二匹の獣が頭を下げ、鼻づらを突き出し、開け放したドアの方へ滑るように近づいていくのを見つけた。

                    ☆

 子供はちょっと泣き止んだ。だが、しばらくすると、また大声で泣き出した。寂しさと恐ろしさで、すっかり我を忘れた泣き声だった。
 父親は、ふと、自分の子供、ウィリアムの事を考えた。ウィリアムは、今頃母親と一緒にいて、危険など何一つ感ぜずに遊んでいるに違いない。それに比べて、この家の子供はどうだろう。親からほったらかしにされて、恐ろしいけものに襲われようとしているのだ。
「良かった! 来て、本当に良かった!」
 父親は呟いた。それから片膝をつくと、獣に向かってしっかりと狙いを定めた。
 銃声が轟いた。
 ライフル銃のように激しい音ではなかったが、弾は雌ヒョウの腰を見事に貫いた。雌ヒョウは倒れると、激しく唸り、前足で土をかいた。
 オスのヒョウは酷くびっくりして、心配そうに雌ヒョウの周りを回った。だが、すぐに銃から立ち上る煙に気が付き、男がこちらに向かって二発目の弾を撃とうとしているのを見た。
 ヒョウは甲高い唸り声をあげると、さっと身を躍らせて、男に飛びかかっていった。その時、また銃声が轟き、弾がヒョウの胸に撃ち込まれた。
 だが、ヒョウはまるで何も感じないようだった。慌てて新しい弾を込めようとする男を地面に押し倒し、鋭い牙で肩に噛みついた。


 男は黙ったまま指先に力を込めて、がむしゃらにヒョウののどを締め付けた。もがいている内に、男は少し、身体が楽になった。よろけながら立ち上がろうとすると、急にヒョウの身体がぐたっとなって、男にのしかかって来た。ヒョウは死んでいた。あわやと言う所で、命中弾がようやく効き目を現したのだ。
 男はヒョウの身体を払いのけて立ち上がった。
 短かったが、ぞっとするような戦いを振り返って、男は身震いした。ヒョウに噛まれた肩から、どくどくと血が流れていた。
 彼は、家のドアに近づき中を覗き込んだ。真っ暗な家の中で、まだ、しくしく泣き声がしていた。
「ぼうや、もう怖がらなくてもいいぞ」
 と、彼は子供が安心するように優しく言った。
「さあ、わしの家に連れて行ってやろう。可哀想にお前のパパが面倒を見てくれないのならわしが代わりに世話をしてやる」
 それを聞くと、部屋の隅で、子供が突然、喜びの声を張り上げた。その声に男はどきりとした。
「パパ、パパ、パパがきっと来てくれると思ったよ、暗くなって、とっても怖かったよ」
 自分の子供ウィリアムが、男の腕の中に飛び込んできた。そして、震えながら父親にしがみついた。
 男は、入り口の敷居に腰を下ろすと、胸にしっかりウィリアムを抱きしめた。
「危ない所だった。もう少しであのまま行ってしまう所だった。もし、あのまま行ってしまったら、どういう事になっていたろう」


 そう思うと、急に大粒の汗が父親の額から噴き出してきた。

                    ☆

 それから何週間かのち、ウィリアムの父親は自分の飼っていた羊を食い殺した熊を追跡していた。
 新しい足跡をつけていくと、深い谷の斜面に出た。
 谷に行くと、大きな白い岩の陰に浅い洞穴があった。
「これは獣の巣に違いない」
 ウィリアムの父親は、用心深く穴の中に入っていった。すると、穴の中には獣が食い荒らしたらしい骨が散らばっていた。そして、一番奥まで入っていくと、乾いた草の上に二匹の小さなヒョウが死んでいるのが見つかった。



おしまい


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