ボロディン号のひみつ


                    ☆

 ボロディン号って、一体何の名前なんだろう?
 そう、自転車の名前だ。デンエモン君という少年が持っている、オンボロ自転車の名前だ。デンエモンだなんて、随分長ったらしい名前だが、ちゃあんと千本山一〇〇番地に住んでいるんだから仕方がない。
「千本山一〇〇番地、デンエモン殿」
「千本山一〇〇番地、クロチュウ様」
 こんな宛名でもぴしゃっと郵便が届くから不思議みたいだ。
 千本山一〇〇番地には、同じようなバラック住宅が三十軒と少しあるけれど、郵便局の「差立係」の係長さんは、
「ほら、これはね、カボチャの日よけのある家さ、デンエモン君という子の家はな」とか、「クロチュウという子の家は、入り口に鏡が貼ってある家さ」とか言って、郵便配達の一年生に教えるのだ。

                    ☆

「デンエモン、その自転車どうしたの?」
 デンエモンが自転車を手に入れた日、さっそく飛んできたのが親友のクロチュウだ。二人は隣同士、垣根なんかあるのか分かりゃあしない。一本のロープが張ってあるきりだ。
 デンエモンはにこっと笑った。
「おれ、そのにこにこっに弱いんだ。どこで買った? それ」
「うん、ヨセ屋で買ったんだ」
「へえ、ヨセ屋で買ったの?」
 クロチュウはびっくりした。だって、ヨセ屋というのは古新聞や古テレビや、よれよれのシーツなんかを、どかんとまとめて買ってくれるところなのだ。デンエモンのお母さんはリヤカーを引いて、古新聞や古テレビなどを買い集める商売だった。
「おれ、五十円でこれを買ったんだ」
 デンエモンはそう言って、野球帽を裏返して見せた。Gマークの裏側に五十円玉を縫い付けていたらしく、そこだけがぽっかり白くなっている。
「ほんとだ! でも、とってもいい自転車だ」
「ありがと」
 デンエモンは嬉しそうな顔で笑った。
 クロチュウは、この「ありがと」にも弱かった。さっそく自転車の手入れを手伝い始めた。
「この自転車な、もうちょっとでペチャンコにされるところだったんだ。プレスの大きな穴に、冷蔵庫と一緒に放り込まれてさ。危機一髪でせんべいにされてしまう所だったのさ」
「でもさ、どうしてこの自転車が気に入ったの?」
「そこさ、クロチュウ、ほら、これ見ろよ。このマスコット!」
 デンエモンは前輪の泥除けの上を指さした。泥除けのカバーの上には、赤錆びにはなっているが、格好のいい馬のマスコットが、前足を二本ぐいと曲げてとんでいた。
「わあっ! すごい。これサラブレッドだよね」
「うん、おれ、馬の名前は知らないけど、この自転車の名前、ボロディン号という名前に決めたんだ」
 とにかく、このデンエモン少年は、元気で愉快な少年だ。デンエモンばかりではない。デンエモンのお母さんも元気で朗らかなお母さんだ。誰も「くず鉄屋のおばさん」などと呼ぶ者はいない。いつも赤い靴を履いてリヤカーを引いているので、みんな「赤い靴のおばさん」と呼んでいる。どこの家から屑を買って出る時も、決して「さようなら」とは言わない。「行って来まーす!」と、大きな声で出て行くのが特徴だ。

                    ☆

 翌日、デンエモンが学校から帰ってみると、カボチャの日陰に置いてあったボロディン号が、まるで生まれ変わったようにピカピカになっていた。蓋の取れていたベルも、ちゃんと蓋がついているし、赤錆のハンドルも眩いような銀色に塗り替わっていた。
「おかあさーん!」
 と、家の中へ飛び込んだが、お母さんはまだ仕事から帰っていないようだ。クロチュウと二人で首をひねっていると、パリさんという、やはり千本山部落に住んでいるおじさんが、ひょっこり現れた。
「どうだ、ぱりっとした自転車になっただろう」
 パリさんは、いつものように片手に番傘を下げていた。雨の日は雨傘に、カンカン照りの日は日傘になる、パリさんのトレードマークの傘である。
「あれっ! じゃあ、パリさんがこんなに綺麗にしてくれたの?」
 デンエモンは目をぱちぱちさせて言った。
「そうさ、真っ白になったマスコットの馬を見ろ。まるで日本ダービーのトップをきっている馬のようじゃないか」
「うん、かっこいい」
 なるほど、パリさんの言う通りだ。馬は今にもボロディン号を離れ、風を切って飛び出しそうな姿である。
 デンエモンはすっかり嬉しくなった。お父さんのいないデンエモンは、パリさんが、何だかお父さんのように頼もしく思えてくる。
「パリさん、このボロディン号に乗ってみたい?」
「はははっ、もうこっそり乗ってみたよ。子供用の自転車だから乗りにくかったが、なかなか調子はいいようだ。しかし、前に乗っていた子が癖をつけたのかな、ハンドルがちょっと左利きで、左へ左へ走りたがる癖がある」
“前に乗っていた子”と聞いて、デンエモンは後輪のカバーに目をやった。前の持ち主の住所と名前が、そこに書かれてあったはずだ。
「あれっ、ここも消してしまったんだね」
 住所も名前も赤いエナメルで、きれいさっぱり塗りこめられてしまっている。
「そうさ。今度はボロディン号とでも大きく書いてやるか」
「うん、それがいいや。だけどさ、パリさん。ここには何を入れたらいいの?」
 デンエモンは、サドルの後ろに着いた皮の工具袋を開いてみた。
「ああそこにはな、マッチ箱ぐらいの、小さなラジオを入れるといいぞ。今度パリさんが、いいのを探して来てやるよ。パリさんはな、色んなお屋敷に出入りして、何でも修繕する便利屋さんだからな。要らないものは何でも譲ってもらうんだ」
「ふーん、便利だねえ」
 デンエモンが工具袋の蓋をよく見ると、昨日は気がつかなかったが、蓋の所は皮が二重になっており、縫い糸がほころび、ちらりと紙切れのような物が顔をのぞかせていた。こじ開けて引っ張り出して見ると、ちっちゃなパス入れの中に、名刺ぐらいの大きさのカードが、二つ折りになって入っていた。
「あれえ、変なものがあるぞ」
 カードを広げてみると、こんなことが書かれてあった。
『うしわかまるこないとこわいぞ』
 丸も点も無い、鉛筆の走り書きである。
「パリさん、これ何の意味?」
「さあ、弁慶が牛若丸に出した手紙かも知れんが、あの頃、鉛筆があったかな?」
 三人は、そこで相談をした。
 クロチュウが、昨日、前の持ち主の住所と名前をちゃんと覚えていたので、その子を訪ねてみようという事になった。
「こんなに綺麗な自転車になったのを見ると、悔しがるかもしれんぞ。最近は、ゴミロンとかゴミラなどといって、ちょっと使っちゃポイと捨ててしまうのが流行っているから、いい薬になるかも知れん。テレビが四十円、冷蔵庫が八十円、ミシンが百円、はははあ、このパリさん、泣けて来るね、テンポ狂っちゃうね」
 しかし、それよりも、デンエモンは、この謎のカードの事が知りたかったのである。

                    ☆

『にじがおか-B6-303・かどの・まもる』
 これが、クロチュウの覚えていた番地と名前である。
 よせばいいのに、子供好きのパリさんは、デンエモンとクロチュウの後について千本山を下って行った。
 不思議な事もあるものだ。下り坂だというのに、二人乗りしたボロディン号は、のろのろのろのろ、パリさんの歩くスピードに合わせて下って行けるのだ。
「わあーい! 不思議な自転車! 魔法の自転車! サーカスの自転車!」
 クロチュウは、デンエモンの腰に捕まりながら、感激の声を張り上げた。
 千本山を下りたところが地下鉄の終点の駅になっていた。虹ヶ丘の駅は、ここから一つ目の駅なのだ。
 ところがこの時、地下鉄の階段を、一人の外国人の女が駆け上がって来た。金色のふさふさした髪の毛をなびかせ、慌てふためいて、偶然三人の方へやって来た。
「ハロー、ミセス=ケリーじゃありませんか」
 パリさんが、番傘を上げて声をかけた。
「オー、ミスター=パリ!」
 女の人は、ぎょっとして立ち止まった。
「アナタ、ミスター=パリデシタネ。ワタクシ困リマシタ。大変困リマシタ。イキジゴクデス」
「いきじごく?」
「イエース。コノ世ノ、地獄デス」
「ミセス=ケリー。でも、生き地獄にしてはのんきそうじゃありませんか、アイスクリンなど手に持って」
「オー、クリームネ、コレ舐メナガラ歩クノ、ワタクシノオ国ノ、オ作法デス。“ジゴク”暑イノデ、イマ、地下鉄ノ店デ買イマシタ。人ヲ探シテイマス」
 パリさんは、ミセス=ケリーの家へペンキを塗りに行ったことがあるので、それで顔見知りになったのだ。
 話によると、ミセス=ケリーは、明日、飛行機でアメリカへ帰ることになっていたらしい。荷物もすっかり送りだし、ガラクタ物は売り払ってさばさばしていた所だった。ところが、ついさっき、外出中の主人ミスター=ケリーが帰って来て、「昨日の新聞はないか」と探し出したという。
「アラ、古新聞ナンカ、ミンナ、クズ屋サンニ売リマシタワ」
 ミセス=ケリーがそう言うと、ミスター=ケリーはいきなりミセス=ケリーをぶん殴ったという事だ。
「ハイ、ソノ昨日ノ新聞ノ中ニ、封筒ガ入ッテイタトイイマス。封筒ノ中ニ、飛行機ノ切符、パスポート、オ金ドッサリ入ッテイマシタ」
「だったら、アメリカへ帰れないじゃありませんか」
「オー、ソウナノデス。イキジゴクナノデス。ミスター=パリ」
 ミセス=ケリーはそこまで説明すると、泣きじゃくりながらアイスクリームをペロペロ舐めた。
「どんな屑屋さんに売ったのです」
「ソノカタ、帽子ヲ被ッテイマシタ。下駄ハイテ、ネクタイ締メテイマシタ。オ爺サンデス。『新聞ハ無イカネ』ッテ来マシタ」
「チンブンスキーさんだ!」
 デンエモンとクロチュウが同時に叫んだ。
 チンブンスキーさんというのは、やはり千本山のメンバーだ。『資源回収組合連合会』の、ちゃんとした会員だ。古新聞を専門に買い集める屑屋さんだった。
 こうなると、話は急テンポだ。
 デンエモンとクロチュウは、ヨセ屋へ向かってボロディン号をとばすことになった。
 ミセス=ケリーとパリさんは、タクシーを拾ってヨセ屋へ駆けつけるのだ。
 ボロディン号は、矢のように走った。
 全く不思議な自転車だ。どの交差点に差し掛かっても、決まって信号はぴたっと青。しかも上り坂に来ると、かえってスピードが出るのだから不思議だった。
 自動車にも負けない凄いスピード!
 走れ、ボロディン号! 走れ、ボロディン号!

                    ☆

 ヨセ屋の本当の名前は『株式会社・石丸商会』だ。デンエモン達が石丸商会の、青いプラスチックの丸屋根に覆われた工場に飛びこむと、ヨセ屋の社長は自動車をぺちゃんこにする作業を監督していた。
「こらこら、子供は危ない!」
 社長は大変、機嫌が悪かった。
 ボロディン号を、あんなに気前よく救ってくれた人とは思えぬぐらい、怖い顔で突っ立っている。
「何? 新聞紙の山を探してくれだって? ご冗談おっしゃっては困りますね、諸君。今日みたいな、こんないい天気の日に、仕事をストップさせたらどうなると思うんだ」
 社長はデンエモンの話を聞いても、首を横に振るだけだった。なるほど、次から次に、『買い子さん(屑を買い集める人の事)』達のリヤカーが到着する。丸屋根工場の横の広場からは、トラックから運転手さんが首を伸ばして大声を上げていた。
「おーい! もう出発していいかあー!」
 トラックには、古新聞が山のように積まれている。これから製紙工場へ運ぶところらしかった。
「でもさ、おじさん、アメリカ人の読む新聞でしょう。だから英語の新聞だよ、きっと。僕たち二人でぱっぱっと探しちゃうからさ」
「無理だね、もう、トラックに積み込んでしまった後だからね。製紙工場の方で探してもらうんだな」
 デンエモンは、早くパリさんたちが来てくれないかなと思った。しかし、パリさん達は、タクシーがなかなか拾えないのか、さっぱり姿を見せなかった。
「おじさん、じゃあ僕たち、その製紙工場まで行くよ」
「駄目だね。それより、こっちから電話をかけて頼んでやろう」
「大丈夫だよ、おじさん。僕たち、ほら、おじさんに売ってもらったこの自転車で、トラックを追いかけて行くよ。すごいんだよ、この自転車」
「ほう、これがあのオンボロかね」
 ヨセ屋の社長は目を丸くした。今までの怖い顔が、ここで急にやんわりと緩んだ。
 デンエモンがボロディン号のベルを鳴らすと、ベルはリンリンの代わりにルルルンルン、ルルルンルンと、まるで馬のくしゃみのような音を上げた。
「ほう、面白いな」
「このボロディン号がね、飛ぶようなスピードで僕たちをここへ連れて来てくれたんだよ」
「ふふふっ、ボロディン号か」
 社長の顔は、ここでまた一段とにこやかになった。
 ちょうどその時、ふいに積み上げられた冷蔵庫の影から、一人の男が現れた。カメラを提げた男だった。
「お邪魔します。わたし新聞社の者ですが」
 男はヨセ屋の社長にあいさつした。
「新聞社? どこの?」
「“こんにちは新聞社”です」
「なるほど」
「実はですね、うちの社では、今、『奥様、これがコツ』というシリーズをやっているんですが、今日は“くず物賢い売り方”というテーマでお話を伺いに参りました」
「写真も載るのかね?」
「当然です」
「どのくらいの大きさです」
「はがきの二倍ぐらいです」
「私の顔も写るのかね?」
「当然です」
「うん」
 社長はしばらく考え込んでいたが、何を思いついたのか、急にトラックに向かって声を張り上げた。
「おうい、トラック、ちょっと待てやーっ!」
 社長は、それから新聞記者に向かって言った。
「ちょうどいい所に来ましたな。実は、明日本国へ帰るというアメリカ人が、古新聞の中に、飛行機の切符の入った封筒を挟み、そのままうっかり、クズ屋へ売ってしまったらしいんです。ここにいる少年たちが、ボロディン号という石丸商会製のすばらしい自転車で知らせてくれたんですが、もうちょっとでも遅かったら、万事休す、トラックは出て行ってしまったところです。これからあのトラック一杯の古新聞を下し、一枚一枚念入りに封筒を探してあげようと思っているんです。なーに、日が暮れたってかまやあしません。……日米親善の役に立てば、こんな嬉しい事はありません。物をどんどん捨てることを教育してくれたのは、アメリカさんですからね。このぐらいのご恩返しはしなくっちゃ。第一……」
「はい、もう良く分かりました。早速取り掛かって下さい」
 新聞記者はじりじりしてきた。
 社長の命令で直ちに“古新聞捜査”が開始された。工場中の人が集められた。
 ようやく駆け付けたパリさんとミセス=ケリーも加わって、大騒ぎが始まった。
 トラックにコンベヤーベルトがかけられ、積み上げた古新聞がどんどん下ろされる。
「アメリカの新聞やーい!」
 最初はそんな事を言いながら、みんな、ワイワイやっていたが、ミセス=ケリーが、
「グリーンノバンドデ、“ジュジカ”、“ジュジカ”」
 と、両手の人差し指で、十字架を作ってみせたので、今度は、
「グリーンのバンドやーい!」
 と言いながら、探し出した。
 たちまちの内にグリーンのバンドでくくった新聞の束が発見された。
 ミセス=ケリーは、無事に封筒が出てくると、デンエモンとクロチュウの頭を代わる代わる抱きしめて涙をこぼした。
「サンキュー、サンキュー。アナタガタ、来年、アメーリカニ、来テクダサーイ。帰リノ、ヒコーキノ切符ダケ、ワタクシ、プレゼントシマスネ」
“こんにちは新聞”の記者は、デンエモンたちを抱くミセス=ケリーを何枚もカメラに収めた。
 ヨセ屋の社長がつまらなさそうな顔をしているので、社長とミセス=ケリーを握手させ、そこの所もパチリと一枚写した。

                    ☆

 あくる朝の“こんにちは新聞”には、次のような見出しの記事が、でかでかと載った。

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*  二少年のお手柄!           *
*   ピンチのケリーさんを救う!!     *
*                     *
*   ☆不思議なボロディン号の活躍    *
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 写真も大きく出ていたが、ヨセ屋の社長は写っていなかった。ミセス=ケリーがデンエモンの頭を抱きしめている写真である。『空飛ぶ自転車』などと、ボロディン号の事を書いていた。
『空飛ぶ自転車が、クズ屋のヨセ屋に到着すると、古新聞をほろ馬車のように高く積んだトラックが、今しもヨセ屋を出発するところである。“おーい! 待ってくれえ!”二少年は空飛ぶ自転車から、ひらりとトラックに飛び移った。人々があれよ、あれよと騒ぐうちに、少年たちは早くも切符の入った封筒を発見したのである』
『ピンチを救われたケリーさんは、少年たちの頬にキッスをして言った。“オー、ハッピーボーイズ! コノ自転車モ、ハッピーデス”……なお、この二少年を、ケリーさんは近くアメリカに招待したいと言っていた。“向こうへ行ったら、絵の勉強をしたい”と、二少年は嬉しそうな顔だった』
 デンエモン達が言いもしないデタラメが記事になっていた。肝心のヨセ屋の社長やパリさんのニュースはゼロ。その代わり、警察署長の言葉として、次のような事が最後に書かれていた。
『感心な少年です。しかし、自転車の二人乗りは危険だから、今後は十分注意して欲しい』

                    ☆

 新聞のおかげで、デンエモンは学校で騒がれた。
「デンエモン、僕にも乗せてよ」
「学校に乗って来て公開しろよ」
 わいわい言われるのを振り切って帰ってくると、クロチュウはまだ帰っていなかった。
『にじがおかへ行ってくる』
 デンエモンは紙切れにそう書くと、二人の家の境のロープに、荷札のようにひらひら括り付けた。
(今日こそは、あの謎の紙の秘密を解くんだ)
 デンエモンは、さっそくボロディン号に乗って出かけた。ペダルの調子はますますいいようだ。ルルルンルン、ルルルンルン、盛んにベルを鳴らしながら、間もなくボロディン号は虹ヶ丘団地の入り口に差し掛かった。
(B6って、どの辺だろうなあ?)
 どれもこれも同じような四階建てのアパートがずらりと並んでいるので、デンエモンは顔を上げて眺め回した。
「あっ!」
 その時、デンエモンが小さく叫んだ。
 それもそのはず、ブレーキもかけないのに、急にボロディン号が止まったのだ。見ると、タイヤの前に一本のロープがぴいんと張られているではないか。上ばかりきょろきょろ見ていたので、とんだ失敗だった。
「降りるべし!」
 途端に声がかかり、ばらばらっと、わんぱく小僧らしい五、六人が躍り出てきた。
 どうやら、そばの公衆電話の陰に潜んでいたようだ。
「こんにちはー」
 デンエモンは、一番のっぽに向かって挨拶した。
「おい、お前、どこから紛れ込んで来たんだい。ここはね、インターチェンジなんだぞ。ここから先は有料道路だ」
「えっ? 有料道路?」
「そうさ、通行料金がいるんだ」
 デンエモンは、きょとんとしてノッポの顔を見つめた。ノッポの野球帽には、数えきれないほどたくさんのバッジが付いていた。
 すると体は小さいが耳たぶだけがばかにでっかい一人の子が、さっとプラカードを突き出した。
「おれ、虫なんか持ってないよ。だけど、規則だったら、きっと後で持って来るよ。今日はとっても急いでいるんだ」
 デンエモンが自転車を降りて言うと、
「駄目、後でなんて言って、今まで誰も持ってきた奴なんていないもん」
 ノッポがそう答えた。
「じゃあいいよ。管理人のコスイジャンって人に話すよ」
「コスイジャン? コスイジャンっておれだよ」
 ノッポは鼻の下をこすりながら言った。
「おい、ポキ!」
「はーい」
 一人の子が返事をした。
「ポキポキ!」
「はーい」
 もう一人の子が返事をした。
「ポキとポキポキは、この自転車を追っ払っちゃえ!」
「オッケー」
 ポキとポキポキは、それぞれロープの端を持つと、縄跳びのようにぶんぶん回してデンエモンを追っ払い始めた。
 どころがその時、プラカードを持った子が、ふいにこんなことを言い出した。
「あれえ……コスイジャン、この自転車って、ほら、今朝の新聞に載っていた“空飛ぶ自転車”じゃない?」
「えっ? ほんとか?」
「だって、この馬がちゃんと写っていたもん」
「うーん」
 コスイジャンは、ポキとポキポキにストップをかけると、ボロディン号に近づき、観察を始めた。
「ほんとだ」
「かっこいい馬」
 みんなはボロディン号を囲むと、立ったりしゃがんたりして、熱心に観察した。
「これ、本当にそうなのかい?」
 コスイジャンが、ちょっと声を震わせて聞いた。
「うん、そうだよ」
 デンエモンは胸を張って言った。
「だったらさ、一回でいいからちょっと乗せてくれよ。通行料はいいからさ」
「嫌だ」
「嫌?」
「通せんぼする奴なんか嫌だ!」
「ふん、嫌ならいいや。なんだ、こんなおんぼろ。“空飛ぶ自転車”なんて、嘘っぱちに決まってらあ。悔しかったら、あの噴水の周りをくるくる回ってみろ」
 コスイジャンは、顔を真っ赤にして向こうを指さした。団地の中ほどが小さな遊園地のようになっており、噴水がきらきら光っていた。
「よし、おれ、あの周りを乗ってみせるよ。空なんかは飛ばないけど、凄いんだぞ、この自転車」
 デンエモンは、さっそく噴水のそばまでボロディン号を走らせた。
 そこは、水連が浮いた浅い池になっていた。ぐるりは十センチぐらいの細いコンクリートで囲まれている。ボロディン号が、そのふちに乗せられた。
「しゅっぱーつ!」
 デンエモンは、一気にペダルを踏み出した。左へ左へと、ボロディン号はぴったりコンクリートに吸い付いて走り出した。ちょっとでも運転を誤れば、たちまち池へドブンである。
 ボロディン号は、鮮やかに走った。
 デンエモンの身体が、ぐいと水の方へ傾くと、見物の子供たちは、思わずつばを飲み込んだ。
「わあ! 手放し運転だあ!」
「サーカス、サーカス!」
 コスイジャン達は、すっかり驚いてしまった。ボロディン号のハンドルが左利きで、手放し運転しても、すいすい回る事を知らないのだ。
 ボロディン号は、とうとう噴水の周りを二周もしてしまった。
 団地のいたずらっ子たちも、もうこうなれば、文句のつけようがない。
「オッケー、もういいよ、ここを通り抜けてもいいよ。だけど、急いでいるって言ってたけど、どこへ行くつもりなんだい?」
 コスイジャンが、指の先でハンドルにちょっと触ってみながらこう言った。
 デンエモンは、団地の番号を言って場所を訪ねた。すると、痩せっぽちのポキとポキポキが、ぎょっとした様子で顔を見合わせた。
「B6の303号だったら、それ、僕たちのうちだよ」
 どうやら二人は兄弟らしい。
「本当? じゃ、君たち角野君だね、ね、そうだろう。どっちかが“まもる君”だろう」
「違う」
「違うの?」
「うん、僕たちは中村だよ」
「変だなあ」
「だって、僕たち、ずっと中村だもん。生まれた時から中村だもん」
 なるほど、角野君だったら、このボロディン号に見覚えがあるはずだ。デンエモンは困ってしまった。
「僕、ママに聞いて来てやるよ。か、ど、の、だね」
 兄さんのポキの方が、ぱっと駆け出してくれた。そして、五分も経たぬ内に戻って来た。
「わかったわかった! その人わかったぞ! 角野さんという人ね、僕たちがここへ来る前、303号に住んでいた人なんだって」
 ポキは、ふうふう言いながら報告した。
「どこかへ引っ越して行ったの?」
「うん、割合近くらしいよ、この向こうの、光ヶ丘団地の近くなんだって。七里(ななさと)町という所へ越したんだって」
「ふーん、番地は分からない?」
「うん、番地はママも忘れたって。だけど、ええと……なんだっけ……お宮の近くだとか言ってたよ」
 ここまで聞けば、もうこの団地に用はない。デンエモンは、ひらりとボロディン号に飛び乗った。

                    ☆

 七里町は、とっても広い町だった。
 所々に、まだ畑などが残っている広い町だった。ばかに曲がり角が多かった。
 デンエモンは一生懸命自転車で走り回ったが、お宮はどこにも見当たらなかった。
「七里町にはお宮は無いよ」
 誰に聞いてもそういう返事だった。
 仕方がないので、しまいには自転車を降り、一軒一軒、表札を見て歩いた。
(駄目だ、もう帰ろうかな)
 デンエモンはがっかりしながら、それでもなお歩き続けた。字がほとんど消えかかったような表札が一つあった。
 ボロディン号のスタンドを立て、デンエモンは荷台の上に上がって、その表札を覗き込んだ。
 すると、背伸びをしていたデンエモンの後ろで、突然キーッという自転車のブレーキの音がした。
「おい、デンエモン、何やっているんだ」
 振り返って見ると、クロチュウと、それから番傘のパリさんが立っていた。
「あれっ? どうして分かったの?」
 デンエモンは、ボロディン号から飛び降りた。
「うん、書置きを見て追いかけたんだ。虹ヶ丘の子が、デンエモンの事を色々教えてくれた」
 クロチュウが、にこにこしながら言った。
「へえ、パリさんに乗せてきてもらったのか。パリさん、自転車持ってたの?」
「ああ、これはね、チンブンスキーさんの自転車だ。今日はあの人、お休みなんだよ」
 デンエモンは、そこで今までの事を詳しく説明した。話を聞いていたパリさんは、しばらく考え込んでいたが、急にパリパリっと音を立てて傘を開いた。
「どうしたの、パリさん」
「はははっ、この傘がぱっと開く時は、いいアイディアが浮かんだ時さ。なあ、デンエモン。虹ヶ丘の子供はね、きっとお宮とお寺を間違えて教えたんだ。いや、子供じゃなく、親の方が勘違いしたのかも知れん。確かこの町には、“大宝寺”という名高いお寺があったはずだ」
「へえ、凄い勘だなあ、パリさん」
「そうさ、オレはね、お酒さえ飲まなかったら、とっくに総理大臣になっていた男さ」
 パリさんの勘はずばりだった。
“大宝寺”の門前に、青い屋根の同じような形の家が五軒ばかりあり、その中の一軒が角野さんと言う家だった。
 芝生を植えた、小さな庭のある家だった。
 玄関のベルを押すと、くりくりした目の坊やが、はじき出されたように飛び出してきた。
「ぼく、四才でちゅ、ぼく四才でちゅ」
 坊やはデンエモン達の前に立つと、何も聞かない先にそんな事を言った。
「まあまあ、困った子」
 続いて、手を拭きながらお母さんらしい人がばたばたと出て来た。
「ごめんください、突然で御座いますが」
 パリさんがデンエモンに替わって、大人の言葉でうまいこと話してくれた。
 話はすぐに通じた。
 ボロディン号は、やはりこの家から屑屋に売りに出されたものだった。
「まあ、そうでしたか。今朝の新聞はちらっと見ましたが、まさかあの自転車が、まもるの乗っていた自転車だとは夢にも思いませんでした。まもるが知ったら驚くでしょうねきっと」
 お母さんはそう言ってから、
「お兄ちゃん、ちょっと、ちょっと!」
 と、奥の方に向かって叫んだ。
 すぐに長ズボンの中学生が現れた。これが問題の角野まもる君だったのである。
「この、まもるが中学になったもんですからね、それで大人の自転車を買ってやりましたの。あの自転車は、もうガタガタで乗れないなんて言っていましたのに、ようく修繕なさいましたのね。
 お母さんは、それからまもる君に向かい、『うしわかまるこないとこわいぞ』のカードの話をした。しかし、ご本人、まもる君は、全く心当たりが無いようであった。
「まあ、せっかくいらっしゃったのにね。じゃあ、こうしましょうか。あの自転車はね、実は親戚の子が、ながーい間物置にほっぽらかしてあったのを貰い受けたものなんですの。もうずいぶん前の事なんですけど……。その子に電話してみましょうか、しげるちゃんという子ですの。今はもう、お巡りさんになっていますのよ」
「お巡りさん?」
 デンエモンとクロチュウが、びっくりして声を上げた。
「ほほほほっ、おかしいでしょう。でも、お巡りさんだって子供の時があったんですのよ」
 お母さんは、急いで電話をかけに、奥に行った。まもる君は、サンダルをつっかけると、ボロディン号を見に表へ飛び出して行った。きっと、懐かしい気持ちになったのに違いない。
「ぼく四才でちゅ、ぼく四才でちゅ」
 弟の坊やが、パリさんに向かって、また同じことをしきりに繰り返した。

                    ☆

 まもる君のお母さんが電話をしてくれたのは、お巡りさんの勤め先だ。警察だ。
 すると、しげるというお巡りさんは、交通機動隊なので、今は町へ交通整理に出かけているらしい。
「僕、これからすぐ、そのお巡りさんを訪ねます」
 デンエモンは、きっぱりとこう言った。
「あら、でも、ここからは、ずいぶん遠い所なのよ」
「僕、大丈夫です。空飛ぶ自転車で先輩を探します」
「ほほほ……先輩は良かったわね。じゃあ、私もう一度、機動隊へ電話しておきますからね。警察で、しげるさんの場所を確かめて行ってちょうだい。とっても背の高い人だからすぐに分かりますわ」
 デンエモンはさようならをすると、さっそく七里町を後にした。
 クロチュウはいいとして、パリさんまでがついて来るという。
「二人乗りはいけないよ」
 と、デンエモンが言うのだが、パリさんはけろっとした顔である。
「オレ、二人乗りが大好きなんだ。これさえしなかったらとっくの昔に、総理大臣になっていた男さ」
 パリさんは子供と遊ぶのが大好きらしい。いくら年をとっても、心はいつまでも子供なのだ……。
 三人がしげるさんらしいお巡りさんを見つけたのは、それから二時間も経った後の事である。
 賑やかなマーケットのある四つ角で、一人のお巡りさんが夕方のラッシュの交通整理をやっていた。『事故の多い地点』という立て看板が立っている。
「わあっ、パリさん、お巡りさんが馬に乗って交通整理をやってるよ!」
 デンエモンが真っ先に発見したのだ。
 パリさんもクロチュウも驚いて、馬上を見上げた。
「うん、背が高そうな人だ」
 パリさんが太鼓判を押した。
 馬に乗ったお巡りさんとは珍しい。白い手袋をはめ、二本線の入った腕章を巻いたお巡りさんは、笛を口にくわえたまま、体操でもするように絶えず両手を動かしていた。やがて交代の時間が来て、次のお巡りさんと替わった。
 デンエモンは、パッカパッカとひづめを鳴らして帰っていく馬を追いかけた。
「お巡りさーん!」
 デンエモンは馬と一緒に、ボロディン号を走らせながら声をかけた。
「おう、なんだね」
 お巡りさんの太い声が頭の上から降って来た。
「お巡りさん! この自転車覚えてない?」
「自転車?」
 途端に、馬の足がぴたりと止まった。
「さあ、何のことかな」
「お巡りさん、しげるさんでしょう」
「えっ? どうして知っているんだ。君だれ?」
 お巡りさんは、馬を歩道の方へ寄せ、じっと自転車を見ていたが、マスコットの馬に気がつくと、急に目が輝いた。
「あれれっ?」
 お巡りさんは、ぱっと横っ飛びに馬から飛び降りた。
 自転車を押したパリさんとクロチュウが駆け付けた。
「訳を話しましょう、訳を話しましょう」
 パリさんが中に割り込んで、ペラペラしゃべり始めた。
 やはり、このお巡りさんがしげるさんだったのだ。
「うわあ、こいつは参ったな」
 お巡りさんは、デンエモンが『うしわかまるこないとこわいぞ』の紙を見えると、真っ赤な顔になって笑った。
「お巡りさん、これ何の意味?」
「うん、これか。これはね、お巡りさんの子供の時のガールフレンドの手紙なんだよ」
「手紙なの? これが」
「そう、さくらちゃんという子だったかな、自分のお誕生会に来いと言ってね、来ないと後が怖いよって、脅かした手紙なんだ」
「うしわかまるって、何のこと?」
「はははっ、お巡りさんは、牛田しげるだろう、だから、うしわかまるって渾名だったんだ」
 デンエモンは、頭の中でクラスのみっちゃんを、クロチュウは頭の中でクラスのさっちゃんを思い浮かべた。さくらちゃんという子は、きっと、みっちゃんやさっちゃんのような子だろうと、それぞれ思った。
「それで、お巡りさんはお誕生会へ行ってやったの?」
「行くもんか、女の子のお誕生会なんかに……」
「ふーん、じゃ、あとで怖くなかった?」
「ははは……そんなこと、すぐに二人とも忘れてしまったよ。ただお巡りさんはね、その手紙は捨てないで、交通安全のお守りにして工具袋の裏へそっと縫い付けておいたんだ」
 お巡りさんは、とても懐かしそうだった。馬は小さい頃から大好きだったという。
 デンエモンは、カードの秘密が分かってみると、ちょっとがっかりした。もっともっと、大事件に関係のある謎だと思っていたのだ。
「ははは……がっかりしたのかい」
 お巡りさんは、デンエモンの心の中を見通したように笑った。
「そうだ、一つ思い出したぞ。ほら、その左のハンドルの握りをすぽんと抜いてごらん、面白い物が入っているはずだ」
 デンエモンは言われた通り、プラスチックで出来た握りを引き抜いた。
 すると、どうだろう。パイプになったハンドルの中から、奇妙なものが出てきたのである。
「わあっ、巻物だ! これ何?」
「馬のせ山で化石を探した時の秘密の地図なんだ。目のマークの所から入って行くんだ。ちょっと遠いが、今でもあるかもしれん」
「へーえ、こうら山の方か」
 デンエモンは、すっかり嬉しくなってしまった。やはり、謎のカードを追いかけた甲斐があったのだ。ボロディン号は、確かにハッピーを運んでくれる自転車だと思った。うしわかまるのカードは、お巡りさんに返してあげることにした。
「有難う、じゃあ、さよなら!」
 三人は、馬で帰っていくお巡りさんの後ろ姿をいつまでもじっと見送っていた。



おしまい


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